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「その黄色いゴミ箱を持って消えろ」と100均卵料理グッズを見下して追放した王国が、一年後に俺を呼び戻すまでの話  作者: 藍帽


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9/11

琥珀の震えと、審査台の沈黙

 砦を出て六日。王都方面に向かう幹線道路は、荷馬車の往来が多く、道幅も広い。


 エルナが迷わずその道を選んだのは、砦を出た翌朝のことだった。シュウが「どちらへ」と聞くと、「なんとなく、こちらへ」とだけ言った。理由は言わなかった。シュウはそのまま歩いた。この旅に理由はない。これもいいだろう。


 その日の昼前、二人は街道沿いの中規模の街に入った。


 広場に幟が立っていた。


 『第十二回・王都街道 卵料理選手権』


 王都へ続く街道沿いの五つの街が持ち回りで開催する、年に一度の催しらしい。今年の課題は「卵を使った一品」。参加者が各自の技術で料理を作り、審査員が評価する。優勝者には街一番の食材商から一年分の卵が贈られる。


「……出てみますか」とエルナが言った。


「そのような催しに興味はないですが」


「腕試しというものですわ」エルナがシュウを見た。「それに、一日くらい寄り道してもいいではないですか」


 シュウは幟を見た。それから受付の係を見た。欠員が一名出ているらしく、困り顔で立っていた。


「そうですね。構いませんよ」


---


 参加者は全部で八人。地元の宿の料理番、市場の惣菜屋、腕自慢の主婦、修行中の若い料理人。それぞれが自前の鍋と道具を並べ、真剣な顔で準備を進めていた。


 広場の周囲にはすでに人だかりができていた。年に一度の催しだ。子供たちが最前列に陣取り、屋台の親父が首を伸ばしている。


 審査員席には三名が着いていた。中央に座るのが、街の有力者にして食通として近隣に名の知れた男、ハミルトン卿だ。六十歳前後に見える。白い顎鬚、太い指、分厚い金の指輪。その目が、参加者を一人ずつ見定めるようになめまわす。


「今年も期待外れならば、私の出席は来年で終わりにする」


 卿が低く言った。隣の審査員二人が苦笑いで頷いた。


 エルナがシュウの隣で小声で言った。「……あのお方、毎年そう言っているそうですわよ」


「そうなんですか」


「毎年来ていますのよ。たぶん楽しんでいますわ」


---


 競技が始まった。


 一人目の料理番が流れるような手つきでだし巻き卵を仕上げた。「悪くない。だが昨年と変わり映えしない」。二人目は温泉卵。「技術は認める。目新しさがない」。卵焼き、スクランブルエッグ、煮卵の盛り合わせと続いた。どれも丁寧で、どれもきれいだった。だが、ハミルトン卿の表情は動かなかった。


 観客たちも、次第に静かになっていた。良い料理だ。だが何かが足りない。そういう空気が広場に漂い始めていた。


 シュウの番が来た。


 エルナが作業台の傍らに立った。何も言わず、自然な位置に。このあと、シュウが道具を取り出すたびに、器を動かし、材料を整えていく。旅の間に覚えた立ち回りだった。


 シュウが鞄から取り出した道具は二つだった。


 一つ目は、透明な蓋つきの小ぶりな容器。底が丸く、蓋にいくつかの小さな穴が開いている。【レンジプリンカップ】。もう一つは、なめらかな曲線を描く金属製の型。底が丸く、縁がわずかに広がっている。【プリン型・二個セット】。


「……なんだ、その道具は」ハミルトン卿が言った。


「プリンを作ります」


 広場が、ざわりと揺れた。


「プリン?」卿が眉を上げた。「なんだそれは?卵料理か?」


「プリンは卵料理です」シュウが答えた。「卵と牛乳と砂糖を合わせ、熱で固める。固め方の精度が全てを決める。温度が一度でも高ければ、表面に無数の気泡が立ち、滑らかさが失われます。これほど卵の性質に正直な料理は、他にありません」


 卿はそれ以上は何も言わなかった。ただ目が、少しだけ細くなった。


---


 シュウは小鍋で砂糖を熱した。砂糖が溶けて色づき始める。薄い琥珀、深い琥珀、そしてほんのわずか焦げの色がにじんだ瞬間に火を止めた。熱湯を少し加えて伸ばすと甘苦い香りが広場に漂った。


 最前列の子供たちが鼻をひくひくさせた。後ろの方から「なんの匂いだ」という声が聞こえた。


 エルナがプリン型を静かに差し出した。シュウがカラメルを流し込む。型を受け取って、次の器を出す。言葉なしに動いていた。


「……あの旅人の連れ、手慣れてますね」と観客の誰かが言った。


 エルナの耳にも届いていたが、作業台から目を離さなかった。


 卵液を型に流す。湯の張った大きな器の中に置き、魔導炉へ入れる。低温でゆっくりと熱を通す。


 時間がかかった。他の参加者はとっくに仕上げを終え、審査を受けていた。シュウだけが、まだ待っていた。広場の空気が少し締まった。


---


 頃合いだ。


 型を取り出した。表面を指先でそっと触れると、ぷるり、と揺れた。固まっている。だが固すぎない。


 型の縁に薄刃を沿わせ、一周させる。エルナが皿をすっと差し出した。シュウが型を被せて、ゆっくりと逆さにした。


 広場が、静かになった。


 一秒。


 ふわり、と外れた。


 琥珀色のカラメルが、まず流れた。型の底に溜まっていたそれが、重力に従って皿の上をゆっくりと広がり、濃い琥珀色の池を作った。その中央から、プリンが現れた。


 丸みのある、滑らかな塊。


 誰も声を上げなかった。出てきた瞬間、広場が息を止めた。


 表面に気泡が一つもない。なめらかな曲面が、午後の光を一枚の鏡のように反射している。カラメルの琥珀色が周囲を縁取り、プリンの淡い黄色と境界でゆるやかに溶け合っていた。揺れていた。ほんのわずかに、まだ揺れていた。生きているような震えだった。


 甘苦い香りが、遅れてやってきた。


 最前列の子供が「……きれい」と言った。


 それをきっかけに、広場がどよめいた。


「なんだあれ」「気泡が一つもない」「ガラス細工みたいだ」「いや、食べ物だろう」「あのつやつや、触ったらどうなる」


---


 ハミルトン卿がスプーンを持った。


 銀のスプーンがプリンの表面に触れた瞬間、吸い込まれるように沈んだ。一切の抵抗がない。すくい上げた断面には気泡の穴一つなく、まるで磨き抜かれた黄色の貴石を切り出したかのようだ。


 卿はそれを、宝物を扱うような手つきで口に運んだ。


 刹那、卿の目が見開かれ、次いでゆっくりと瞼が閉じられた。


「…………っ」


 噛む必要さえなかった。舌の上に乗せた瞬間、プリンは体温でほどけるように、濃密な液体へと還っていく。

 最初に訪れたのは、驚くほど純粋な卵の甘みだ。雑味のない滋味が舌を包み込み、そこへ焦がしカラメルのほろ苦い香りが、鮮烈な閃光となって突き抜ける。

 

 牛乳のまろやかなコクが全体を優しくまとめ上げ、三つの要素が溶け合いながら、絹の滑り心地で喉の奥へと滑り落ちていく。飲み込んだ後には、鼻腔を抜ける残り香と、心まで洗われるような清冽な温かさだけが残った。


 二口目。消えるような口溶けに、卿の喉が微かに鳴る。

 三口目。四口目。

 一口ごとに、六十年積み上げてきた食の経験が、音を立てて書き換えられていく。


 皿が空になった時、卿は震える手でスプーンを置いた。それから長い間、天を仰いだまま言葉を失っていた。

 卿がゆっくり言った。


「茹でた卵、焼いた卵、蒸した卵、漬けた卵。あらゆる形で食べてきた。だが」


 一呼吸。


「卵がこれほど、静かな料理になるとは知らなかった」


 ハミルトン卿がシュウを見た。その目から、最初の値踏みする色がなかった。


「優勝だ。異論は認めない」


 広場が、どっと沸いた。


 子供たちが飛び跳ねた。観客が拍手した。惣菜屋の主人が「あんな料理見たことない」と叫んだ。参加者たちも、悔しそうにしながら、それでも拍手していた。


---


 歓声が収まらない中、ハミルトン卿が立ち上がり、作業台のシュウに向かって歩いてきた。


「旅人よ」


「はい」


「名は」


「シュウといいます」


「どこの出身だ。どこで修行した」


「どこの出身でもありません。知識として持っていました」


 卿が少し間を置いた。「……王都の料理人か」


「違います」


「ではどこの」


「街道を歩いています」


 卿はシュウをしばらく見た。それからエルナを見た。エルナは道具を片づけながら、自然な顔でそこにいた。


「……その女は助手か」


「一緒に旅をしています」


「なるほど」卿が顎鬚を撫でた。「シュウよ。私の屋敷に来ないか。料理長として迎える。給金は弾む。道具も材料も好きなだけ用意する」


 広場がまたざわついた。ハミルトン卿が自ら声をかける場面など、この大会では前例がなかった。


 シュウは少し考えた。振り返った。


「……エルナ」


 エルナの手が、一瞬止まった。


「……はい」


「次の街まで、何日でしたか」


 エルナが一拍置いてから答えた。「……この道を真っ直ぐ行けば、四日ほどかと」


 シュウはハミルトン卿に向き直った。「ありがとうございます。ただ、行くところがあるので」


 卿はしばらくシュウを見た。それから短く笑った。皺の深い、本物の笑い方だった。


「ならば仕方がない」


 卿が懐から名刺を取り出した。「気が変わったら来い。いつでも待っている」


---


 広場を出る時、人だかりが道を開けた。子供たちが「また来てください」と言った。惣菜屋の主人が「あのプリン、作り方を教えてくれないか」と言った。宿の料理番が「道具はどこで手に入る」と言った。シュウは「また通りかかることがあれば」と答えて、歩いた。


 宿に向かう道の途中で、エルナが前を向いたまま言った。


「……さっき、エルナ『さん』ではなかったですわ」


「そうでしたか」


「ええ、そうでしたわ」


 それ以上何も言わなかった。シュウも何も言わなかった。ただ、エルナの足取りが、ほんのわずかだけ軽くなっていた。


---


 宿を取ってから、残り生地でもう一つ作った。エルナと並んで食べた。


 エルナは一口食べてから、しばらく動かなかった。それから空になった皿をじっと見た。


「……消えますわ。でも温かいですわ」


「卵の温度が残っているからです」


「……なんか、ずるいですわ」


「ずるい?」


「消えたのに、ちゃんといる。そういうのが、一番ずるいですわ」


 シュウには意味がよく分からなかった。ただ、エルナが言い終わってから少し黙っていた。その横顔が、プリンのことを言っているのか、別のことを言っているのか、判断がつかなかった。


---


 翌朝、街を出た。エルナと共に行く。


(この国はまだ知らない。100円の本当の価値を)


---


 同じ頃、王都の公爵邸では、ベアトリーチェが三枚目の報告書を読んでいた。


 今回は情報が細かかった。街道沿いの大会で優勝したこと。プリンという菓子で審査員を黙らせたこと。ハミルトン卿が料理長として引き抜こうとして断られたこと。


 そして最後の一行。


 『同行者の元聖女は、王都方面への道を選び続けているとの目撃証言あり』


 ベアトリーチェは、その行を二度読んだ。


 王都方面への道を、選び続けている。


 追放されたのなら、王都に戻ることは危険なはずだ。それでも選んでいる。同行者に言わずに、なんとなくという顔をして。


 ベアトリーチェは報告書を閉じた。扇子を手に取り、少し考えてから、机の引き出しにしまった。


 ……追放されても、戻ろうとしている。


 理解できない。怖くはないのか。知りたくなった。元聖女がどういうつもりなのか。

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