掠れた独唱
あの日、海に檸檬を放り投げてから、私の喉からは「音」が出るようになった。
けれど、それはかつてのような澄んだ声ではなく、砂を噛んだような、低く掠れた
異質な響きだった。一年以上も眠っていた声帯は、自分自身を呪う方法しか覚えてい
ないかのようで、私は自分の声を聞くたびに、剥き出しの傷口を触るような痛みを覚
える。
祖母は無事に退院し、店には再び珈琲の匂いが戻った。
けれど、親戚たちの「店を畳むべきだ」という視線は、冬の足音と共に鋭さを増して
いる。私は放課後、海斗からもらったカセットプレイヤーを握りしめ、あの洞窟で一
人、声を出す練習を繰り返した。
「……あ、……い……う……」
空気だけが漏れる音。
言葉が意味を持つことが、これほどまでに怖いとは思わなかった。
もし私が誰かと喋れば、それは「家族のいない日常」を肯定することになる。
私が笑えば、それは「彼らを忘れること」に繋がるのではないか。
そんな強迫観念が、取り戻したはずの声を、再び私の喉の奥へと押し込めようと
していた。
ある日の放課後、学校の音楽室から、聞き覚えのある旋律が聞こえてきた。
アリスの『チャンピオン』。
激しいギターのストローク。誰かが、狂ったようにピアノを叩きながら歌っている。
そっと覗き込むと、そこには汗まみれで鍵盤に向かう海斗の姿があった。
「立ち上がれ、もう一度……」
普段の穏やかな彼からは想像もつかないような、剥き出しの、怒りにも似た歌声。
彼は私がいることに気づくと、鍵盤を叩きつけるようにして音を止めた。
「……星輝愛。お前、まだ笑わないんだな」
彼の問いかけに、私は言葉を探した。
喉が熱くなる。鉄の楔がまた暴れ出す。
「……わら……え、ない……」
初めて彼に向けた、本物の声。
それは、壊れたレコードのように酷く歪んでいた。
海斗はピアノの椅子から立ち上がり、私のすぐ目の前までやってきた。
彼の瞳には、あの日、海で檸檬を投げた時と同じ、峻烈な光が宿っている。
「俺もだよ。弟を殺したのは俺だっていう声が、今も耳元で鳴り止まない」
海斗は私の肩を強く掴んだ。
指先から伝わる彼の震えが、私の心臓の鼓動と重なっていく。
「でもさ、フォークソングって、格好悪いことを歌うんだろ? 失恋したり、
惨めだったり、死にたかったりする気持ちを、あえて歌にするんだろ?」
彼は私をピアノの前に座らせた。
そして、古い楽譜を広げる。さだまさしの『案山子』。
「元気でいるか、街には慣れたか、友達できたか……」
かつて父が、酒を飲んだ夜に口ずさんでいた、家族を想う歌。
「星輝愛。お前の名前は、キラキラしてていいんだよ。お前がボロボロになっても、
その名前だけは、お前の親が残してくれた『祈り』なんだから」
私は、鍵盤の上に置いた自分の白い指を見つめた。
家族がくれた名。捨て去りたいほど眩しかった、愛の証。
私は、震える指で一つの音を鳴らした。
澄んだ「ド」の音が、夕暮れの音楽室に響き渡る。
私は、掠れた声で、旋律をなぞり始めた。
それはまだ歌とは呼べない、嗚咽に近い独唱だった。
けれど、隣で海斗が、不器用にピアノの伴奏を重ねてくれる。
私たちの不協和音は、窓の外に広がる群青の海へと、静かに溶け出していった。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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