満員電車の調律師
いつも通りの混雑した電車内。シートに座った若いOLが、平然とコンパクトを開いて化粧を始めた。
パタパタとパフを叩く音が響き、一糸乱れぬ手つきでアイラインを引く。車内に咽かえるようなパウダーの匂いが充満する。周囲の視線は厳しい。流れてきた霧のような、それが放つ匂いに、三つ前の駅から乗ってきた中年男性の、左目の眉があからさまにピクリと跳ね上がった。誰もがイラつき、けれど誰も声には出さない。
満員電車のいつもの息苦しさを、更に息苦しくするOL。それを少し離れた場所から遠巻きに見ていた、同じ年ごろの女性がいた。その女性が、携帯電話を持つ手を持ち替えた、その手を小さく持ち上げ、OLを指さした。それが視界に入ったOLは「は?なに?あの女、人に指さして…」と思うや否や、女性が指をパチンと鳴らした。
次の瞬間、OLの手がピタリと止まった。
「うわーくっさ、ふざけるなよぉ」
「なにこのチープな化粧品の臭い。若いよね?昭和?」
「常識がないな…」
「お育ちが…親の顔が見たい…というより、親もこんなんか?」
「こんなこと、うちの娘もまさかやってないわよね…」
「30分早く起きようっていう考えにはならんのかね」
「いやいやいや、そんなに化粧してもこいつの顔じゃ無駄だろ」
「こういう常識無い女を雇っている会社、笑える」
「会社に着いたらトイレですりゃいいのに」
「なんで今日はリモートでないかな…最悪」
「公開処刑を自分の顔面でする女、いーねー」
「電車内で化粧とか、パンまでかじり始めるヤツとかもいるけど、
こういうヤツが勤めている会社の人事部の人間に目撃してて欲しいよな」
「こういうとこで化粧する人って、ほんっと~に意味わかんない…」
車内の乗客たちが押し殺していた心の声が、津波のようにOLの脳内へと、どっと押し寄せてきたのだ。自分の悪口が、何十人分も直接脳みそに響く恐怖。OLは顔を青ざめさせ、震える手で化粧品をバッグに押し込むと、次の駅で逃げるように飛び降りていった。
開いたドアから、冷えた電車内へムワッとした暑苦しい風が吹き込む。OLが飛び降りた駅は他にも降車した乗客が多く、指を鳴らした女性は、空いたシートの前にゆっくりと歩み寄り、ぽつりと言った。
「……皆の声を聞いて欲しかったのに」
それは逃げ去ったOLへの言葉なのか、それとも、心の中で罵倒し合うだけで決して本音を口にしない、この満員電車に乗っていた乗客全員に向けられた言葉なのか。
彼女は静かに微笑み、空いた席へと腰を下ろした。




