琥珀の震えと、審査台の沈黙
砦を出て六日。王都方面に向かう幹線道路は、荷馬車の往来が多く、道幅も広い。
エルナが迷わずその道を選んだのは、砦を出た翌朝のことだった。シュウが「どちらへ」と聞くと、「なんとなく、こちらへ」とだけ言った。理由は言わなかった。シュウはそのまま歩いた。この旅に理由はない。これもいいだろう。
その日の昼前、二人は街道沿いの中規模の街に入った。
広場に幟が立っていた。
『第十二回・王都街道 卵料理選手権』
王都へ続く街道沿いの五つの街が持ち回りで開催する、年に一度の催しらしい。今年の課題は「卵を使った一品」。参加者が各自の技術で料理を作り、審査員が評価する。優勝者には街一番の食材商から一年分の卵が贈られる。
「……出てみますか」とエルナが言った。
「そのような催しに興味はないですが」
「腕試しというものですわ」エルナがシュウを見た。「それに、一日くらい寄り道してもいいではないですか」
シュウは幟を見た。それから受付の係を見た。欠員が一名出ているらしく、困り顔で立っていた。
「そうですね。構いませんよ」
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参加者は全部で八人。地元の宿の料理番、市場の惣菜屋、腕自慢の主婦、修行中の若い料理人。それぞれが自前の鍋と道具を並べ、真剣な顔で準備を進めていた。
広場の周囲にはすでに人だかりができていた。年に一度の催しだ。子供たちが最前列に陣取り、屋台の親父が首を伸ばしている。
審査員席には三名が着いていた。中央に座るのが、街の有力者にして食通として近隣に名の知れた男、ハミルトン卿だ。六十歳前後に見える。白い顎鬚、太い指、分厚い金の指輪。その目が、参加者を一人ずつ見定めるようになめまわす。
「今年も期待外れならば、私の出席は来年で終わりにする」
卿が低く言った。隣の審査員二人が苦笑いで頷いた。
エルナがシュウの隣で小声で言った。「……あのお方、毎年そう言っているそうですわよ」
「そうなんですか」
「毎年来ていますのよ。たぶん楽しんでいますわ」
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競技が始まった。
一人目の料理番が流れるような手つきでだし巻き卵を仕上げた。「悪くない。だが昨年と変わり映えしない」。二人目は温泉卵。「技術は認める。目新しさがない」。卵焼き、スクランブルエッグ、煮卵の盛り合わせと続いた。どれも丁寧で、どれもきれいだった。だが、ハミルトン卿の表情は動かなかった。
観客たちも、次第に静かになっていた。良い料理だ。だが何かが足りない。そういう空気が広場に漂い始めていた。
シュウの番が来た。
エルナが作業台の傍らに立った。何も言わず、自然な位置に。このあと、シュウが道具を取り出すたびに、器を動かし、材料を整えていく。旅の間に覚えた立ち回りだった。
シュウが鞄から取り出した道具は二つだった。
一つ目は、透明な蓋つきの小ぶりな容器。底が丸く、蓋にいくつかの小さな穴が開いている。【レンジプリンカップ】。もう一つは、なめらかな曲線を描く金属製の型。底が丸く、縁がわずかに広がっている。【プリン型・二個セット】。
「……なんだ、その道具は」ハミルトン卿が言った。
「プリンを作ります」
広場が、ざわりと揺れた。
「プリン?」卿が眉を上げた。「なんだそれは?卵料理か?」
「プリンは卵料理です」シュウが答えた。「卵と牛乳と砂糖を合わせ、熱で固める。固め方の精度が全てを決める。温度が一度でも高ければ、表面に無数の気泡が立ち、滑らかさが失われます。これほど卵の性質に正直な料理は、他にありません」
卿はそれ以上は何も言わなかった。ただ目が、少しだけ細くなった。
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シュウは小鍋で砂糖を熱した。砂糖が溶けて色づき始める。薄い琥珀、深い琥珀、そしてほんのわずか焦げの色がにじんだ瞬間に火を止めた。熱湯を少し加えて伸ばすと甘苦い香りが広場に漂った。
最前列の子供たちが鼻をひくひくさせた。後ろの方から「なんの匂いだ」という声が聞こえた。
エルナがプリン型を静かに差し出した。シュウがカラメルを流し込む。型を受け取って、次の器を出す。言葉なしに動いていた。
「……あの旅人の連れ、手慣れてますね」と観客の誰かが言った。
エルナの耳にも届いていたが、作業台から目を離さなかった。
卵液を型に流す。湯の張った大きな器の中に置き、魔導炉へ入れる。低温でゆっくりと熱を通す。
時間がかかった。他の参加者はとっくに仕上げを終え、審査を受けていた。シュウだけが、まだ待っていた。広場の空気が少し締まった。
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頃合いだ。
型を取り出した。表面を指先でそっと触れると、ぷるり、と揺れた。固まっている。だが固すぎない。
型の縁に薄刃を沿わせ、一周させる。エルナが皿をすっと差し出した。シュウが型を被せて、ゆっくりと逆さにした。
広場が、静かになった。
一秒。
ふわり、と外れた。
琥珀色のカラメルが、まず流れた。型の底に溜まっていたそれが、重力に従って皿の上をゆっくりと広がり、濃い琥珀色の池を作った。その中央から、プリンが現れた。
丸みのある、滑らかな塊。
誰も声を上げなかった。出てきた瞬間、広場が息を止めた。
表面に気泡が一つもない。なめらかな曲面が、午後の光を一枚の鏡のように反射している。カラメルの琥珀色が周囲を縁取り、プリンの淡い黄色と境界でゆるやかに溶け合っていた。揺れていた。ほんのわずかに、まだ揺れていた。生きているような震えだった。
甘苦い香りが、遅れてやってきた。
最前列の子供が「……きれい」と言った。
それをきっかけに、広場がどよめいた。
「なんだあれ」「気泡が一つもない」「ガラス細工みたいだ」「いや、食べ物だろう」「あのつやつや、触ったらどうなる」
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ハミルトン卿がスプーンを持った。
銀のスプーンがプリンの表面に触れた瞬間、吸い込まれるように沈んだ。一切の抵抗がない。すくい上げた断面には気泡の穴一つなく、まるで磨き抜かれた黄色の貴石を切り出したかのようだ。
卿はそれを、宝物を扱うような手つきで口に運んだ。
刹那、卿の目が見開かれ、次いでゆっくりと瞼が閉じられた。
「…………っ」
噛む必要さえなかった。舌の上に乗せた瞬間、プリンは体温でほどけるように、濃密な液体へと還っていく。
最初に訪れたのは、驚くほど純粋な卵の甘みだ。雑味のない滋味が舌を包み込み、そこへ焦がしカラメルのほろ苦い香りが、鮮烈な閃光となって突き抜ける。
牛乳のまろやかなコクが全体を優しくまとめ上げ、三つの要素が溶け合いながら、絹の滑り心地で喉の奥へと滑り落ちていく。飲み込んだ後には、鼻腔を抜ける残り香と、心まで洗われるような清冽な温かさだけが残った。
二口目。消えるような口溶けに、卿の喉が微かに鳴る。
三口目。四口目。
一口ごとに、六十年積み上げてきた食の経験が、音を立てて書き換えられていく。
皿が空になった時、卿は震える手でスプーンを置いた。それから長い間、天を仰いだまま言葉を失っていた。
卿がゆっくり言った。
「茹でた卵、焼いた卵、蒸した卵、漬けた卵。あらゆる形で食べてきた。だが」
一呼吸。
「卵がこれほど、静かな料理になるとは知らなかった」
ハミルトン卿がシュウを見た。その目から、最初の値踏みする色がなかった。
「優勝だ。異論は認めない」
広場が、どっと沸いた。
子供たちが飛び跳ねた。観客が拍手した。惣菜屋の主人が「あんな料理見たことない」と叫んだ。参加者たちも、悔しそうにしながら、それでも拍手していた。
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歓声が収まらない中、ハミルトン卿が立ち上がり、作業台のシュウに向かって歩いてきた。
「旅人よ」
「はい」
「名は」
「シュウといいます」
「どこの出身だ。どこで修行した」
「どこの出身でもありません。知識として持っていました」
卿が少し間を置いた。「……王都の料理人か」
「違います」
「ではどこの」
「街道を歩いています」
卿はシュウをしばらく見た。それからエルナを見た。エルナは道具を片づけながら、自然な顔でそこにいた。
「……その女は助手か」
「一緒に旅をしています」
「なるほど」卿が顎鬚を撫でた。「シュウよ。私の屋敷に来ないか。料理長として迎える。給金は弾む。道具も材料も好きなだけ用意する」
広場がまたざわついた。ハミルトン卿が自ら声をかける場面など、この大会では前例がなかった。
シュウは少し考えた。振り返った。
「……エルナ」
エルナの手が、一瞬止まった。
「……はい」
「次の街まで、何日でしたか」
エルナが一拍置いてから答えた。「……この道を真っ直ぐ行けば、四日ほどかと」
シュウはハミルトン卿に向き直った。「ありがとうございます。ただ、行くところがあるので」
卿はしばらくシュウを見た。それから短く笑った。皺の深い、本物の笑い方だった。
「ならば仕方がない」
卿が懐から名刺を取り出した。「気が変わったら来い。いつでも待っている」
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広場を出る時、人だかりが道を開けた。子供たちが「また来てください」と言った。惣菜屋の主人が「あのプリン、作り方を教えてくれないか」と言った。宿の料理番が「道具はどこで手に入る」と言った。シュウは「また通りかかることがあれば」と答えて、歩いた。
宿に向かう道の途中で、エルナが前を向いたまま言った。
「……さっき、エルナ『さん』ではなかったですわ」
「そうでしたか」
「ええ、そうでしたわ」
それ以上何も言わなかった。シュウも何も言わなかった。ただ、エルナの足取りが、ほんのわずかだけ軽くなっていた。
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宿を取ってから、残り生地でもう一つ作った。エルナと並んで食べた。
エルナは一口食べてから、しばらく動かなかった。それから空になった皿をじっと見た。
「……消えますわ。でも温かいですわ」
「卵の温度が残っているからです」
「……なんか、ずるいですわ」
「ずるい?」
「消えたのに、ちゃんといる。そういうのが、一番ずるいですわ」
シュウには意味がよく分からなかった。ただ、エルナが言い終わってから少し黙っていた。その横顔が、プリンのことを言っているのか、別のことを言っているのか、判断がつかなかった。
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翌朝、街を出た。エルナと共に行く。
(この国はまだ知らない。100円の本当の価値を)
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同じ頃、王都の公爵邸では、ベアトリーチェが三枚目の報告書を読んでいた。
今回は情報が細かかった。街道沿いの大会で優勝したこと。プリンという菓子で審査員を黙らせたこと。ハミルトン卿が料理長として引き抜こうとして断られたこと。
そして最後の一行。
『同行者の元聖女は、王都方面への道を選び続けているとの目撃証言あり』
ベアトリーチェは、その行を二度読んだ。
王都方面への道を、選び続けている。
追放されたのなら、王都に戻ることは危険なはずだ。それでも選んでいる。同行者に言わずに、なんとなくという顔をして。
ベアトリーチェは報告書を閉じた。扇子を手に取り、少し考えてから、机の引き出しにしまった。
……追放されても、戻ろうとしている。
理解できない。怖くはないのか。知りたくなった。元聖女がどういうつもりなのか。




