5 不安の影
次の日。美桜は七時十分の電車に乗って、学校に向かっていた。
朝一登校は美桜のポリシーである。誰もいない教室の窓を開けて、電気をつけて、ちょっと机の並びを正したりしていると、自分が優等生のように思えてくるから不思議だ。
そんなわけで、美桜は今日も変わらず朝一登校をしている――
しかし、教室に行くとすでに、丸い小さな人影があった。あれ、と美桜は首を傾げる。
「……野口さん?」
丸い影の正体は、黒いおかっぱ頭の野口さんだった。
この時間に来ればいつも、あと十分は人は来ないのに。朝練だろうかと美桜は首をひねる。でも確か野口さんって文芸部じゃ……。
「おはよう。野口さん早いね。どうし……」
どうしたの? 問おうとしたところで、視線をそらされた。えっ、と胸に針が刺す。もしかして、無視された?
聞こえなかったはずがない。野口さんは美桜のことを、途中まで見ていたのだから。……見ていた、というより、睨んでいた、といった方が正しいかもしれないが。
野口さんはそのまま手元の文庫本に視線を移すと、二度と美桜を振り返らなかった。
嫌なモヤモヤが、美桜の胸を支配する。
そっと静かに席について、美桜は眉を下げた。
野口さんのことは誰にも、琴音にも言わずに、美桜はその日の授業を乗り切った。
言ったところで、悪口になったりしたらまた睨まれてしまう。
そんなわけで、地学の授業中も、先生の話を聞く余裕なんてまるでなかった。だから、先生の首筋に赤紫の痣を見つけたときも、美桜は何も思わずにぼうっとしたいた。
授業が終わり、教科書をまとめて地学室を出ようとしたときだった。
教室の前の方で、先生が野口さんを呼ぶ声が聞こえ、美桜はびくりと立ち止まった。
「この前質問もらっただろ? そこの解説、今からでもいいか」
「はい。お願いします」
ぴょこぴょこと教卓の側まで歩いて、野口さんはちょこんと頭を下げた。可愛いわぁ、と美桜の隣で琴音が呟く。
そういえば、野口さんはいつも授業が終わったあとに、先生に質問しに行っていた。真面目だなぁ、とただ思っていたけれど、あんなことがあったあとでは、もしかして野口さんも先生のこと好きなんじゃ、と考えずにはいられない。
美桜の不安げな視線に気付いたのか、琴音が気を遣って早く行こうと急かしてくる。うん、と応じて教室の扉を閉める寸前、野口さんがふわりと笑う顔が見えた。
「…………」
教室へ戻る道すがら、ずっと眉を下げている美桜に、琴音はたまらず話しかけた。
「美桜っ、気にすることないって。野口さんが質問しに行ってるのなんて前からじゃない。きっと他意はないわよ。ねっ」
「でも、琴音も野口さんのこと可愛いって言ってた」
「美桜……」
思わず口を衝いて出た厭味に、美桜ははっと口を塞ぐ。琴音が心配そうにこちらを見ていた。
「琴音、ごめん。今のは完全に八つ当たりだ……」
「ううん、いいって。不安になる気持ちも分かるし」
そう言って琴音は美桜から視線をずらす。そっか、と美桜は再び俯いた。
その日のSHRで、担任からさらにショッキングなことが発表され、美桜は愕然とした。
「修学旅行の部屋割りだが、色々面倒だから名簿順にしたぞー。五人ずつなー」
当然、教室はブーイングの嵐。しかし担任は取り合わない。
「これは学年で決まったことだから、新人の俺に言っても無駄だぞ。文句があるなら学年主任に言って来い」
「えー、やだよ主任怖いもん! あーあ、颯太と一緒に眠れないなんて、俺寂しくて死んじゃうー」
村田が言うと、クラスがわっと湧いた。お前らできてたのかよー。まじか、颯太おつかれ。違ぇって、おい春樹、変なこと言うなよ!
男子たちのそんなやり取りを見て、琴音やクラスの女子も明るい笑い声を上げる。担任も呆れながら笑う。
そんな中美桜が一人、眉を思いっきり下げて落ち込んでいた。
名簿順で、五人ずつ。古川美桜と野口沙也香は、同室だった。