第29話:【番外編】賢者の森の休日と、解析の深淵
(※本エピソードは、第20話と第21話の間、賢者の森での幕間を描いた番外編です)
賢者の森の朝は、痛いくらいに空気が澄んでいる。 リリアさんが目覚め、イグニスさんが罪悪感という重荷を下ろした翌日。俺たちは、出発までのわずかな時間を、この森で過ごしていた。
休息。そう決めたはずなのに、このパーティーに「何もしない」という選択肢はないらしい。
「……ふむ。やはり、この『空間歪曲の杭』の術式構造は異常だ」
小屋の外、木漏れ日の下で、ゼフィルさんが羊皮紙の束と格闘している。その手には、エララさんから授かった杭が握られていた。
「どうしました、ゼフィルさん」
俺が声をかけると、彼は片眼鏡――後に『解析のレンズ』となる魔道具の試作品――の位置を直しながら、食いつくような視線を俺に向けた。
「アレン、君の言っていた『座標のバグ』という概念だ。この杭、魔力を込めることで周囲の空間座標を強制的に書き換えているようだが……その計算式が、私の知る魔術理論と決定的に食い違っている」
ゼフィルさんが示した羊皮紙には、複雑怪奇な魔法陣の図解と、彼が独自に解析した数式が走り書きされていた。 俺はそれを覗き込み、思わず口元を緩めた。
「……これ、俺の世界でいう『非ユークリッド幾何学』に近いかもしれません」
「ヒユークリッド……? なんだそれは」
「平らな紙の上じゃなくて、歪んだボールの上で図形を描くような数学です。この杭は、空間そのものを『曲がったもの』として定義し直すことで、直進する攻撃を逸らしているんですよ」
「……空間を、曲がったものとして定義する……!」
ゼフィルさんの目が、新しい玩具を与えられた少年のように輝く。
「なるほど! ならば、魔力の出力を調整して『曲率』を制御できれば、攻撃を逸らすだけでなく、相手の背後に転移させることも可能かもしれん……!」
そこからは、二人だけの時間だった。 「システムの脆弱性」「事象の地平線」「魔力のリソース管理」。 異世界の理屈(科学)と、この世界の真理(魔法)。二つの異なる知恵が衝突し、融合し、新たな「攻略法」が組み上がっていく。 それは、後のマルバス戦や管理者戦で俺たちを支えることになる、最強の理論武装の第一歩だった。
そんな俺たちの背後から、香ばしい、しかしどこか焦げ臭い匂いが漂ってきた。
「……おい、リリア。これ、本当に合ってんのか?」
「だ、大丈夫です! エララ様に教わった通り、薬草を煮込んで……ああっ! 火が強すぎます!」
振り返ると、そこには大剣ではなく、小さなお玉を握りしめたイグニスさんと、慌てふためくリリアさんの姿があった。 二人は、まだ体調が万全ではない俺たちのために、精のつく薬膳粥を作ろうとしてくれているらしい。
「くそっ、魔物の解体なら得意なんだがな……。この細けえ葉っぱを刻むのは、どうも性に合わねえ」
イグニスさんが、不器用な手つきで薬草と格闘している。その額には、戦闘中よりも深い脂汗が滲んでいた。
「ふふ。イグニスさん、肩に力が入りすぎです。……ほら、こうやって」
リリアさんが、そっと彼の手を取り、包丁の角度を直す。
「……お、おう。……わりぃな」
イグニスさんが、珍しく顔を赤くして視線を逸らす。
その、あまりに不器用で、平和な光景。 俺とゼフィルさんは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「……非合理的だ。料理など、魔術で加熱すれば数秒で終わるものを」
ゼフィルさんが憎まれ口を叩くが、その口元は緩んでいる。
「いいじゃないですか。あれが、今の俺たちに必要な『栄養』なんですよ」
俺も笑って答える。
やがて出来上がったお粥は、見た目は少し不格好で、所々焦げていたけれど、どんな高級料理よりも温かく、体に染み渡った。 四人で食卓を囲み、「苦いな」「熱すぎる」と文句を言い合いながら食べる。 そこには、世界の危機も、管理者の影もない。 ただ、かけがえのない仲間たちと過ごす、穏やかな時間だけがあった。
「……うめえな」
イグニスさんが、ボソリと呟いた。
「ああ。……悪くない味だ」
ゼフィルさんも、空になった器を置く。
「はい。……とっても、美味しいです」
リリアさんが、花が咲いたように微笑む。
俺は、この光景を、決して忘れまいと心に刻んだ。 いつか、過酷な戦いの中で心が折れそうになった時、この温かい記憶が、きっと俺たちを支えてくれる。 この時の俺たちは、まだ知らない。 この穏やかな時間が、四人で過ごす、最後の平穏な休日になることを。
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番外編は全部で4話ありますので、引き続きお楽しみください。
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