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「その黄色いゴミ箱を持って消えろ」と100均卵料理グッズを見下して追放した王国が、一年後に俺を呼び戻すまでの話  作者: 藍帽


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純白の誘惑と、嫉妬の正体

 港町を出て二日。二人で黙って歩く時間が、少し増えていた。エルナはそれを特に気にしていないようだった。シュウも同じだった。そこを気にする間柄ではない気がしていた。


 次の街の宿に着いたのは夕刻だった。その女が最初にシュウに声をかけたのは、宿の食堂だった。


「……卵道具の旅人ってのはあんたか?」


 夕食を食べていたシュウが顔を上げると、二十代と思われる女性が立っていた。小麦色の肌、くっきりした目。髪を高く結い上げ、白いエプロンをしている。手に小麦粉の跡がある。菓子職人だ。


「自分で名のったことはないですが、いろいろと道具の可能性はみていますね」


「マリエルだ。この街で菓子を作っている」彼女は椅子を引いて、断りなく向かいに座った。「聞いた話と随分違うわね。もっと偉そうな人を想像していた」


「そうですか」


「あなたの道具、見せてもらえる?」


 エルナが隣で「どちら様ですか」と少し硬い声で言ったが、マリエルはシュウだけを見ていた。


「何に困っているんですか」


「困ってはいない」マリエルが言った。「ただ、作れないものがある。それが気に食わない」


---


 翌朝、マリエルの工房を訪ねた。


 広い厨房に、砂糖と焦がしバターの甘い香りが満ちていた。棚には整然と道具が並び、作業台は磨き上げられている。職人の場所だった。


「雲みたいなパンケーキを作りたい」マリエルが腕を組んで言った。「白身を柔らかくして混ぜる。それでいけると思うんだ。だけど、どうにも納得がいかないものしかできない。限界なのかね」


「分離の方法と、泡立ての道具に問題があります」


「見せて」


 シュウは鞄を開けた。


---


 一つ目、【黄身白身セパレーター】。小皿型の道具。卵を割り落とすだけで、穴が白身だけを通し、黄身を中央に引き留める。


「手で分けているでしょう」


「当然でしょう。他に何があるの」


「手は温かいので、白身が微量の油脂を拾います。油脂が混じると、どれだけ泡立てても気泡が安定しない。これは触れずに分ける」


 マリエルが道具を受け取り、まじまじと見た。それから卵を割り落とした。するりと分かれた。白身が、いつもより透明に見えた。


「……これだけで」


「これだけです」


 マリエルがもう一個試した。また、するりと分かれた。沈黙ののち口を開く。


「……次」


---


 二つ目、【プッシュ卵ホイッパー】


マリエルがその道具を手に取った。


 中心に一本の金属棒が通り、その上に水色の筒がついている。金属棒の先端には、細いワイヤーを複雑に折り曲げたような、王冠にも似た小さなヘッドがついていた。


「筒を、真下へ押し込んでみてください」


 シュウに促されるまま、マリエルが掌で筒を垂直に押し下げた。

 その瞬間、「シュルルッ」と鋭い回転音が響く。筒内部の螺旋構造が、押し下げる力を回転エネルギーへと変換し、先端のヘッドが猛烈な速度で独楽のように回ったのだ。


「なっ……!」


 手を緩めれば、内蔵されたバネの力で筒はスルスルと元の位置に戻る。再び押し込めば、またヘッドが逆方向へ高速回転する。


 マリエルのやってきた混ぜ方とは、根本的に原理が異なっていた。垂直のピストン運動を繰り返すだけで、最小限の力で、しかし確実に白身の結合を断ち切り、微細な気泡を抱き込んでいく。


「これまでの方法とは全く違う」


「これが正しいふわふわです」


 マリエルは黙って作業を続けた。できたふわふわ、メレンゲを黄身と塩と少量の小麦粉のシンプルな生地にさっくりと混ぜ込む。バターを薄く引いた鉄板に、生地を高く盛り上げるように落とす。弱火で三分、ひっくり返して二分。


 音はしない。ただ、甘い焦げの香りだけが厨房をじわりと満たしていく。


 時間が来た。


 表面がこんがりと黄金色に焼けた、丸くふっくらした塊。厚みがある。フライ返しで持ち上げようとしたマリエルの手が、一瞬止まった。軽い。中に何かが詰まっているような、でも押すと指が沈んでいくような、不思議な密度も感じた。


 皿に乗せた。バターをひとかけ、頂上に置いた。


 じわり、と溶け始めた。黄金色の表面を、白いバターがゆっくりと伝い落ちていく。そこに蜂蜜をひと垂らし。琥珀色の筋が、焼き目の凹凸に沿って流れ落ち、皿の端で小さな池を作った。


「……食べてみてください」


---


 マリエルがフォークを入れた。


 ふわ、と沈んだ。抵抗がなかった。刃が入ったというより、生地がフォークを迎え入れたような感触だった。


 一切れを口に運んだ瞬間、マリエルの動きが止まった。


 外側の焼き目がかすかに歯に触れた、その直後だった。中から、熱い空気の塊のようなものが溢れ出した。メレンゲが閉じ込めていた無数の気泡が、体温に触れた瞬間に一斉に解放される。舌の上で、何かが消えた。


 噛んでいない。でも、確かに何かがあった。


「…………っ」


 バターの脂が、溶けながら生地の甘みを包んでいる。蜂蜜の琥珀色が喉の手前でじわりと広がり、焼き目のわずかな苦みがその甘さを引き締める。飲み込んでから、ふわりとした温度だけが胸の奥に残った。


 マリエルは二切れ目を切った。今度はゆっくり、その「消える」瞬間を確かめるように口に入れた。また消えた。また、胸の奥に温度だけが残った。


「……なに、これ」


「ふわふわパンケーキです」


「そうじゃなくて」


「……なんで、あなたが知っているの。こんなものを」


「知識として持っていました」


「この国にはない作り方ね」


「そうです」


 三切れ目を食べながら、マリエルがシュウを見た。さっきとは目の色が違った。職人が素材を見る目ではなく、もっと別の何かを測るような目だった。


 エルナがシュウの袖を、静かに引いた。


「……シュウ様、次の街に急ぎませんか?」


「急いでいませんが」


「急いでいます」


「え?」


「急いでいます。わたしが」


 エルナが真顔で言い切った。シュウには意味が分からなかった。


---


 結局一日だけ立ち止まることになった。


 翌朝、マリエルの工房でシュウが作り方を説明する間、エルナは椅子に座って腕を組んでいた。一言も言わなかった。ただ、マリエルがシュウに何か質問するたびに、エルナの視線がその方向へ向いた。


 帰り際、マリエルが工房の入り口でシュウに言った。


「……また来たら、寄って」


「もちろん。旅の経路次第ですが」


「経路を変えてでも」


 マリエルは笑った。それからシュウの顔を一秒見て、工房に戻った。


 シュウがエルナの方を向いた。エルナは先を歩き出していた。


「……エルナさん」


「何ですか」


「急いでいますか」


「急いでいます」


「どこへ?」


「次の街へ。早く行きましょう」


 エルナの歩く速さが、いつもより少し速かった。シュウはその背中を見ながら、首を傾げた。


「この国はまだ知らない。100円の本当の価値を」


---


 同じ頃、王都の公爵邸では、ベアトリーチェが一枚の報告書を読んでいた。


 あの後のシュウの動向について、どこの街に立ち寄り、何をしたのか。商人たちの証言を、侍女に集めさせた結果だ。


 読み進めるうちに、ベアトリーチェは眉をひそめた。困惑ではない。別の感情だった。


 農家の卵が輸送中に割れなくなった。漁師とギルドの揉め事が収まった。報告書に書いてあるのは、そういうことだった。行く先々で、誰かが何かを得ていた。


 ベアトリーチェは報告書を折り畳んだ。自分がしたことを思い返した。あの謁見の間で、扇子で口元を隠しながら、冷淡に笑っていた。追放に同意した。それだけだ。深く考えなかった。流れに乗った方が簡単だったから。


 ベアトリーチェは報告書を机の引き出しにしまった。扇子は、今夜は開かなかった。窓の外を、少しの間、見ていた。

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