『The Rose』
かつての賑やかさを思い出しながら、大広間にポツンと置かれたピアノに触れる。
幼い頃は、兄の薫がピアノを弾くのを隣に座って見るのが好きだった。
春はピアノを習うことを拒否したから、代わりにバレエを習わせたのよと、以前母から聞いたことがある。
何故拒否したのかは覚えていないが、何でも器用にこなす兄と比べられるのが怖かったのかもしれない。
右手の人差し指で鍵盤を押す。寒々しい大広間に、ピアノの音が響いた。
春が唯一、メロディーだけ弾ける曲がある。
ベット・ミドラーが歌い、名曲として知られている楽曲『The Rose 』
これが薫がよく弾いて聞かせてくれた、十八番だった。
* * * * *
5年前。
薫は語学留学のためにアメリカに飛び立ったはずが、ある日消息を絶った。
常盤家の長男として、次期社長の座を継承すべく、父・健一は薫の教育に力を注いだ。もともと勉強はあまり好きではなく、誰かと争うということも嫌う薫にとっては、父の期待は重荷でしかなかったに違いない。その苦しみを、薫はいつも大好きな音楽で癒していた。
「留学、何年行くの?」
いつものように大広間でピアノを弾く兄の横に座って、春が尋ねる。
「大人しく卒業出来たとしても6年かな」
声色も、ピアノの音も、いつになく重い。
「……ピアノはアメリカで続けるの?」
「そうだな。趣味程度になら、続けられるんじゃないか」
大人とは、なんと勝手なのだろうか。
教養のためにとピアノを習わせたくせに、薫が成長するにつれて「ピアノは本気でやる必要はない」と、本人の意見を聞かずに辞めさせた。
自分の兄だからというフィルターを取り外しても、薫のピアノの音は繊細で美しく、心に響く物語がある。あのままピアノを続けさせて、海外のコンクールに挑ませるなどしても、それなりの箔が付く結果が得られたのではないかと思うけれど、芸術になど興味のない父にそんな発想が生まれるわけはなかった。「もったいない」という言葉が今にも口から出そうになったが、飲み込んだ。
「人は生まれる場所を選べない」
春の言いかけたことを察したかのように、薫が言葉を発する。
「それでも、置かれた場所で咲く力を育てに行くんだと思ってる。逃げ道ではなく、向き合う方法を」
ダンッ、と珍しく薫が音を間違えた。
「ごめん、間違えた」と笑って見せるその顔は、今にも泣きそうに見えた。
ふわっと、春の頭に薫の手が乗る。
「幸せにな」
そう言って妹の頭をなでた兄の声は、体温に触れてあっという間に溶けてしまう雪のように、優しく消えた。
「……」
見つめあう兄妹の姿を、掃除に入ろうとして足を止めた結人が、廊下で聞いていた。
* * * * *
ピアノに突っ伏した春の腕の重みで、物凄い不協和音が大広間に鳴り響く。
しかし、その不協和音をもかき消すような大きな物音が、2階から聞こえた。
ドタバタと、誰かが走る音も騒がしく聞こえる。重い腰をあげ、春も2階へ向かう。
* * * * *
2階。社長室。
春の母・文枝が部屋にある骨董品を泣きながら割っていく。
必死の形相で止める夫・健一。物音を聞いた結人が駆けつけ、文枝に手を差し伸べる。
「奥様、お怪我は」
「離して!!!」
が、一瞬で振り払われた。
……事の発端は、物音がする数分前に遡る。
* * * * *
会社の資金繰りが苦しくなり、健一は様々な取引先や金融機関に助けを求めようと努力はしていたものの、国際情勢の悪化や流行り病などの影響もあり、どの業界も氷河期であることに変わりはなく、まともに取り合ってもらえない。
「どうかご検討のほど、引き続きよろしくお願いいたします。失礼します」
健一は電話を切り、「今回も難しそうだ」と呆れたように笑う。
「笑いごとじゃないでしょう。この会社を失ったら私達はどうやって生きていくの。結婚してこの会社立ち上げて、今さら野に放たれたら……」
「なんとかなる。この国には国民を守るための法律がいくらでもあるだろ」
暗い顔の文枝が発する言葉を遮るように健一が返し、どかりと椅子に座る。
「そういう話をしてるんじゃなくて、温室で育った花は、屋外の光を浴びると枯れると言っているの!」
コンコン、とノックの音がする。
「入れ」という声の後、結人が部屋の扉を開ける。
「失礼いたします。旦那様、水沢社長からお荷物が届いております」
その手には、背の高い結人が持っていてもそこそこの大きさがある段ボール。
【取扱注意】のシールが貼られている。
「そこの棚の上に置いておいてくれ」
「かしこまりました」
そのやりとりを文枝が唖然とした顔で見ている。
「なんだ」
「バカみたい。私はもうこれ以上何も失いたくないと思って、自分の趣味も切り詰めて頑張っているのに。私がこの会社を失いたくないのは、家族を失いたくないから。春を守りたいから」
机の上に置かれた段ボールの中身は、おそらく健一が趣味で集めている骨董品であろうと、文枝は察した。一体、いくらする品物なのだろうかと、考えただけで震えが襲ってくる。
「これは違う」
軽々とその段ボールを持ち上げて、健一が文枝に渡そうとする。
「薫を守りたかった」
「またそれか」
しかし、文枝のそのひとことで、健一は段ボールを渡すのをやめた。
「返して。あなたのくだらないこだわりすべて手放して、あの子を返して」
泣き出す文枝を横目に、結人は何もすることが出来ない。
ここで下手に間に割って入る資格などなければ、この場を収める上手い方法も結人は持ち合わせていない。
律儀にお辞儀をして、一度廊下に出た。




