表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「その黄色いゴミ箱を持って消えろ」と100均卵料理グッズを見下して追放した王国が、一年後に俺を呼び戻すまでの話  作者: 藍帽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/11

春の殻と、砦の革命

 マリエルの街を出て五日。街道が次第に細くなり、木々の香りが強くなってきた。二人で黙って歩く時間は、もう不自然ではなかった。


 シュウは歩きながら、ふと立ち止まった。


 芽吹いている。街道沿いの木々が、一斉に薄緑を広げていた。


「……春ですね」


「そうですね。きれいです」エルナが空を見上げた。「シュウ様はなぜか、その顔をしていますけれど」


「何の顔ですか」


「何かを思い出した顔です」


 シュウは少し考えた。追放の日、謁見の間の大理石の床。笑い飛ばすレオンの顔。そこに向けて言い残した、最後の一言。


「……春になり、鶏の餌が変われば、卵の殻は薄く剥きにくくなります。その時、針で一つ穴を開ける。その一秒の合理性が、いつか欲しくなるはずです」


 その季節が、今だ。


---


 国境近くの砦に着いた時、門の前で若い兵士が一人、ゆで卵と格闘していた。


 指先が赤くなっている。殻が白身に食い込み、剥くたびに表面が崩れる。三分かけて、ぼろぼろのゆで卵が一個できた。


「……っ、また崩れた」


「春の卵ですね」シュウが言った。


 兵士が顔を上げた。


「春は卵の殻が薄くなる。剥きにくいのは当然です。ただ、改善できます」


「……できるのか?」


---


 兵士長グレンに通された。ごつい男だった。腕が太く、眉が太く、声も太い。だが目は真剣だった。


「お前が各地で卵の問題を解決している旅人か」


「どうでしょうか、卵は好きですが」


「……まあ、いい。うちには二つ問題がある。一つ、春になって殻が剥けない、五百人分を剥くのに半日かかる。二つ、茹で加減が毎回バラバラで固茹でと半熟が混在する」


「全部解決できますよ」


 グレンが眉を上げた。「……一度に?」


「道具があるので」


---


 殻向きには二つの道具を見せる。


 まず【ゆで卵穴あけ君】。指に装着する小さな道具で、先端に極細の針がついている。茹でる前に、卵の丸い側へ一点だけ、目に見えないほどの穴を開ける。


「茹でると内部の気室が膨らむ。逃げ場がなければ白身を殻に押しつける。穴があれば圧力が逃げる。春の薄い殻でも、これだけでするりと剥ける」


 グレンが試した。穴を開けた卵と開けていない卵を同じ鍋で茹でた。剥いてみた。


 穴あり──するり、と抜けた。白身の表面が、磨いたように滑らかだ。

 穴なし──ボロボロ、殻にくっつきながら剥けた。


「……たった一つの穴で」


「次です」


 続けて【殻剥きシェーカー】。茹で上がった卵を入れ、少量の水を加えてキャップを閉め、振る。それだけだ。


 グレンが振った。ざざざ、という音。キャップを開けるとひびの入った卵が転がり出た。指で軽く押すだけで、全面がするすると剥けた。


「……っ」


 グレンがもう一個。振る。また、するすると剥けた。


「五百人分……一人で一時間もあれば終わる。俺の兵士たちは毎朝そこに半日費やしていた……」


 グレンの目が赤くなった。大きな男が急に目を赤くしたので、エルナが隣で少し驚いた顔をした。


「兵士長……」


「……なんでもない」グレンが咳払いした。「次を見せろ」


---


 茹で加減の問題には【卵タイマー】。


 卵と一緒に鍋に入れるだけでいい。内部の色素が熱に反応して変化し、半熟・固茹でのタイミングを色で知らせる。職人の勘を、物理法則で可視化したものだ。


 砦の料理番を長年務める老女ベアが、それを受け取りまじまじと見た。白髪を後ろで束ね、皺の深い顔をしている。厨房で四十年立ってきた。


「……こんな小さなものが?」


「卵と同じ温度を受けて、同じように反応します。色が変わった瞬間に取り出せば、毎回同じ仕上がりになる」


 ベアが鍋にタイマーと卵を入れた。しばらく待つ。色が変わった。取り出す。割ってみた。


 断面から、とろりとした黄金が光のように滲み出た。半熟の、理想の形だ。


「……まあ」ベアが小さく声を上げた。「四十年、勘でやってきたのに。こんなものに同じことができるなんて」


 ベアは道具を置いてから、手の甲でそっと目を拭った。


「あなたの四十年は別のところで活きています。茹で時間の管理だけ、これに任せてください」


「……もう一つ、見せてもらえるかい」


「何をですか」


「さっきから気になってたんだよ」ベアが鞄を顎でしゃくった。「まだ何か入ってるだろう」


 シュウは鞄から黄色い容器を取り出した。四つの円筒が並んだ、手のひらサイズの道具。【味付けたまごマスター】。


「タイマーで仕上げた半熟卵をこれに入れて、醤油と酒と砂糖のタレを注いで一晩置く。容器の形が卵全体にタレを行き渡らせます。芯まで均一に味が染みる」


「……一晩で?」


「一晩で」


 ベアが黙って受け取り、四つの穴を指先で確かめた。それだけで、彼女には分かったようだった。四十年、厨房に立ってきた人間の目だった。


 ベアがエルナをちらりと見た。聖女服に目を留める。


「……あんた、聖女服じゃないか。王都の教会の子かい?」


 エルナが少し間を置いた。「……元、です。今は旅人をしていますわ」


「そうかい」ベアが短く言った。それ以上は聞かなかった。ただ黙って容器を受け取り、厨房へ消えた。


---


 翌朝。


 砦の食堂に、五百人分の麺が並んだ。


 昆布と干し魚を丁寧に引いた澄んだスープ、細麺、薄切りの塩漬け豚。ベアが腕を振るった、砦の朝食麺だ。そしてその上に、二切れずつ。


 琥珀色の半熟卵が、断面を上にして並んでいた。


 黄身は固まらず、断面のちょうど中心でとろりと揺れていた。


 タレが、染み込んでいる。表面の飴色は、ただの醤油の染みではない。浸透圧が一晩かけて内側へと引き込んだ、旨みそのものの色だ。


 一人目の兵士が箸を入れた。その瞬間のことを、グレンは後から「あの朝のことは忘れない」と言った。


 箸が断面に触れた。黄身が、漏れた。


 とろり、と。


 蜂蜜のように粘りながら、タレの琥珀色をまとって麺の上にゆっくりと流れ落ちた。醤油と卵黄の脂が混ざり合い、澄んでいたスープに黄金色のアクセントが加わった。


 五百人が、最初にその卵を口にした。


 五百人が、ほぼ同時に止まった。


 箸が止まり、息が止まる。


 タレの旨みを芯まで吸った白身が、嚙んだ瞬間にほどける。外側はぷりりとした弾力。でも噛み進めるたびに、中から醤油と出汁の甘みが滲んでくる。均一に、どこを嚙んでも同じ味が。そして黄身は、まだとろりとしたまま舌に触れ、スープと混ざりながら喉の奥まで甘く滑り落ちていく。


「…………っ」


「……なんだ、これ」


「うまい……っ、うますぎる……っ!!」


 食堂の端から端まで、声にならない声が広がった。屈強な兵士たちが、味付け卵をかじり、麺を、汁を啜るたびに目を細めた。二十年戦場を渡り歩いた古参が、椀を両手で抱えて顔を埋めた。昨日まで殻と格闘していた若い兵士は、震える手で麺をすくい上げ、はじめて卵の断面がどういうものか知った。


 五百人が、食べた。食堂がこれほど一体感に包まれたことは、砦の歴史上なかっただろう。


 グレンが椀を置いた時、目が赤くなっていた。


「……あんたは俺の部下に、時間をくれた。それだけじゃなかった」


 グレンが声を絞り出した。


「こんな朝飯を食わせてくれた。……これ以上の贈り物はない」


  シュウは食堂の端から端まで、一度だけ見渡した。五百人が美味しそうに食べていた。それを見て、目が細くなるのを止められなかった。


 厨房の入り口で、ベアが腕を組んで食堂を見ていた。五百人が自分の作った卵を食べている。皺の深い顔が、静かに緩んでいた。


「……ねえ、旅人さん」


「何ですか」


「これはいいね」ベアが黄色い容器を見た。「真似させてもらうよ」


 シュウは何も言わなかったが、微笑んでそれを肯定した。おいしい料理を作りたい人はみな仲間だ。


 エルナがその様子を見ていた。目に光るものを浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。


「……シュウ様。あなたのしていることは、卵料理じゃないですわ」


「?じゃあ、何ですか?」


「人の生活を変えているんですわ。毎朝、毎食、毎日の。……それって、すごいことだと思いますの」


 シュウは少しの間、エルナを見た。


 追放されてから初めて料理したのは、街道の木陰だった。誰かが喜ぶかどうかも分からなかった。今は、五百人の兵士が椀を両手で抱えている。


「……買いかぶりすぎです」


「そうは思いませんわ」


 エルナが真顔で言い切った。シュウは少し視線を外した。


「……ありがとうございます」


 砦を出る時、五百人の兵士が門に並んで見送った。


---


 砦を出て街道を下ると、道が広くなり、荷馬車の往来が増えた。このまま行けば王都方面に出る道だ。


 だからといって、特に何も考えなかった。どこへ行くかは決めていない。道を歩いていれば次の問題がある。それでいいとシュウは思っていた。


 エルナがその道をしばらく眺めてから、黙ってシュウの隣に並んだことには、気づかなかった。


(この国はまだ知らない。100円の本当の価値を)


---


 同じ頃、王宮の謁見の間では、砦を管轄する大臣が、王の前に一椀を差し出していた。


 澄んだスープの上に、細麺と薄切りの肉。そして断面を上にした、琥珀色の半熟卵が二切れ。


「辺境の砦で、ある旅人が伝えた朝食だそうでございます。兵士五百人に振る舞われ、士気が著しく上がったとの報告が」


 王が椀を受け取り、まず香りを嗅いだ。それから、卵に箸を入れた。黄身がとろりと溢れ出た。一口麺をすすった。そして味玉を食べた。しばらく、何も言わなかった。


「……この卵の旅人を、王宮に呼べぬか」


 大臣が「それが、現在の居場所が掴みきれておらず、各地を転々としているようで」と答えた。


 王がゆっくり、料理長の方へ顔を向けた。


「ガストフ。そなたはこの旅人を知っているか」


 ガストフは、一拍置いた。このときすでにその旅人が何者であるか掴んでいた。


「存じ上げません」


 謁見の間が、静かになった。


 謁見の間を辞したガストフは、廊下を歩きながら考えた。王がやつの居所をつかむ前に、手を打たなければならない。シュウを誰より先に見つけて、自分の手の内に収める。それだけが今、自分の地位を守る道だ。その夜、ガストフは旧知の商人に書状を送った。街道を旅している卵道具師の居場所を探せ、という依頼だ。見つけ次第、知らせよ。報酬は弾む、と書き添えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ