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第20話:賢者エララと、再生の誓い

 天秤の間を抜けた先に広がっていたのは、視界が白むほど鮮やかな緑の世界だった。 これまでの遺跡の無機質で冷たい空気とは違い、濃密な生命力に満ちた温かい風が、傷ついた俺たちの体を優しく包み込む。


 俺たちがその道へ一歩足を踏み入れた瞬間、背後で重い扉が閉まる音もなく、景色が陽炎のように揺らいだ。 気づけば、俺たちは巨木が立ち並ぶ、静謐な森の只中に立っていた。


「……ここは」


 リリアさんが、はっと息をのむ。


「空気が……温かいです。呼吸をするだけで、魔力が満たされていくような……」


 森全体が、一つの巨大な生命体として、穏やかに呼吸しているかのようだった。 神官であるリリアさんには、この森に満ちる清浄な気が、肌で感じられるのだろう。彼女の疲弊しきった表情に、ほんのわずかだが血色が戻る。


「空間転移か、あるいは位相のズレた結界内部か……」


 ゼフィルさんが、周囲を鋭い目で観察しながら呟く。


「これほど高密度で安定した魔力領域……森全体が、一個の巨大な術式として機能している」


 やがて俺たちは、森の中心、ひときわ巨大な古木の根元に寄り添うように建てられた、一軒の小さな小屋を見つけた。 俺たちが小屋に近づくと、ノックもしていないのに、その扉が音もなく静かに開いた。


 中から現れたのは、俺たちが想像していたような年老いた賢者ではなかった。


 長く、美しいみどり色の髪を、腰まで緩やかに編み込んでいる女性。 肌は雪のように白く、簡素な亜麻色のローブを纏っているだけなのに、その姿はどんな王族よりも気高く見えた。 見た目は、俺たちとさほど変わらない20代半ばほど。 だが、その穏やかな翠色の瞳は、まるで悠久の時を生きてきたかのように深く、俺たちの魂の奥底まで見通すような叡智を湛えていた。


「よくぞ参りました、巡礼者たち。……いいえ。ことわりに抗う者たち、と呼ぶべきでしょうか」


 彼女の声は、森の葉擦れのように優しく、俺たちの心に染み渡った。


「あなたが……賢者エララ様ですか?」


「ええ。この『世界の理』から少しだけ外れた場所で、世界を見守る者です」


 彼女は、俺の背中に視線を向けた。


「さあ、中へ。そのかたの魂の灯火は、もう風前の灯です」


 小屋の中は、質素だが、清浄な気に満ちていた。 イグニスさんを中央の寝台に横たえると、エララさんは、ただ静かに彼の手を取った。 診察道具も魔法も使わず、ただ触れるだけ。それだけで、彼女は全てを理解したようだった。


「……ひどい傷ですね。肉体だけでなく、魂そのものが、無理な蘇生によって大きく削り取られている」


 彼女の静かな言葉に、俺の心臓が早鐘を打つ。 やはり、あの時――俺が最後の奇跡で無理やり彼を立たせた代償だ。


「私の管理する『生命の泉』の力を使えば、肉体の傷は癒せるでしょう。ですが……」


 彼女は、悲しげに首を横に振った。


「欠けてしまった魂までは戻せません。器を直しても、中身が漏れ出してしまう」


「どうすれば……!」


 俺は、寝台の縁を掴んで叫んだ。


「どうすれば、イグニスさんは助かるんですか!」


 エララさんは、俺の悲痛な叫びを真正面から受け止め、残酷な、しかし唯一の真実を告げた。


「欠けた魂を補うには、誰かの魂の欠片を『パテ』として、彼の魂に移植するしかありません。もちろん、捧げた者は、その分だけ自らの魂を――寿命や魔力、未来を失うことになります」


「――俺が、その代償になります」


 俺は、食い気味に即答した。


「元はと言えば、俺の力が……俺が無理やり彼を引き戻したんだ! だから、俺が代償になるのは当然です!」


「いや、私だ」


 ゼフィルさんが、俺の前に立ちはだかる。


「アレン、君はもう『力』を失っている。これ以上魂を削れば、君自身の存在が消滅しかねない。魔力保有量の多い私が、最も耐えられる可能性が高い。合理的だ」


 二人が言い争う中、エララさんは静かに首を横に振った。


「いいえ。あなた方では無理です」


「なっ……なぜですか!」


「魂の移植には、極めて高い『適合率』が必要です。アレン、あなたは異邦人ですね? あなたの魂は、この世界の住人とは質が違いすぎます。混ぜれば、拒絶反応で二人とも死ぬでしょう」


 エララさんは、ゼフィルさんにも視線を向ける。


「そして魔術師よ。あなたの魂はあまりに理知的で、冷徹に構築されている。イグニスのような、本能と情熱で燃え上がる魂とは、水と油です。馴染みません」


 俺たちは言葉を失った。 命を懸ける覚悟があっても、資格すらないというのか。


「……でしたら、私ですね」


 その、静かで、透き通るような声は、リリアさんだった。


「リリアさん……?」


 彼女は、エララさんの前に進み出ると、深く一礼した。 その顔には、恐怖も迷いもなかった。あるのは、静謐な覚悟だけ。


「神官である私なら、魂を扱うすべを心得ています。それに……私はずっと、イグニスさんの背中を癒やし続けてきました。私の魔力は、彼の魂に一番馴染んでいるはずです」


「その通りです」


 エララさんが頷く。


「ですが、神に仕える者よ。あなたは理解しているはずです。魂という神聖な領域に人が手を加えること……それが、教義における最大の『禁忌』であることを」


「……はい」


 リリアさんは、胸元の聖印をギュッと握りしめた。 魂の加工。それは神の領分を侵す行為であり、神官としては破門、あるいはそれ以上の罪に問われる行為だ。


 彼女は、振り返って俺たちを見た。 その瞳は、涙で潤んでいたが、その奥には地獄の業火をも見据えるほどの強さが宿っていた。


「私は、神様に仕えるために神官になったのではありません」


 彼女は、はっきりと言った。


「私は、大切な人を守るために……イグニスさんや、アレンさん、ゼフィルさんを守るために、祈りの力を手に入れたんです」


 彼女は、眠るイグニスさんの頬に触れた。


「もし、彼を救うことが『罪』だと言うなら、私は喜んでその罪を背負います。神様の許しなんていりません。私は……私の意志で、彼を救いたい」


「リリア……」


 ゼフィルさんが、息をのむ。 彼女はもう、ただ守られるだけの少女ではなかった。


「……見事です」


 エララさんが、穏やかに微笑んだ。


「あなたのその『意志』こそが、ことわりを超える鍵となるでしょう」


 儀式が始まった。 エララさんの導きで、リリアさんはイグニスさんの隣に膝をつき、彼の胸に両手を重ねた。


「……っ、うぅ……!」


 リリアさんの体が、淡い黄金の光に包まれる。 彼女は、自らの魂の一部を切り離し、イグニスさんの魂の欠損部へと流し込んでいく。 それは、身を削られるような激痛を伴うはずだ。彼女の顔が苦痛に歪み、脂汗が流れる。 その存在感が、ロウソクの火のように揺らぎ、希薄になっていくのが分かる。


 死なないでくれ……! リリアさん!


 俺は、祈ることしかできない。 やがて、彼女の手から放たれた温かい光の塊が、イグニスさんの胸へと吸い込まれ、パズルのピースのようにはまった。


 ドクン……。


 力強い鼓動が、部屋に響いた。 イグニスさんの顔に、一気に血の気が戻る。


 それと同時に、リリアさんの意識が途切れ、その場に崩れ落ちた。


「リリアさん!」


 俺とゼフィルさんが駆け寄り、彼女を支える。 呼吸はある。だが、その寝顔はひどく疲労し、どこか透明で、儚げだった。


「……成功しましたね」


 エララさんが、安堵の息をつく。


「彼女は多くの未来を失いました。ですが、その代償に見合うだけの命を、確かに繋ぎ止めたのです」


 俺たちが息をのんで見守る中、イグニスさんの瞼が震え、ゆっくりと開かれた。 焦点の定まらなかった瞳が、俺たちを捉える。


「……アレン……? ゼフィル……?」


「イグニスさん!」


「……俺は、死んだんじゃ……。いや、体が……妙に軽い……」


 彼は体を起こし、自分の胸をさすった。


「なんだ、これ……。胸の奥が、すげえ温かい。……リリアの、匂いがする」


 彼は、俺たちの腕の中で眠るリリアさんに気づき、目を見開いた。 そして、自分の胸と、彼女を交互に見比べ、全てを悟ったように顔を歪めた。


「……まさか、あいつ……!」


「君を救うために、彼女は自らの魂を分けた」


 ゼフィルさんが、残酷な事実を告げる。


「君の命の半分は、今の彼女だ。……二度と、粗末にするな」


 イグニスさんは、言葉を失った。 震える手で、眠るリリアさんの頬に触れる。 その表情は、復活の喜びなど微塵もない。仲間を犠牲にして生き永らえたという、重すぎる十字架を背負った男の顔だった。


 ◇


 数日が過ぎた。 イグニスさんは、眠り続けるリリアさんの傍らから離れようとしなかった。 食事も喉を通らない様子で、ただ彼女の手を握りしめ、懺悔するように頭を垂れている。


 俺は、そんな彼にかける言葉が見つからず、小屋の外に出ていた。 新鮮な空気を吸い込み、頭を冷やす。


「……悔しいですか?」


 背後から、エララさんが声をかけてきた。 彼女の手には、黒い布に包まれた何かが握られている。


「……はい。俺に力があれば、リリアさんにこんな真似はさせなかった」


「力、ですか。……あなたは面白いですね」


 エララさんは、俺の隣に並んで空を見上げた。


「この世界の理とは異なる理屈で、物事の本質を見抜いている。巡礼路の試練、見させてもらいました。あなたは『力』ではなく『ルール』そのものと戦おうとしている」


「買い被りです。俺はただの……」


「謙遜は不要です。……これを持って行きなさい」


 彼女は、包みを開いて俺に差し出した。 中には、掌サイズの、黒くいびつな『杭』が三本入っていた。 金属のようでいて、触れると温かい、不思議な質感だ。


「これは……?」


「『空間歪曲のディストーション・パイル』。かつて、理の外側にあるものを縫い止めるために作られた、呪具の一種です」


 彼女は、杭の一本を指先で回してみせた。


「魔力は必要ありません。ただ、対象に突き立てるだけ。そうすれば、この杭は周囲の空間情報の座標を強制的に固定し、世界の理に『嘘』をつかせます」


「嘘を……」


「例えば、繋がっていないものを繋げたり、逆にあるはずの因果を断ち切ったり。……あなたのその『知恵』と組み合わせれば、強大なシステムの裏をかく『ジョーカー』になるでしょう」


 俺は、杭を受け取った。ずしりとした重み。 魔力のない俺でも使える、理への干渉手段。 リリアさんが払ってくれた犠牲。イグニスさんが繋いでくれた命。 この新たな武器は、二度と仲間を犠牲にしないための、俺の覚悟そのものだ。


「……ありがとうございます。大切に、使います」


 俺が小屋に戻ると、リリアさんが目を覚ましていた。


「……リリア!」 イグニスさんが、泣きそうな顔で彼女の名前を呼ぶ。


「……おはようございます、イグニスさん」


 リリアさんは、青白い顔で、しかし聖母のように微笑んだ。


「お前、なんてことしやがった……! 俺のために、自分の寿命を……!」


「違います」


 リリアさんは、イグニスさんの言葉を遮り、彼の手を両手で包み込んだ。


「イグニスさん。その命を、私のために使おうなんて、思わないでくださいね」


「……あ?」


「これは、『貸し』じゃありません。私たちが、これからも四人で旅をするための『必要経費』です」


 彼女は、いたずらっぽく笑った。


「だから、あなたの命は、あなたのものです。……ううん。私たち『四人』のものです。勝手に捨てたりしたら、許しませんから」


 その言葉は、イグニスさんの罪悪感を、優しく溶かしていった。 彼は、しばらく呆然としていたが、やがてくしゃりと顔を歪め、不器用な手つきで彼女の頭を撫でた。


「……ああ。分かったよ。……俺たちの、命だ」


 俺とゼフィルさんは、顔を見合わせて苦笑した。 気まずいが、それでも確かに再生した絆。 俺たちの旅は、まだ続けられる。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全28話完結済み】です。毎日更新していきますので、安心してお楽しみください。


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