第18話:理(システム)の門と、心の鏡
賢者の巡礼路、その入り口である洞窟を抜けると、空気の質が一変した。 湿ったカビの匂いは消え、張り詰めたような、冷たく清浄な空気が肌を刺す。
俺たちが足を踏み入れたのは、滑らかな白い石でできた回廊だった。 壁も床も、継ぎ目ひとつなく磨き上げられており、俺たちが履いている靴の裏が触れるたび、微かな衣擦れのような音だけが響く。 遺品である『消音の靴』のおかげで、俺の足音だけは皆無だ。それが逆に、この空間の異質な静寂を際立たせていた。
「……静かすぎるな」
ゼフィルさんが、イグニスさんの左腕を肩に担ぎ直しながら呟く。
「外の激流の音が、一切聞こえん。空間そのものが隔離されている証拠だ」
俺たちは、意識のないイグニスさんを運びながら、奥へと進んだ。 彼の体は氷のように冷たい。リリアさんが絶え間なく治癒魔法をかけ続けているが、それはザルで水を掬うようなものだ。魂の器が壊れかけている彼を繋ぎ止めるには、一刻も早く「賢者」の元へたどり着かなければならない。
やがて、回廊の先に、行く手を阻む巨大な一枚岩の扉が現れた。 取っ手も鍵穴もない。ただ、表面にびっしりと、幾何学的な紋様が刻まれているだけだ。
「……第一の試練、か」
ゼフィルさんが、扉の前にイグニスさんをそっと下ろす。 彼は杖を掲げ、扉の解析を始めた。
「『我とは何か?』……古代語の謎かけか。答えは『知識』か、あるいは『言葉』か……」
ゼフィルさんが答えと思われる言葉を魔力に乗せて扉に触れる。 だが、扉は沈黙を守ったままだ。それどころか、拒絶するかのように紋様が赤く明滅し、バチッという音と共にゼフィルさんの指先を弾いた。
「くっ……! 違うのか……!」
「ゼフィルさん、焦らないでください」
俺は、焦るゼフィルさんを落ち着かせ、扉の前に立った。 俺の目には、謎かけの文字そのものではなく、その周囲を流れる魔力のラインが見えていた。
これは、謎かけじゃない。パスワード認証に見せかけた、生体認証だ
文字はブラフだ。この術式は、触れた者の「魔力の波長」を読み取り、登録された「正規の巡礼者」の波長と一致するかどうかを照合しているだけだ。 俺たちのような部外者が正解の言葉を言ったところで、波長が合わなければ弾かれる。
「ゼフィルさん。この扉、言葉を待っているんじゃありません。特定の『魔力の形』を鍵として求めています」
「魔力の形だと? ならば、鍵を持たぬ我々には開けられんということか」
「いえ、構造に欠陥があります」
俺は、紋様の一部、魔力の輝きがわずかに遅延している箇所を指差した。
「この部分、魔力の循環がスムーズじゃありません。照合のプロセスが一瞬だけ詰まる『継ぎ目』です。そこに、逆方向から魔力を流し込んで、照合システム自体を飽和させれば……」
俺は、現代の「バッファオーバーフロー攻撃」の理屈を、ゼフィルさんに伝わる言葉に変換した。
「大量の水を一気に流し込んで、水車を壊すイメージです。あの継ぎ目に、あなたの魔力を一点集中で叩き込んでください!」
「……なるほど。精緻な鍵穴を、力技でこじ開けるか。……野蛮だが、合理的だ」
ゼフィルさんが、杖先に魔力を収束させる。 俺の指差す一点。術式の継ぎ目。
「いくぞ……! 『マナ・バースト』!」
閃光が走り、扉の紋様が悲鳴のような音を立てて明滅する。 照合機能が麻痺し、扉は「拒絶」の判断を下せないまま、自重に耐えきれずにゆっくりと開き始めた。
ゴゴゴ……と地響きを立てて道が開く。
「……アレン。君のその発想、学院の教授連中が聞いたら卒倒するだろうな」
ゼフィルさんが、呆れたように、しかし頼もしげに笑った。
◇
扉の先は、小さな光る苔に覆われた、休息所のような空間だった。 中央には、澄み切った水を湛える小さな泉がある。
「『浄化の泉』だ!」
リリアさんが駆け寄り、その水を掬ってイグニスさんの口元を湿らせる。 水を含んだイグニスさんの顔に、ほんのわずかだが赤みが差した。
「傷を治す力はありませんが、生命力を安定させる効果があるようです。これで……あと半日は持ちます」
つかの間の安堵。だが、まだ安心はできない。 泉の奥には、さらに巨大な、鏡のように磨き上げられた金属の扉が待っていた。
俺たちが近づくと、扉は音もなく左右にスライドし、その先の空間へと俺たちを招き入れた。
そこは、床も、壁も、天井も、全てが鏡でできた、広大な八角形の部屋だった。 無数の鏡が、俺たち三人と、横たわるイグニスさんの姿を、無限に映し出している。
「……気味が悪いな」
ゼフィルさんが呟いた直後だった。
鏡に映る俺たちの像が、勝手に動き出した。 それは、現在の俺たちではない。 それぞれの心の奥底に眠る、最も見たくない「過去」の姿だった。
俺の目の前の鏡には、安物のスーツを着て、脂汗を流しながら頭を下げ続ける「染谷 廉」が映っていた。
『申し訳ございません』『すべて私が悪いのです』『私の責任です』
鏡の中の俺が、壊れたレコードのように謝罪を繰り返している。 思考停止。事なかれ主義。自分を殺して、ただ波風を立てないように生きる、惨めな姿。
……やめろ
『お前は変われない。ここでもそうだ。他人の後ろに隠れて、指示を出すだけ。責任を取るのが怖いんだろ?』
「違う……!」
鏡の中の俺が、冷たい目で俺を見下ろす。 その言葉は、俺が心のどこかで抱いていた劣等感を、的確にえぐってくる。 足がすくむ。このままここに座り込んで、耳を塞いでしまえば楽になれる気がした。
ふと横を見ると、ゼフィルさんも立ち尽くしていた。 彼の鏡には、背を向けて去っていく老魔術師の姿が映っている。 「待ってください、師匠! まだ私は……!」 ゼフィルさんが手を伸ばすが、鏡の中の師は振り返らない。彼の顔には、普段の冷静さはなく、子供のような無力感が浮かんでいた。
そして、リリアさん。 彼女もまた、膝をつき、鏡の中の光景に釘付けになっていた。
彼女の鏡には、ベッドに横たわる痩せこけた少女が映っている。 リリアさんは、その少女の手を握り、祈り続けている。 だが、少女の手から力はなくなり、心電図のような魔力波形がフラットになる。
『……神様の、御元へ』
鏡の中のリリアさんが、涙を流しながら、死んだ少女に祈りを捧げている。
『これも運命です。安らかに』
その光景を見た現実のリリアさんが、小さく、首を振った。
「……違う」
『仕方なかったのよ。私には力がなかった。神様が決めたことだから』
鏡の中の彼女が、優しく、しかし残酷に諭す。
『受け入れなさい。神官としての正しさは、神の決定を受け入れること』
「……違う。そんなの、嘘です」
リリアさんが、震える声で呟いた。 彼女は、鏡の中の「正しい聖職者」である自分を見つめ、涙を流しながら、自らの胸の内を吐露し始めた。
「私は……納得なんてしてなかった。『神様の御心』なんて言葉で、自分を納得させて……楽になろうとしていただけです」
彼女は、自分の胸元の聖印を、血が滲むほど強く握りしめた。
「私が神官になったのは、神様に仕えるためじゃありません。 大切な人を……もう二度と失いたくないから。 私の祈りは、信仰なんかじゃない。ただの、私のわがまま(エゴ)です!」
叫び声ではなく、血を吐くような告白だった。 清廉潔白な聖女の仮面が剥がれ落ち、そこには、失うことを何よりも恐れる、一人の等身大の少女がいた。
「イグニスさんが死ぬなんて嫌だ……! 運命だとしても、神様の決定だとしても、私は絶対に認めない!」
彼女の杖が、光を放つ。 それは、神にすがるような弱々しい光ではない。 神の決めた運命に抗い、無理やりにでも命を繋ぎ止めようとする、強烈な「執着」の光だ。
「アレンさん! ゼフィルさん! お願いします、立ち上がってください!」
リリアさんが、涙を拭って俺たちを見た。
「私は、正しくなんてなくていい。……ただ、みんなと一緒に生きていたいんです!」
その、なりふり構わない叫びに、俺とゼフィルさんは弾かれたように我に返った。
「……ああ、そうだな。その通りだ」
ゼフィルさんが、鏡の中の師匠から視線を切り、リリアさんを見た。
「……驚いたな。君の中に、それほどの『人間臭さ』が眠っていたとは」
「……リリアさんの言う通りです」
俺も、謝罪する自分自身の幻影を睨み返した。
「格好悪くても、わがままでもいい。俺たちは生き残るんだ!」
三人の意志が、現実に戻った。 だが、鏡の幻影は消えない。それどころか、より強く、よりおぞましい言葉を投げかけてくる。
「幻影を消すには、発生源を断つしかありません!」
俺は叫んだ。
「この部屋の全ての鏡像は、どこか一つにある『親』となる鏡から投影されています!」
俺は便利な魔道具など持っていない。だが、観察眼ならある。 無数の反射光。その中で、一つだけ「光の遅延」がない鏡があるはずだ。 全ての像の起点となる、オリジナル。
「……あそこだ!」
俺は、天井付近にある一枚の鏡を指差した。 他の鏡よりもわずかに輝きが強く、そこから魔力の波紋が広がっている。
「ゼフィルさん、あの鏡です! あの一枚を割れば、連鎖が止まります!」
「承知した!」
ゼフィルさんが杖を構える。 だが、鏡の幻影たちが一斉に叫び声を上げ、精神波で妨害してくる。
「させません!」
リリアさんが、杖を掲げて聖なる結界を展開する。 それは防御のための壁ではない。敵の干渉を押し返す、拒絶の波動だ。
「私たちが、道をこじ開けます! ゼフィルさんは攻撃に集中してください!」
彼女の背中は、もう守られるだけの少女のものではなかった。 「神の教え」よりも「仲間との絆」を選び取った、一人の女性の背中だった。
「貫け! 『アイス・ジャベリン』!」
ゼフィルさんの放った氷の槍が、真っ直ぐに天井の鏡へと吸い込まれていく。
パリンッ!!
甲高い破砕音が響き渡る。 親鏡が粉々に砕け散ると同時に、部屋中の全ての鏡に亀裂が走り、連鎖的に崩れ落ちていった。 降り注ぐガラスの雨は、床に触れる前に光の粒子となって消えていく。
「……幻は、消えたか」
ゼフィルさんが、肩で息をしながら呟く。 部屋には、ただ静かな石造りの通路だけが残されていた。
「……行きましょう」
リリアさんが、イグニスさんの元へ戻り、その冷たい手を握りしめた。 その横顔には、もう迷いも、神への依存もなかった。
「たとえ何が相手でも……絶対に、連れて帰ります」
その呟きは、誰に聞かせるでもない、彼女自身の魂への誓いだった。 この覚悟が、やがて来る「禁忌の選択」へと繋がっていくのだと、俺は予感せずにはいられなかった。
俺たちは再びイグニスさんを背負い、次なる、そしておそらく最後となる試練の扉へと向かった。
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