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「その黄色いゴミ箱を持って消えろ」と100均卵料理グッズを見下して追放した王国が、一年後に俺を呼び戻すまでの話  作者: 藍帽


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10/10

黄金の卵とじと、扇子を閉じた日

 王都まで、あと三日という街に着いた昼下がりだった。


 宿の通りに差し掛かった時、エルナが立ち止まった。


「……あの人たち」


 路地の奥に、白い法衣の男が二人いた。聖教会の紋章が胸に入っている。その目がエルナを捉えた瞬間、二人が動いた。


「エルナ=ハルテン。不敬罪により追放された身で王都方面への立ち入りは禁じられております。同行者ともども、ご同行願います」


 声が穏やかだった。穏やかなのに、有無を言わせない声だった。


 シュウが前に出ようとした。


 それより先に、別の声がした。


「待ちなさい」


---


 馬車が一台、通りの角に止まっていた。その扉が開き、白い手袋をした手が縁を掴んだ。


 降り立ったのは、扇子を持った女だった。


 ベアトリーチェ=ヴァルテン公爵令嬢。絹のドレス、整えられた髪、背筋の通った立ち姿。三か月前、街道の宿場町で猪肉の丼の前に膝をついたとは、誰も思わないような顔をしていた。


「その者たちはわたくしの客ですわ。公爵家の客人に、教会の方々が何か?」


 白法衣の二人が顔を見合わせた。「しかし、この女は追放処分を受けており……」


「処分の内容は存じておりますわ」ベアトリーチェが静かに言った。「ただ、街道の通行を禁じる権限が聖教会にあるとは、わたくしは存じておりませんの。法的根拠を今ここでお示しいただけますか」


 沈黙。


「……いずれ、正式な手続きを取ります」


「どうぞご自由に」ベアトリーチェが扇子を開いた。「その際は公爵家の法務を通してください。今後はわたくしの客人への接触は、事前に連絡をいただきますよう」


 二人が引き下がった。路地の奥に消えていく。


 エルナが息を吐いた。


 ベアトリーチェが振り返り、エルナを正面から見た。


---


「……あなた、エルナですね」


「……はい」


 短い沈黙があった。ベアトリーチェがエルナの聖女服を一度見た。


「なぜここに」とエルナが聞いた。


「調べておりましたわ」ベアトリーチェが静かに答えた。「どこの街で何をしたのか。……一度、話がしたかったですの」


 エルナが少し間を置いた。「……わたくしにですか。それとも」


「両方ですわ」


 それだけ言って、ベアトリーチェが先に歩き出した。「立ち話もなんですわ。宿を取りましょう」


---


 宿の一室。窓から街の屋根が見えた。


 三人が席についた。しばらく、誰も何も言わなかった。


 ベアトリーチェがシュウを見た。それからエルナを見た。それから窓の外を見た。


「……わたくしは、ヴァルテン公爵家の一人娘ですの」ベアトリーチェが言った。誰に向けてでもない、独り言のような声だった。「父は王国でも有数の権力者で、わたくしは物心ついた頃から、その娘として育てられました。何が正しいかではなく、何が有利かを考えて動く。そういう生き方しか、教わりませんでした」


 部屋が静かだった。


「……レオン殿下の婚約者になったのも、父の意向ですわ。シュウとの婚約も、政治的な判断でした。追放に同意したのも、同じことです。それが正しいかどうかより、流れに乗る方が簡単でしたから」


 ベアトリーチェが扇子を膝の上で両手で持った。開かなかった。


「……でも、追放された後のシュウを調べて気づきましたわ」


 一呼吸。


「街の人たちの困っていたことが解決した顔。美味しいものを食べた顔。喜びの顔……想像ですけれども、浮かぶ顔があります。ですが、わたくしは、人にそういう顔をさせたことが、多分一度もありませんでしたわ」


 エルナが、ベアトリーチェを見ていた。シュウも見ていた。ベアトリーチェは窓の外を見たままだった。


「……それだけですわ」ベアトリーチェが短く言った。「なんとなく、気づいてしまいましたの」


---


 話が途切れた時、シュウは厨房の方向を見た。食べれば、少し楽になる。そのことをシュウは知っていた。


「……せっかくなので、何か作ります」


 エルナが「え」と言った。ベアトリーチェも止まった。


 シュウが鞄を開けた。取り出したのは、白い樹脂の碗と、100円の箸。それだけだった。


「……道具は、それだけですの」ベアトリーチェが言った。


「これだけです」


---


 宿の厨房を借りた。


 鶏肉を切り、出汁を引く。玉ねぎを薄く切って鍋に入れ、出汁と醤油と砂糖で煮る。鶏肉を加えて火を通す。それだけだった。特別な道具も、説明も、何もない。ただ手が動いていた。


 卵を碗に割り入れた。100円の箸でさっと混ぜる。白身が残っている。完全には混ぜない。白身の筋がまだ見えるくらいで、止める。


(白身を残す。卵とじはそれでいい)


 煮えた鍋に、卵液を回し入れた。蓋をして、十秒。


 蓋を開けた。


 卵が、半熟のまま止まっていた。白身はふわりと固まり、黄身はまだとろりとしている。鶏肉と玉ねぎの上に、黄金色の膜が静かに広がっていた。


 炊きたての白飯の上に、それをそっと乗せる。


 三つの器が、机の上に並んだ。


---


 ベアトリーチェが箸を持った。

 黄金色の膜を割り、出汁を吸って飴色に透き通った玉ねぎ、そして弾力に満ちた鶏肉を、白飯とともに一気に口へ運ぶ。


「……ッ!?」


 刹那、彼女の思考が真っ白に染まった。

 まず襲ってきたのは、暴力的なまでの出汁の抱擁だ。醤油のキレと砂糖の柔らかな甘みが、鶏の脂と溶け合い、舌の上で熱狂的なワルツを踊る。


 だが、真の衝撃はその先にあった。


(なんなの……この、優しすぎる口当たりは……!)


 噛みしめるたび、鶏肉の筋繊維から溢れ出す旨みと、卵のまろやかさが口の中で完璧に同化する。白身の「ぷるり」とした瑞々しさと、黄身の「とろり」としたコク。相反する二つの食感が、絶妙な「混ぜムラ」によって、奇跡的なリズムを生んでいた。


 飲み込むのが惜しい。だが、喉が勝手にその快楽を求めて嚥下を繰り返す。

 飲み込んだ後、胸の奥に落ちていくのは、ただの熱ではない。それは、冷え切っていた彼女の心を内側から解きほぐす、圧倒的なまでの「慈しみ」だった。


「…………」


 二口目。もはや公爵令嬢としての端正な作法など、どこかへ吹き飛んでいた。

 三口目。四口目。

 かつて王宮の晩餐会で口にした、どんな高価な宝石のような料理よりも、この一杯が、彼女の魂を激しく揺さぶる。


 皿の底が見えてきた頃、ベアトリーチェは憑き物が落ちたような顔で箸を置いた。

 窓から差し込む陽光に目を細め、彼女は自分でも驚くほど素直な声を漏らした。


「……負けましたわ。こんなにも……こんなにも温かくて、残酷なほどに美味しいものを、わたくしは生涯知らずにいたなんて」


 その瞳には、かつての冷徹な光ではなく、一筋の純粋な感嘆が宿っていた。


「……これは」


「親子丼です」


「親子」ベアトリーチェが繰り返した。「……鶏と卵だから」


「そうです」


 ベアトリーチェが小さく笑った。声に出さない、静かな笑い方だった。


 それから、シュウを見た。


「……シュウ」


「はい」


「追放の件は、わたくしも関わっておりました」ベアトリーチェが膝の上の手を見た。「流れに乗っただけとはいえ、止めなかった。……申し訳ありませんでした」


 シュウが少し考えた。「怒る理由が、今はあまりないです」


「なぜ」


「旅に出て、良いことの方が多かったので」


 ベアトリーチェはしばらく黙った。「……本気で言っていますの?」


「本気です」


 また静かになった。エルナはシュウを見ていた。


 三人は黙って食べた。厨房の火の音だけが、遠くに聞こえた。


---


 食べ終わってから、ベアトリーチェが立ち上がった。


「……王都まで、同行させていただいてもよろしいですか」


 シュウが答える前に、エルナが言った。


「構いませんよ」


 ベアトリーチェがエルナを見た。エルナがベアトリーチェを見た。


「……よろしいのですか。わたくしは、あなたを『猫ちゃん』などと呼んだ人間ですわよ」


「覚えています」エルナが答えた。「でも今日、助けていただきました。それはそれということです」


 ベアトリーチェが少し間を置いた。


「……さっぱりしていますのね」


「卵のせいですよ」エルナが言った。「シュウ様の卵を食べていると、どうでもよくなってくるのです」


「…………」


 ベアトリーチェが窓の外を見た。扇子を開こうとして、やめた。


 ただ、小さく頷いた。


「……では、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


---


 翌朝、三人で街を出た。道は続いていた。王都まで、あと二日だった。


「この国はまだ知らない。100円の本当の価値を」

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