春の殻と、砦の革命
マリエルの街を出て五日。街道が次第に細くなり、木々の香りが強くなってきた。二人で黙って歩く時間は、もう不自然ではなかった。
シュウは歩きながら、ふと立ち止まった。
芽吹いている。街道沿いの木々が、一斉に薄緑を広げていた。
「……春ですね」
「そうですね。きれいです」エルナが空を見上げた。「シュウ様はなぜか、その顔をしていますけれど」
「何の顔ですか」
「何かを思い出した顔です」
シュウは少し考えた。追放の日、謁見の間の大理石の床。笑い飛ばすレオンの顔。そこに向けて言い残した、最後の一言。
「……春になり、鶏の餌が変われば、卵の殻は薄く剥きにくくなります。その時、針で一つ穴を開ける。その一秒の合理性が、いつか欲しくなるはずです」
その季節が、今だ。
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国境近くの砦に着いた時、門の前で若い兵士が一人、ゆで卵と格闘していた。
指先が赤くなっている。殻が白身に食い込み、剥くたびに表面が崩れる。三分かけて、ぼろぼろのゆで卵が一個できた。
「……っ、また崩れた」
「春の卵ですね」シュウが言った。
兵士が顔を上げた。
「春は卵の殻が薄くなる。剥きにくいのは当然です。ただ、改善できます」
「……できるのか?」
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兵士長グレンに通された。ごつい男だった。腕が太く、眉が太く、声も太い。だが目は真剣だった。
「お前が各地で卵の問題を解決している旅人か」
「どうでしょうか、卵は好きですが」
「……まあ、いい。うちには二つ問題がある。一つ、春になって殻が剥けない、五百人分を剥くのに半日かかる。二つ、茹で加減が毎回バラバラで固茹でと半熟が混在する」
「全部解決できますよ」
グレンが眉を上げた。「……一度に?」
「道具があるので」
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殻向きには二つの道具を見せる。
まず【ゆで卵穴あけ君】。指に装着する小さな道具で、先端に極細の針がついている。茹でる前に、卵の丸い側へ一点だけ、目に見えないほどの穴を開ける。
「茹でると内部の気室が膨らむ。逃げ場がなければ白身を殻に押しつける。穴があれば圧力が逃げる。春の薄い殻でも、これだけでするりと剥ける」
グレンが試した。穴を開けた卵と開けていない卵を同じ鍋で茹でた。剥いてみた。
穴あり──するり、と抜けた。白身の表面が、磨いたように滑らかだ。
穴なし──ボロボロ、殻にくっつきながら剥けた。
「……たった一つの穴で」
「次です」
続けて【殻剥きシェーカー】。茹で上がった卵を入れ、少量の水を加えてキャップを閉め、振る。それだけだ。
グレンが振った。ざざざ、という音。キャップを開けるとひびの入った卵が転がり出た。指で軽く押すだけで、全面がするすると剥けた。
「……っ」
グレンがもう一個。振る。また、するすると剥けた。
「五百人分……一人で一時間もあれば終わる。俺の兵士たちは毎朝そこに半日費やしていた……」
グレンの目が赤くなった。大きな男が急に目を赤くしたので、エルナが隣で少し驚いた顔をした。
「兵士長……」
「……なんでもない」グレンが咳払いした。「次を見せろ」
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茹で加減の問題には【卵タイマー】。
卵と一緒に鍋に入れるだけでいい。内部の色素が熱に反応して変化し、半熟・固茹でのタイミングを色で知らせる。職人の勘を、物理法則で可視化したものだ。
砦の料理番を長年務める老女ベアが、それを受け取りまじまじと見た。白髪を後ろで束ね、皺の深い顔をしている。厨房で四十年立ってきた。
「……こんな小さなものが?」
「卵と同じ温度を受けて、同じように反応します。色が変わった瞬間に取り出せば、毎回同じ仕上がりになる」
ベアが鍋にタイマーと卵を入れた。しばらく待つ。色が変わった。取り出す。割ってみた。
断面から、とろりとした黄金が光のように滲み出た。半熟の、理想の形だ。
「……まあ」ベアが小さく声を上げた。「四十年、勘でやってきたのに。こんなものに同じことができるなんて」
ベアは道具を置いてから、手の甲でそっと目を拭った。
「あなたの四十年は別のところで活きています。茹で時間の管理だけ、これに任せてください」
「……もう一つ、見せてもらえるかい」
「何をですか」
「さっきから気になってたんだよ」ベアが鞄を顎でしゃくった。「まだ何か入ってるだろう」
シュウは鞄から黄色い容器を取り出した。四つの円筒が並んだ、手のひらサイズの道具。【味付けたまごマスター】。
「タイマーで仕上げた半熟卵をこれに入れて、醤油と酒と砂糖のタレを注いで一晩置く。容器の形が卵全体にタレを行き渡らせます。芯まで均一に味が染みる」
「……一晩で?」
「一晩で」
ベアが黙って受け取り、四つの穴を指先で確かめた。それだけで、彼女には分かったようだった。四十年、厨房に立ってきた人間の目だった。
ベアがエルナをちらりと見た。聖女服に目を留める。
「……あんた、聖女服じゃないか。王都の教会の子かい?」
エルナが少し間を置いた。「……元、です。今は旅人をしていますわ」
「そうかい」ベアが短く言った。それ以上は聞かなかった。ただ黙って容器を受け取り、厨房へ消えた。
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翌朝。
砦の食堂に、五百人分の麺が並んだ。
昆布と干し魚を丁寧に引いた澄んだスープ、細麺、薄切りの塩漬け豚。ベアが腕を振るった、砦の朝食麺だ。そしてその上に、二切れずつ。
琥珀色の半熟卵が、断面を上にして並んでいた。
黄身は固まらず、断面のちょうど中心でとろりと揺れていた。
タレが、染み込んでいる。表面の飴色は、ただの醤油の染みではない。浸透圧が一晩かけて内側へと引き込んだ、旨みそのものの色だ。
一人目の兵士が箸を入れた。その瞬間のことを、グレンは後から「あの朝のことは忘れない」と言った。
箸が断面に触れた。黄身が、漏れた。
とろり、と。
蜂蜜のように粘りながら、タレの琥珀色をまとって麺の上にゆっくりと流れ落ちた。醤油と卵黄の脂が混ざり合い、澄んでいたスープに黄金色のアクセントが加わった。
五百人が、最初にその卵を口にした。
五百人が、ほぼ同時に止まった。
箸が止まり、息が止まる。
タレの旨みを芯まで吸った白身が、嚙んだ瞬間にほどける。外側はぷりりとした弾力。でも噛み進めるたびに、中から醤油と出汁の甘みが滲んでくる。均一に、どこを嚙んでも同じ味が。そして黄身は、まだとろりとしたまま舌に触れ、スープと混ざりながら喉の奥まで甘く滑り落ちていく。
「…………っ」
「……なんだ、これ」
「うまい……っ、うますぎる……っ!!」
食堂の端から端まで、声にならない声が広がった。屈強な兵士たちが、味付け卵をかじり、麺を、汁を啜るたびに目を細めた。二十年戦場を渡り歩いた古参が、椀を両手で抱えて顔を埋めた。昨日まで殻と格闘していた若い兵士は、震える手で麺をすくい上げ、はじめて卵の断面がどういうものか知った。
五百人が、食べた。食堂がこれほど一体感に包まれたことは、砦の歴史上なかっただろう。
グレンが椀を置いた時、目が赤くなっていた。
「……あんたは俺の部下に、時間をくれた。それだけじゃなかった」
グレンが声を絞り出した。
「こんな朝飯を食わせてくれた。……これ以上の贈り物はない」
シュウは食堂の端から端まで、一度だけ見渡した。五百人が美味しそうに食べていた。それを見て、目が細くなるのを止められなかった。
厨房の入り口で、ベアが腕を組んで食堂を見ていた。五百人が自分の作った卵を食べている。皺の深い顔が、静かに緩んでいた。
「……ねえ、旅人さん」
「何ですか」
「これはいいね」ベアが黄色い容器を見た。「真似させてもらうよ」
シュウは何も言わなかったが、微笑んでそれを肯定した。おいしい料理を作りたい人はみな仲間だ。
エルナがその様子を見ていた。目に光るものを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。
「……シュウ様。あなたのしていることは、卵料理じゃないですわ」
「?じゃあ、何ですか?」
「人の生活を変えているんですわ。毎朝、毎食、毎日の。……それって、すごいことだと思いますの」
シュウは少しの間、エルナを見た。
追放されてから初めて料理したのは、街道の木陰だった。誰かが喜ぶかどうかも分からなかった。今は、五百人の兵士が椀を両手で抱えている。
「……買いかぶりすぎです」
「そうは思いませんわ」
エルナが真顔で言い切った。シュウは少し視線を外した。
「……ありがとうございます」
砦を出る時、五百人の兵士が門に並んで見送った。
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砦を出て街道を下ると、道が広くなり、荷馬車の往来が増えた。このまま行けば王都方面に出る道だ。
だからといって、特に何も考えなかった。どこへ行くかは決めていない。道を歩いていれば次の問題がある。それでいいとシュウは思っていた。
エルナがその道をしばらく眺めてから、黙ってシュウの隣に並んだことには、気づかなかった。
(この国はまだ知らない。100円の本当の価値を)
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同じ頃、王宮の謁見の間では、砦を管轄する大臣が、王の前に一椀を差し出していた。
澄んだスープの上に、細麺と薄切りの肉。そして断面を上にした、琥珀色の半熟卵が二切れ。
「辺境の砦で、ある旅人が伝えた朝食だそうでございます。兵士五百人に振る舞われ、士気が著しく上がったとの報告が」
王が椀を受け取り、まず香りを嗅いだ。それから、卵に箸を入れた。黄身がとろりと溢れ出た。一口麺をすすった。そして味玉を食べた。しばらく、何も言わなかった。
「……この卵の旅人を、王宮に呼べぬか」
大臣が「それが、現在の居場所が掴みきれておらず、各地を転々としているようで」と答えた。
王がゆっくり、料理長の方へ顔を向けた。
「ガストフ。そなたはこの旅人を知っているか」
ガストフは、一拍置いた。このときすでにその旅人が何者であるか掴んでいた。
「存じ上げません」
謁見の間が、静かになった。
謁見の間を辞したガストフは、廊下を歩きながら考えた。王がやつの居所をつかむ前に、手を打たなければならない。シュウを誰より先に見つけて、自分の手の内に収める。それだけが今、自分の地位を守る道だ。その夜、ガストフは旧知の商人に書状を送った。街道を旅している卵道具師の居場所を探せ、という依頼だ。見つけ次第、知らせよ。報酬は弾む、と書き添えた。




