追放された聖女、辺境でスローライフを始めたら寝不足になりました
追放を言い渡された瞬間、泣くと思っていた。
でも私の口から出たのは、なぜか笑いだった。
「……やっと、眠れますね」
王宮の白い廊下で、そんなことを言った聖女は、たぶん私だけだと思う。
目の前の男は書類から顔を上げて、目を瞬いた。
私はそれ以上、何も言わずに踵を返した。
白い壁。白い床。白い天井。
誰かの靴音。誰かのため息。
全部が遠い。
外へ出ると、空はやけに青かった。腹が立つほど普通で、泣きたくなるほど綺麗だった。
私は目を細める。
「……じゃあね、王都。私は寝るから」
誰に向けた言葉でもない。
でも、これだけは言っておきたかった。
⸻
辺境の村は、王都より空が近い。
雲が動くのも、風の匂いも、よく分かる。
村外れ、森の手前。
小さな木の家がぽつんと立っていた。空き家らしい。屋根はまだ丈夫で、窓も割れていない。運がいい。
「ここが……私の新しい家」
荷物を置く。
古いベッド、机と椅子。歪んだ鍋。
生活に必要なものだけが、最低限そろっている。
私は胸の前で手を握った。
「よし。スローライフ開始」
目標は、ひとつ。
ちゃんと寝る。
王都での私は、夜が終わる前に朝を迎えていた。
回復魔法の依頼。治療。祈り。報告。式典。
寝る時間はいつも「残ったら」で、残ったことはない。
だから決めた。
ここでは睡眠優先。何よりも優先。世界より優先。
まずは生活を整える。
井戸水で顔を洗う。冷たい。気持ちいい。
薪を割る。うまく割れない。笑ってしまう。
鍋に水を入れて、お粥を炊く。火加減を見ながら、ぼーっとする。
湯気が立った。
その湯気だけで、胸の奥がじんとした。
当たり前って、こんなに温かかったっけ。
「今日は……早寝する」
私は自分に言い聞かせるように、何度も口にした。
これは誓い。祈り。睡眠の祈り。
⸻
夜。
辺境は本当に静かだった。
虫の声と風の音だけがある。
私は布団に入った瞬間、肩の力が抜けた。
ああ、これだ。
これが欲しかった。
瞼が重くなる。
眠りが落ちてくる。
――そのとき。
コン、コン。
戸を叩く音。
私は一度、聞こえなかったふりをした。
人間はそういう防御ができる。できるはず。
コン、コン、コン。
音が増えた。遠慮をやめた。
「……」
私は布団の中で拳を握る。
お願いだから、今夜だけは。
今夜だけは、村の誰か、代わりに……
コン、コン、コン、コン。
無理だった。
私は起き上がり、外套を羽織って戸を開けた。
そこにいたのは、村のおばちゃん。顔が真剣すぎる。
「リーネちゃん! 薬草煮たんだけど、苦すぎて飲めん!」
「……今ですか?」
「今じゃないと怖くて寝れん!」
私は夜空を見上げた。
星がきれいだ。
星は私の睡眠を守ってくれない。
「……分かりました。少しだけ」
おばちゃんは勝った顔で鍋を差し出した。
私は台所で火を起こし、蜂蜜を少し。
苦みを抑えるために、生姜もほんの少し。
「これでどうですか」
「おお……うまい! これなら飲める!」
おばちゃんは鍋を抱えて帰っていった。
戸を閉め、布団に戻る。
よし。今度こそ。
――と思った。
コン、コン。
「……」
次は誰。
戸の向こうにいたのは、鼻水を垂らした少年だった。
「ねえ、姉ちゃん。猫が……子猫が庭にいる」
「猫?」
「寒そうで……」
私は目を閉じた。
寝る。私は寝る。
でも寒そうな子猫は、たぶん寝ない。
「……分かった。見に行こう」
庭の隅に、小さな塊が震えていた。
手のひらに乗るくらいの子猫。目がまだ青い。
「……君、どうしてここに」
私はそっと抱き上げた。
温かい。軽い。命の重さがある。
家に戻り、布を敷いて箱を寝床にする。
子猫は丸くなって、すぐ眠った。
私は箱を見つめた。
「……私も寝たい」
それは、ほとんど泣き言だった。
⸻
次の日の朝。
目の下が重い。
鏡を見たら、聖女というより夜勤の人みたいだった。
でも村は優しかった。
「新しく来た人だろ? 野菜、余った分」
「薪足りてる? うちから少し持ってきた」
優しさが日向みたいに当たってくる。
私は笑顔で受け取った。
嬉しい。ありがたい。
ただ、ひとつだけ言わせてほしい。
夜に来るのは、やめてほしい。
その夜も私は布団に入った。
――そして、来た。
コン、コン。
戸の向こうにいたのは腰を押さえたおじいさん。
「すまん。腰を……やった……」
「……今ですか?」
「今じゃないと明日動けん」
私は笑顔を作る。笑顔は台所だけじゃなく、人生でも武器だ。
「分かりました。座ってください」
回復魔法は便利だ。
手を当てて、温かい光を流すだけで痛みが和らぐ。
「助かった……」
「よかったです」
見送って戸を閉め、布団に戻る。
――そして。
コン、コン。
「……」
次は若い母親だった。赤子を抱えている。
「ごめんなさい。赤ちゃんが熱っぽくて……」
私は息を吸う。
寝不足の奥で、聖女の癖が動く。
「入って。見せてください」
赤子の額に触れる。熱い。
私は魔力を抑えながら、ゆっくり熱を下げた。
「……ありがとうございます」
「大丈夫。明日もう一度、様子を見ましょう」
優しい声が出た。
その声を出した瞬間、自分で分かった。
私は結局、こうなる。
困っている顔を見たら、放っておけない。
眠りたいのに。
眠りたいのに、手が動く。
布団に戻った頃には、夜が半分終わっていた。
「……スローライフって、なんだっけ」
天井に向かって呟く。
返事はない。
子猫だけが箱の中で気持ちよさそうに寝息を立てていた。
⸻
三日目。
私の目の下には、完全に居着いたものがあった。
クマ。
引っ越してきたのは私なのに、クマのほうが先に定住している。
昼、村の子どもが私を見上げて言った。
その子の名前はミナ。八歳くらいで、遠慮がない。
「ねえ、リーネさん」
「なに?」
「聖女さまって、寝ないの?」
心にひびが入った。
「寝るよ。寝たい」
「じゃあなんで、いつも目が死んでるの?」
「……正直すぎるね」
ミナはけろっと笑った。
「夜になると誰か来るじゃん。リーネさんの家、人気だよ」
人気。
ありがたい。
でも私は睡眠人気投票で最下位だ。
夕方、森の方からずしずし重い足音がした。
村の見回り役の青年が現れた。肩に斧。
ガルドという名前だ。ぶっきらぼうで、言葉が短い。
「……お前、顔色悪い」
第一声がそれ。
「元気です」
「嘘だな」
「……元気、です」
もう一度言ったけど、声が弱い。
ガルドはため息をついた。
「スローライフって、もっと雑でいいんだぞ」
「雑にできたら苦労しないよ」
私が言うと、彼は少しだけ眉を上げた。
「お前、優しすぎる。頼まれたら全部やる」
「だって困ってるんだもん」
「困ってない日を作れ」
「それ、どうやって?」
ガルドは答えず、薪を置いた。
「夜、変なの出る。見回りついでに言いに来た」
「変なの?」
「牧場の子羊が眠れないって騒いでる。原因は夜霧のやつ」
「夜霧?」
「小さい。害は少ない。でも鳴き声がうるさい。子羊が怯えて眠れない」
私は思わず言った。
「それは……困るね」
ガルドが私を見る。
「寝るんじゃなかったのか」
「……寝たいけど、子羊も寝たい」
「お前は寝ろ」
「寝たいけど……!」
私は外套を掴んだ。
聖女の癖が勝つ。
ガルドは頭を押さえた。
「ほらな」
でも彼は見捨てなかった。斧を担ぎ直し、隣に立つ。
「行くなら俺も行く。倒れたら運ぶ」
「倒れないよ!」
「今の顔で言うな」
私たちは夜の草原へ向かった。
⸻
草原は暗い。
月明かりは薄く、霧が地面に張りついている。
遠くで子羊の鳴き声がする。怯えた声。眠れない声。
「いるな」
ガルドが低く言った。
霧の中に、ふわふわした影が揺れている。
小さな丸い影が、泣いているみたいに鳴いていた。
確かに、うるさい。
耳の奥に残る声だ。
「追い払う?」
私が聞くと、ガルドは首を振る。
「追い払っても戻る。寝かせた方が早い」
「……寝かせる」
私は頷いた。
今夜の目的は、戦うことじゃない。眠らせることだ。
私は手を胸の前で組み、息を整える。
王都で使っていたのは、痛みを消す魔法や、毒を抜く魔法。
でも今夜は違う。
私は静かな魔法を使いたかった。
「大丈夫。怖くないよ」
霧の影に向けて言う。
子羊に言っているのか、霧に言っているのか、分からない。
私は両手を広げ、ゆっくり光を落とした。
眩しい光じゃない。
春の日向みたいな、薄い温かさ。
霧の影の鳴き声が小さくなる。
揺れがゆっくりになり、ふわりと地面に沈んだ。
眠った。丸くなって。
「……すごいな」
ガルドがぽつりと言う。
私は息を吐く。
「王都では、こういう魔法は使わなかった。急いでばかりだったから」
ガルドは斧を下ろしたまま、私を見る。
「追放されても、結局助けてる」
「だって……困ってる顔が、嫌いじゃない」
言ってから少し恥ずかしくなった。
でも嘘じゃない。
「王都では……必要とされ続けるのが、怖かったんだと思う」
霧は静かで、遠くの村の灯りが小さい。
「私は聖女でいなきゃって、勝手に決めてて。
休むのが下手で……眠るのも、罪みたいに感じてた」
ガルドは短く言った。
「馬鹿だな」
「ひどい」
「でも、今は違うだろ」
彼は霧の影を見た。
「助けたいなら助ければいい。
ただ、寝ろ。倒れるまでやるな」
私は笑ってしまった。
「寝るために来たのに、寝れてない」
「だから言った」
ガルドの口元がほんの少し緩む。
ぶっきらぼうなのに、ちゃんと優しい。
牧場へ戻ると、子羊たちは眠っていた。
夜が静かになる。
……これで帰って寝られる。
私はそう思っていた。
⸻
家に戻った瞬間だった。
戸を閉め、外套を脱いで一歩進んで。
「……あ」
足が止まる。
糸がぷつんと切れたみたいに、膝が折れた。
私は床に座り込んだ。
「……寝不足、積みすぎた」
ガルドがすぐ寄ってきて肩を支える。
「ほらな。倒れた」
「倒れてない。座っただけ」
「座ったまま目が閉じそうだ」
それは、そうだ。
「……家まで運ぶか?」
「ここ私の家……」
私はぼんやり笑って、床に額をつけそうになった。
そのまま朝になっていた。
⸻
目が覚めたのは、戸が開く音だった。
「リーネさん! 生きてる!?」
ミナの声。
私は床から顔だけ上げた。
「生きてる……たぶん」
ミナが目の下を覗き込む。
「目の下、魔王みたい」
「魔王様に謝って」
「魔王様に失礼なのはリーネさんだよ」
「もっとひどい」
笑いながら、私はやっと立ち上がった。
そこへ村の人たちが集まってくる。
おばちゃんも、おじいさんも、母親も。みんな気まずそうだ。
「……悪かったな。夜に頼みすぎた」
「助けてもらうのが当たり前になってた」
「あなたが倒れるまでやらせるなんて……」
私は慌てて手を振る。
「私が勝手にやっただけです。みんな悪くない」
でもガルドが机の上に札を置いた。
木の板に太い字。
『夜間受付終了
緊急以外は朝』
私は目を瞬いた。
「……ガルド?」
「お前の代わりに俺が窓口になる。夜は俺が聞く」
「でも」
「でもじゃない。寝ろ」
短い。強い。反論を消す一言。
村の人たちも頷いた。
「そうだね、夜は我慢する」
「緊急ならガルドに言う」
「朝に来るよ」
私は言葉が出なかった。
王都では、誰も私に「寝ろ」と言わなかった。
言ってくれたとしても、お願いは止まらなかった。
でもここでは、止めてくれる人がいる。
胸が少し熱くなる。
「……ありがとう」
おばちゃんが照れくさそうに咳払いする。
「礼はいらん。寝不足の聖女は怖い」
「それ、褒めてます?」
「脅威だ」
ミナが笑う。
「聖女さま、寝ないと弱くなるんだね」
「弱くなるね」
私は素直に言った。
それが言えた自分に、一番驚いた。
⸻
その夜。
私は布団に入った。
札が玄関にある。外は静か。
コン、コン。
……聞こえない。
正確に言えば、叩かれていない。
叩かれていない夜が、こんなに安心できるなんて。
私は息を吐いて目を閉じた。
眠りが落ちてくる。
あたたかい暗さが、やさしく降りてくる。
明日も誰かを助ける。
でも今日は眠る。
私は久しぶりに、ちゃんと寝た。
⸻
翌朝。
朝日がカーテンの隙間から差し込んで、目が覚めた。
身体が軽い。頭が澄んでいる。
「……生き返った」
私は小さく呟いて台所へ向かった。
机の上に湯気が立っていた。
ミナが鍋をかき回している。
ガルドが薪を割っている。
玄関の札が堂々と立っている。
『夜間受付終了』
私は笑った。
「スローライフって、こういうことかも」
ミナが胸を張る。
「リーネさん、今日は寝たから顔が聖女っぽい!」
「聖女っぽいって、なに」
「優しそう!」
鍋を覗く。お粥の匂い。火加減もいい。
「……上手。ミナ、天才」
「えへへ」
その瞬間。
コン、コン。
玄関が叩かれた。
私は固まる。
条件反射で心臓が跳ねる。
ガルドがすっと前へ出る。
「俺が出る」
彼は札を指でトントン叩いてから、戸を開けた。
外にいたのは村の男。申し訳なさそうに頭を下げる。
「すまん! 朝なんだが……昨日の夜に来るつもりだった!」
ミナが吹き出し、私も口を押さえて笑った。
ガルドが低い声で言う。
「夜に来るつもりだったなら、今は帰れ」
「いや、朝になっちまって……」
私は笑いながら立ち上がる。
「朝なら、いいです」
男がほっと息を吐いた。
「助かる……!」
私は鍋の湯気を見て、少しだけ肩を落とす。
でも嫌じゃなかった。
今の私は眠れている。
だから助けられる。
私はエプロンをつけて言った。
「まず、手を洗ってくださいね。台所は清潔が基本です」
男が慌てて頷く。
ガルドが小さく笑う。
ミナが得意げに言った。
「ほらね! 聖女っぽい!」
私は湯気の向こうで笑った。
追放された聖女のスローライフは、今日も忙しい。
でも、ちゃんと眠れる日が増えていく。
寝不足は、きっと減る。
減らしていける。
お粥の湯気は、やさしく上がっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
この短編は、「スローライフ=暇」じゃなくて、むしろ“優しさの渋滞”かもしれないという発想から書きました。
リーネは「休みたい」「眠りたい」と思っているのに、
困っている人を見ると、つい手が動いてしまいます。
それは聖女の力というより、もう“癖”みたいなもの。
でも、癖って自分ひとりでは直せません。
だからこそガルドの「寝ろ」が効くし、村のみんなが止めてくれるのが救いになります。
読んでくださって本当にありがとうございました!




