プロローグ
セーラー服の襟を正しながら、四階への階段を上る。夏休みの学校は、部活で汗を流す生徒や自習に来た生徒で溢れていた。それぞれがそれぞれの目標に向かって走る夏は、青く逞しく輝いている。その熱は古い校舎を広く包み、今にも燃えんとしていた。校舎のあちこちに散らばった熱気の戦士たちは、額に露する汗も気にせず走り続ける。
しかしこの四階への階段を上る生徒は、あたし以外に誰もいない。
教師でさえもあまり立ち寄らない、この学校で唯一孤立した場所。
四階にはただひとつの教科教室を除いて、他に何もなかった。階段を上って見えてくるのは、使い捨てられた資料と、鉢植えの花。あたしにとってすっかり馴染みのあるものとなったそれらは、今日もあたしをぶっきらぼうに迎えてくれる。
「せーんせ」
開けっ放しのドアから顔を出して、あたしはそこにいる人影にウインクする。顕微鏡を覗き込んでいた先生が顔を上げた。
「古川」
生真面目な声であたしを呼ぶ先生は、まだ“先生”が抜けきっていなくてなんだか可笑しい。あたしは周囲に誰もいないことを目で伝えると、先生の側に歩み寄った。
普段滅多に使われない地学準備室。教科係さえ滅多に入ることのない準備室は、あたしと先生の逢瀬部屋のようなものだった。さまざまな資料や本が雑多に並んだ机や、資料が分類されていない本棚。先生の生真面目な性格からは想像に難いこの部屋を、あたしはとても気に入っている。
「何見てるの?」
頬がくっつくくらい先生に近づいて、あたしは言う。先生が緊張しているのが気配で伝わってくる。先生を独り占めできるのはあたししかいなくて、この雑多な部屋も、土臭いにおいも、すべてあたししか知らない。
先生は少し顔を背けるようにして、顕微鏡をいじる。
「鉱物を見ていた。古川も見る?」
「興味ない」
素っ気なく返すと、先生の手から顕微鏡を離して端にどけた。先生は無表情のままで、机に座るあたしを見つめる。
「……古川」
「咲希って呼んで。誰もいないんだから」
唇を指でなぞれば、先生の瞳が熱を帯びる。汗ばんだ手が頬に添えられ、そこが朱に染まるのが分かった。
夏休み、外で会うと人に見つかるからと、わざわざこの地学準備室で繰り返してきた秘密の逢瀬。何度触れようと満足することなど決してなくて、その熱は増すばかりだった。これから夏が終わって冬が来ても、地学準備室は熱い夏のまま。あたしと先生の青春はここにあるのだ。
「古川、……」
「咲希でしょ? 先生」
「咲希……」
名前を呼ばれ、あたしの中の何かが弾ける。唇を重ねると、先生の手が頬から後頭部に伸びた。
最上階の蒸し暑い地学準備室には、クーラーも扇風機もない。部屋の熱を冷ますのは、ときどき吹く生ぬるい風のみで、それさえも今日はあまりやってこない。三階の音楽室からはクラシックの上品な曲が流れ、運動場からは運動部の掛け声が規則的に聞こえてくる。それらは同じ校内のどこかにありながら、しかしこの地学準備室とは程遠い場所で起きているような錯覚を覚えた。
「咲希」
顔が、頭が、指先が、熱を求めて先生にすがりつく。汗のしみこんだ先生のシャツをつかみ、離れられないようにさらに熱く唇を重ねた。
「ねえ、先生……もっと」