『檸檬』の放課後と、決壊する沈黙
八月の湿った風が、喫茶店「潮騒」の煤けた暖簾を激しく揺らしていた。
祖母の病状は一進一退を繰り返し、ついには親戚の間で「店を畳み、星輝愛を東京の施設か別の親族へ預ける」という話が具体化し始めていた。
私にとって、この店はただの建物ではない。家族を亡くした私を拾い上げ、古いフォークソングの旋律で、バラバラになった心を繋ぎ止めてくれた、唯一の「聖域」だった。
ここを失えば、私は本当に、あの事故の夜の闇に帰ることになる。
私は、閉店後の薄暗い店内で、さだまさしの『檸檬』を繰り返し聴いていた。
「僕の心の中の、やるせないほどの空白を、誰か埋めてくれないか」
その悲鳴のような旋律が、私の喉の奥で澱んでいる熱い塊を突き上げる。
その時、裏口の戸を叩く音がした。
現れたのは、日焼けした顔に焦燥を浮かべた海斗だった。
「……行こう。星輝愛、全部捨てて、海へ行こう」
彼は私の手を乱暴に掴み、夜の帳が下りる海岸へと走り出した。
防波堤に立つと、足元では群青の波が、獣のように牙を剥いて激しく砕けていた。
海斗はポケットから、二つの黄色い檸檬を取り出し、一つを私に握らせた。
「聖橋はないけどさ。ここで放るんだ。俺たちが抱えてる、このどうしようもない
『罪』を、全部海に叩きつけるんだよ」
海斗の瞳からは、大粒の涙が溢れていた。弟を救えなかった自分を、海を愛せない
自分を、彼は今も、この場所で呪い続けている。
私は、手に持った檸檬の冷たく、ざらついた感触を確かめた。
これを投げれば、私は家族を許せるのだろうか。
自分だけが生き残り、キラキラした名前の影で息を潜めている自分を。
海斗が叫び声を上げ、全力で檸檬を波間へと投げた。
鮮やかな黄色が、一瞬だけ宙を舞い、暗い海の中に飲み込まれて消える。
私は檸檬を握りしめたまま、足が震えて動けなかった。
喉の奥が、焼けるように熱い。鉄の楔が、内側から激しく私を突き破ろうとする。
「投げろ! 星輝愛! お前は、死んでないだろ! 生きてるんだろ!」
海斗の怒鳴り声が、潮騒を突き抜けて私の胸に届いた。
その瞬間、私の中で、一年間張り詰めていた何かが、音を立てて決壊した。
私は、喉を引き裂くような痛みを無視して、全力で右腕を振り抜いた。
黄色い檸檬が、闇を切り裂いて放物線を描く。
そして、私の口から、言葉にならない、けれど確かな「音」が溢れ出した。
「……あ、あ、……あああああ!」
それは叫びだった。
父さん、お母さん、ごめんね。翔くん、ごめんね。
私だけが生きていて、ごめんなさい。
言葉は、血を吐くような嗚咽となって止まらなくなった。
海斗は私を強く抱きしめ、共に崩れ落ちるように堤防に膝をついた。
「……星輝愛」
彼が初めて、私の名前を呼んだ。
嘲笑でも、同情でもない、一人の魂としての名前を。
私は彼の胸に顔を埋め、嵐のような慟哭の中で、ようやく「自分の声」を
取り戻した。
それは、錆びついたギターが奏でる、最初の不格好な和音のようだった。
私たちは、濡れた頬を寄せ合い、ただ静かに、夜の海が群青から
深い闇へと変わっていくのを眺めていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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