婚約破棄とか、簡単に言うけれど
「国外追放とか、簡単に言うけれど」のヴェリアルデ嬢サイドであり、事件に至るまでの出来事です。
こちらの話だけでも楽しんでいただけるように頑張ったつもりです。
「ヴェリアルデ・ヒーデル侯爵令嬢に告げる!」
その日、マンナーカノ王国宮殿の舞踏会場で行われていた国立貴族学院の卒業記念パーティーの最中。
卒業生のひとりであり、わたくし、ヴェリアルデ・ヒーデルの婚約者であるトリアンリート・マンナーカノ王子殿下が、華やかな祝いの空気を割った。
打ち合わせにない突然の状況に、楽団がその手を止める。
「そなたは嫉妬のあまり、ここにいる我が親愛なる友、シェリリエを傷付けたな。平民上がりと嘲笑し、陰湿なる嫌がらせを行い、果てはその権力で学園から排除しようとしたことはわかっている」
しん、と静まった会場のど真ん中。
他の生徒たちを割ってわたくしの前に現れたトリアンリート王子殿下は、ご自身の側近であるハンパノ侯爵家とパートセン伯爵家のご子息を背に、そしてアウトナー男爵家の養女シェリリエ嬢を腕に引っ提げて、勝ち誇った笑みを浮かべている。
わざわざシャンデリアの明かりがよく当たる場所に立ち位置を調整された殿下の、絹のような光沢を持つ彼ご自慢の金糸の髪が美しくきらめいた。
その髪に使われているのは、隣国から仕入れた質の良い植物油に、北方山脈の山頂近くに咲く花を浸けて作る整髪剤だ。新鮮さが重要と言うことで、専属の侍女たちがわざわざ毎朝作っているのだとか。それなんて言う苦行ですの?
しかしその甲斐あって、侍女たちの涙ぐましい努力の結晶は、今日も美しく輝いている。
心中でその仕事振りを称賛しつつ、そんな面倒な髪の毛なんてお禿げあそばせばよいのに、などと思っていると、ざわざわとわたくしたちを中心にしてさざ波のように会場内に広がった困惑の中を、まだ少年を過ぎて久しい若く張りのある声が高らかに響き渡った。
「そなたのような罪深く心根卑しい女、将来の国母とは認められん! そなたとの婚約は今日をもって破棄する!」
いつかはやるとは思っていた。
そのための準備はしていたけれど、よりによって今やるか。
嘘でしょ、としか思えないタイミングに、王国貴族としてのわたくしは頭を痛めるべきところだ。
けれど、ひとりの人間としてのわたくしは、よくやってくれたと喝采すらしながら、想定内で想定外の出来事に、五年間の長い月日を思い返しながらそっと目を細めた。
***
わたくしの婚約が決まったのは、学院に入学する二年ほど前。社交シーズンということで両親と共に王都に滞在していた時の事だった。
我がヒーデル侯爵家の王都邸で最上位の応接間に備わった豪奢なソファーに腰掛け、侯爵家当主とその夫人、そしてわたくしの三人と向き合っているのは王国の上級典礼官だ。袖と襟に装飾された所属を示す独特な銀釦が、室内照明を控えめに反射している。
「で、ですから……」
父より20歳は年上だろう、皺の深く刻まれた初老の男は、顔にじわりと汗を浮かべながら、宮廷官吏の豪奢な礼服に包まれた広い肩をぎゅうと狭そうに縮めて「これは陛下からのたってのお願いでして」と非常に言いづらそうに口にし、卓の上に広げられた書状に視線を戻した。
国を表す濃紺の絹で表装され、上等の紙に金の縁取りをされたそれは、わたくしと我が国マンナーカノ王国の第一子であるトリアンリート・マンナーカノ王子殿下の婚約に関する同意書だ。
それをちらりと見やった父、ヴェルシュナー・ヒーデル侯爵は、赤銅色の瞳をした切れ長な目を細め、その大きな口の端をにいっと引き上げた。
「王都の典礼官は、ずいぶんと冗談がお上手なのですな」
はっはと声は笑っているが、室内の空気はぐっと冷たくなっている。そんな父の隣で、パチンと高い音が鳴った。母、リルディア・ヒーデル侯爵夫人が扇子を開いた音だ。
長い睫に縁取られたぱっちりとした目を薄くして、口元を隠したまま「ふふ」と笑う。
その仕草は貴族夫人が「まだ抑えてますけど不愉快ですのよ」と遠回しに伝える時にするものだ。落ち葉の季節より寒くなった室内に、さらに重たい圧が加わる。
「いえ、その……冗談、ではなくてですな……」
どんどん声の小さくなっていく典礼官の額に、汗が玉のように滲んだ。
典礼官は冠婚葬祭をはじめとする様々な儀式典礼における規定を司る職業だ。王宮の上級典礼官ともなれば、叙勲式から戴冠式まで司っており、王でさえその采配に従わねばならない。
そんな自負からか、応接間に通されてすぐは「国王陛下より直々の書状である」と、わざわざ来てやったという態度を隠しもせずふんぞり返る勢いであったのに、今では苔むす沼のような顔色だ。
なにしろ、我が家は複数の国家とその端を接する広大な土地を持つ大侯爵だ。国境で揉め事があるたび大国の外交高官、時には武装した一団と単身で対峙することもあるような領主とその夫人である。威を振りかざすには相手が悪すぎる。
「ほお。では陛下は我が娘に不幸になってくれと"お願い"していらっしゃると」
「そのようなことは! け、決して……!」
典礼官は額から汗を流しながら更に体を小さくするが、父は容赦なく「では何だ」と声を低くし、とん、と硬く太い指で書状を叩いた。
「……婚約に伴い、令嬢には将来の伴侶として王子の学問と政の補佐を努めることを義務とし、公私の別を問わず尽くすように求める。尚、当然のことながら、王族の一端として相応の振る舞いを求めるところであり、王城の教育係のもと修練を積まれたし……」
その指先で、金粉のまぶされた書状をなぞりながら、父の低く重い声が、美しい文字で綴られた文面を朗読する。
……これ、どう読んでも「王子と王家の都合のいい婚約者になれ」という意味ですわね?
そんなクッソくだらない戯れ言……んん、身勝手としか言い様のない内容をこんな立派な書状にしたためるとか、税金の無駄遣いもいいところだ。
ぐだぐだと自分たちにだけ都合の良い条件ばかり連ねられた文面を面倒くさそうに読み上げた父は、ぎしりとソファを軋ませながら上体を前のめりにした。
そうすると、厳つい顔面と貴族らしくない短く刈り上げられた銀髪のせいで、借金の取り立て人が机ごしに脅迫しているようだ。我が父ながら、見た目の治安がほんとうに悪い。
「いずれも我が娘への負担が多すぎるように見えるが。それについて、君はどう思うかね?」
「わ、わたしは、あくまで書状を届けに参ったのみの立場でして……」
「あら」
言葉を濁す典礼官に、今度は母が声だけは柔らかに言った。
「典礼官殿は、配達員も兼任してございましたのね。ご苦労様でございます。書状は確かに受けとりましたわ、ご安心くださいませ?」
「……その、ええと……」
貴族夫人直球の「渡すだけなら用は済んだろ、帰れ」に、初老の典礼官はもはやぐうの音も出ない。
彼の役目は書状を届ける事ではなくその同意書にサインをさせることなのだろうが、ペンとインク壺を、と口に出しただけで食い殺される予感しかない室内で、迂闊なことを口に出せるわけがない。
だいたい、両親が憤慨するのも無理もない話なのだ。
誰だって自分の娘をお守りに寄越せと言われて「はいよろこんで」などと言うわけがない。
王家との繋がりが希薄な家ならあるいは考えたかもしれないが、我が家は王家の方から繋がりを切りたくないと思わせるだけの実績と格式のある侯爵家である。貴族的な見返りがないなら尚更だ。
笑顔のまま「冗談はおよしになって」と怒気を撒き散らす両親から目を背けた典礼官が、救いを求めるようにわたくしを見た。
いやいや、いい大人がわたくしのような子供に何を期待していらっしゃるのかしら。
そもそも、わたくしに婚約者の義務として公私に尽くせだなどとのたまう婚約に同意しろって書状を持ってきやがったくせに、当のわたくしに助けを求めるとかどういう神経をしていらっしゃるのかしら。
つつしんでお禿げくださいまし。
そんなこんな、誰からも援護してもらえなかった典礼官殿は、最後にはしおしおの干物のような顔になってよろよろと邸から出て行かれた。
彼の乗る馬車が遠ざかる音を扉越しに聞きながら、父は強面を緩めて「まったく」とため息を吐き出した。
「王子妃に選ばれるのは名誉なことだからとかなんとか、そんなもので我が侯爵家が釣れると思ったのかね、あの役人は」
父の言葉に深く頷きながら、母はわたくしと同じ菫色をした目で、扇子ごしにちらりと試すような視線を向けてきた。
「ヴェリアルデ、一応聞いておくけれど、あなた王子妃に興味はあって?」
「いいえ、まったく」
名誉と言うものは、実があってこそだとわたくしは思っている。自らの働きに対して得られるものであって、欲しいだろう、と、ちらつかせる名誉なんて、権力者が自身の懐を痛めずに都合よく働かせるための餌だろうなとしか感じない。
そもそも、両親曰く「見た目は大人しいのに中身は小さな熊」なわたくしに、大人しく尽くすという女、という役割が向いているとは思えなかった。
そう、誰にでも向き不向きというものがある。
身体が動かすのは得意でも勉強は苦手であるとか、逆に頭脳明晰であっても運動神経がポンコツであるとか、手先は器用なのに書類整理が壊滅的だったりする。
誰もが自分の向き不向きに合わせて生きられれば幸せであれるのだろうが、世界はそんな個々の事情など忖度してはくれない。明らかに向いていない者が、しなければならない場所に放り込まれるなんて良くあることだ。
身体が弱くても農家に生まれれば力仕事をしなければならないし、手先が不器用でも職人の家に生まれればその技術を受け継がなければならない。
その不遇をなんとかするには、身体の代わりに知識を生かして道具を導入するとか、手先で再現できない技術を書物として残す、あるいは思い切って家を出るなどして、立場を変えていくしかないが、それすらも許されない人間も確かにいる。
そして――誰にとっても不幸なことに、第一王子トリアンリート殿下は、替えの効かない王族直系の第一子でありながら、王に向いていない男だった。
思い返すのは新年の祝祭で両親と共に王城へ訪れた際のこと。
同じように訪れていた子供同士のお茶会で、集められた同い年の貴族子息女たちに予期せぬ我慢大会を強いたのが彼である。
あの日は酷かったわね……とわたくしの目は遠くなった。
お作法は稚拙で、何か気に入らないとすぐに当たり散らし、話の中身がわからくなると癇癪を起こすので会話にならない有り様。
幼い弟妹のいる者は「成長はそれぞれですものね」みたいな暖かな目をし、しっかりした兄姉のいる者は「教育係はなにやってんの?」と冷ややか。
そして、わたくしのような長子たちは、自らの幼い頃を見せられているようで「うわーやめろー思い出したくなーい!」と、羞恥心と戦わなくてはならなかった。
それでもなんとか礼を失さないように頑張ってお茶を飲んだりお菓子を食べたりして誤魔化しながら話を聞いていると、彼は相当な暴君ぶりを披露した。
「ふん、きさまらもおれにたてつくようなら、酷いめにあわせてやるからな!」
教育係は暴力をふるって追い出し、強面の教官からは逃げおおせ、侍女や従者に物を投げつけ池に突き落としたことをまるで自慢話のように語る姿に、わたくしたちはチラチラと視線だけで会話しあった。
わたくしたちは、学院入学を前にして保護者に『王城へ伴うのを問題なし』と判断されるだけの礼儀作法を習得済みの子息女である。このお茶会の意図は、すぐに察していた。
(俺たちってさぁ、たぶんこいつの側近候補にあがってんだよな、これ?)
(無理~)
子息たちが表面上にこやかにしながらケーキを切り分けるカトラリーで皿の上にバツを作った。
(側近ならよいではないの。わたくしたちはお妃候補の可能性が高くってよ)
(無理ですわぁ~)
女子たちの目はだいぶ冷ややかで、笑みだけは崩さないが紅茶のカップを持つ指が、淑女としてはあるまじき形をしている。
結局わたくしたちは、その場で声を交わすこともままならないまま、まともな会話ができないことに苛立った王子殿下に「帰れ!」と怒鳴られ、追い出されるように後にしたのだった。
お茶会の後で聞いた話によると、トリアンリート王子は悪い方向に覚えがよろしいようだった。
甘やかす者へは我が儘を言う程度で済むが、厳しい教師のことは無視し、自分が訴えても辞めさせられないとわかれば、物を投げつけ書物を破り捨て、あげく窓から飛び下りようともしたらしい。
それではと、不敬を免除された近衛騎士が力ずくで大人しくさせようとすれば、怪我をすることも厭わずに暴れるので、騎士の肘に当たって顔に大きな痣を作ったこともあったそうだ。
普通の子供であれば、多少の怪我をさせようが躾の範疇であったのだろうが、相手は王子。目や頭など当たりどころが悪ければ、たとえ許可を得た執行上の事故でも何らかの処分は免れないとなれば、周囲の大人たちは手を出すのを躊躇うようになった。
要するに、大人たちは小さな暴君を持て余したのだ。
しかし我がマンナーカノ王国は長子継承を王国規範としているので、特段の理由がなければ、未来の王は彼である。
現時点で彼が唯一の嫡子なので、更に母親の王妃殿下のご実家のやれそれ政治的あれこれそれどれがどうたらこうたら、とにかく廃嫡も難しい。
となれば、なんとか彼の王子としての体面を維持させるために、お目付け役としての妃が必要だというのは、まあわたくしにもわかりますけれど。
それで何故、王子の公務を支えて欲しいというお願いではなくて公私問わず尽くせという命令になるのか、大いに物申したいですわね。
とはいえ、唯一の王子が成長曲線に難ありというのは国としての重大問題だ。マンナーカノ貴族としては放置するわけにもいかん、と婚約話のあった後日、父は国王陛下と対談しに直接王宮へ乗り込んでいった。
かつて学舎で机を並べた同士であったと言うふたりがどのような話をしたのかは知らないが、書面にあったあれこれと条件を取り下げさせたばかりか、せめて対外的に国家の恥にはならないようにフォローする役目さえ負ってくれればよいと言う結論になったらしい。
最後にはどうにか頼むと陛下に頭を下げさせたと言うから、我が父ながらどういう交渉をされたのか。ひと昔であれば不敬罪とかになってたのではないかしら。
「それで何故、結局引き受けることになったのです?」
「まあアイツ……陛下も苦労しておられるようだしな」
新たな書状を携えて戻って来られた父に、断りに行ったのでは? と母の目は冷たい。が、父は苦笑しながら肩を竦めた。
それは仕方なく折れた、と言うのとは違う、なにか面白いことでもあったような少し悪戯っぽいものなので、思わず母と顔を見合わせる。
「ヴェル。お前には今しばらくの苦労を掛けるが、婚約者としてではなく、ヒーデル家の娘としての役目を果たすように」
いくつか気になる単語の含まれたその台詞の理由を、その時のわたくしはまだ知らなかった。
そんなわけで、ほんとうに不本意ながらわたくしが彼の婚約者に収まったわけだが、案の定と言うべきか。婚約者となったからとトリアンリート王子がわたくしを丁重に扱うわけもなく、暴君は暴君のままだった。
「俺はそなたのような女を婚約者とは認めんからな」
「殿下に認めていただかずとも婚約者ですわ」
婚約の決まった後の顔会わせでこれである。
呆れを表に出さないようにするのが精一杯な返答をすると、殿下は妙に自信満々な笑みでふん、と鼻を鳴らした。
「いまに見ておるがいい。そなたのような高慢な女は、いずれ破滅に至るのだからな」
ガシャンとカップを叩き付ける勢いでソーサーへ戻す無作法ぶりも、そのまま席を立って行った礼儀知らずも変わっていなかった、が。
「殿下は……何か、心境の変化でも?」
妙に芝居がかってはいるものの以前より言い回しの語彙が良くなっている。
勉強嫌いの殿下に何があった、と遠回しに尋ねると、申し訳なさそうに頭を下げていた侍女がなんとも言えない顔をした。
彼女によると、トリアンリート王子は意外にも読書がお好きなのだそうだ。特に、王子様とお姫様の恋愛ものがお気に入りなようで、彼の私室に新しく運び込まれた本棚には、絵本のようなものから少しずつ活字の多いものが増えてきているらしい。
「まあ……では、本を読むためにお勉強を?」
わたくしが意外と思ったのを隠さず目を瞬かせていると、侍女は複雑そうに笑った。
教育係たちが王子の趣味に目を付けて、教材になりそうな本を取り寄せたりしたのだが、トリアンリート王子は相変わらずトリアンリート王子で、好きな本しか読もうとしない。
そこで作家たちを囲い混んで、彼の気に入るような物語と、そのなかに教養や常識の身に付くような要素を組み込んだ書物を学習速度にあわせて作らせていると言うから、わたくしもなんとも言えない笑みを浮かべるしかない。
まあでも、どんな形であれあの王子が素直に学ぶ姿勢もあるのだと分かるのは、せめても救いがあるように思えた。
そんな涙ぐましく根気強い読書教育の甲斐があってか、トリアンリート王子は少しずつ暴れ出したりすることが減っていき、貴族学院へ入学する年には、公の場でのテーブルマナーは劇的に向上していた。
わたくしがフォローしなくてはならない場面も半分とまではいかないもののだいぶ少なくなった印象だ。
そうすると、彼の艶かな金の髪、意思の強そうなはっきりした目鼻立ち、手入れされた肌のなめらかさといった容貌の美しさが目立ってくる。
見た目だけなら我が国最高の美少年と言っても過言ではない。わたくしの好みではありませんけれども。
「そうやって大人しくされていると、まさしく物語の王子さまのようですわね」
「……愚かな。ようなではなく、俺は真に王子であるぞ」
「左様で」
プライベートな部分では相変わらずこんな有り様で、癇癪を繰り返すわ暴言は吐くわで、傍若無人なところが消えたわけではないのだが、それはほとんどの人間が目する機会はないことだ。
生来の激しい気性を対外的には頑張って抑え込んでいる分の発散と思えば、まあ許容範囲内ではなかろうかと思う。
尽くしてやる気はないけれど、父にも「弟を見てやるようなものだと思え」と言われているし、大目に見るくらいはしてやろうかな、程度にはわたくしは殿下の成長を喜んでいた。
王子の実情を知る上位貴族家も、その変化に安堵を抱きながら、彼の貴族学院入学を祝った。
が、当然ながら貴族社会というのは一枚岩ではない。
特に我がマンナーカノ王国はその成り立ちの問題から領主の自治権が強いため、貴族たちは自身の領地の利益を優先する傾向が強い。各々の主義や利権に対する考え方も、国への帰属度合いも様々だ。
特に下位貴族になると野心に忠実な傾向がある。成り上がり思考が高いと言うのか、どちらかと言うと保守的な上位貴族では考えもしないような大胆な手を打つこともあった。
どう言うことかと言うと、わたくしたちが貴族学院へ入学して二年目の春。
アウトナー男爵家の令嬢、シェリリエ・アウトナーがトリアンリート王子の恋人に名乗りをあげたのだ。
シェリリエ嬢は、アウトナー男爵家現当主と使用人の間に出来た子供で、最近になって引き取られた娘だと言う。
母親の所在も不明な上、男爵とその親族の誰にも似ていないので事実はわからないが、とにかく、可愛らしい少女をアウトナー男爵家の令嬢として引き取って、王子殿下を籠落しせんと学院へ送り込んできたのである。
わたくしとトリアンリート殿下が普通の婚約者同士であれば「まあご冗談を」となるところだし、母なら上品に微笑みながら「まあ、元気のよろしいこと」と扇子を広げるだろう。
我が家が過激なわけではなくてよ。
わたくしたち貴族の婚姻は様々な条件や利権、思惑の上で成り立っている。上位貴族ならば更に政治的な意味合いも含まれているのだ。そこへ横槍を入れようというのだから、世が世なら戦争をふっかけたのも同義の振る舞いである。
決して、我がヒーデル家の人間が血気盛んと言うわけではありませんのよ。本当に。
ともかく、そのように本来であれば大変な問題行動なのだが、殿下とわたくしとの婚約は貴族らしいそれとは全く意図の異なる性質を持っていたので「殿方には可憐な花を愛でたい時もありますものね」という建前で黙認することになった。
王家としては直系の後継ぎを得るためには、王子が手を付けそうな女性は確保しておきたいから寛恕して欲しいとも言われていることもある。
下世話な理由ではあるけれど、それはまあそうですわよねぇ、とわたくしも納得していた。
「……大変申し訳ございません」
「構わなくてよ。わたくしの名誉が傷付くわけではありませんもの」
すっかり顔馴染みになったトリアンリート王子殿下つきの侍女が青い顔で頭を下げた。
今日は殿下との定例のお茶会の日だったのだが、件のシェリリエ嬢との逢瀬を優先されてしまったとのことだ。
女性との約束を別の女性との約束で反故にするというのはお前に魅力がないと宣言するも同然な大変な侮辱であり、反故にされた女性側にとっては相当な屈辱である。気の弱い令嬢なら二度と社交界に戻れないような不名誉だ。わたくしでしたら、そんな男は今後のお付き合いを考えさせていただくでしょうね。
その報告を任された侍女が死にそうな顔をするのも無理もない。
けれど、わたくしの関わる範囲の社交では、殿下の横暴もこの婚約の性質も知られているため、言葉の通りわたくしの名誉が傷付くことはないので、さして気にはしていない。
それよりは、殿下もよりによってあんな子を選ぶとは、困ったものですわね、という呆れた気持ちの方が大きかった。
端から見たシェリリエ嬢は、確かに庇護欲をそそるような可愛らしい顔をし、出るところも出た大変魅力的な女生徒だ。けれど彼女は、殿下に恋しているのではなく王子という立場に恋している。
態度にも言動にもそれが滲み出ているのだが、淑女らしい控えめで回りくどい秋波ではなく、全力全身で媚びっ媚びな態度が、殿下には好ましく見えたのだろう。恐らくは。
わたくしは殿下の婚約者とはいってもその本質はフォロー役なので、一線を越えるようなオイタをやらかすような事さえなければまあいいか、くらいの気持ちでいた。
「せめて殿下も、恋人にくらいは優しくして差し上げられるといいのだけれど」
わたくしも、この状況下で派閥問わずすべての大人たちが沈黙を貫いている意味を、さすがに察することのできる年頃だ。
わたくしたちの婚約がどう転ぶにしろ、未だ殿下からの紹介のないシェリリエ嬢が正妃になることは決してないと知っている。
一部の下位貴族たちがふたりの恋物語を美談かのように持ち上げようと、わたくしの評判を下げようと画策していようと、宮中にとぐろを巻いている腹黒大蛇たちの思惑には叶わない。
だから、彼らの些か目に余るような振る舞いをしていても放置してきたのだが――思わぬところで問題が発生した。
「それは……確かですの……?」
「間違いない情報ですわ」
学期末の挨拶を終えたばかりの放課後の教室にて。
わたくしの友人であり将来の王妃付き女官候補であるミリシア・バリーツェ伯爵令嬢が、真剣な顔で頷いた。
この学年に今年から隣国オートナリ帝国皇弟、ドミトリウス・ジル・オートナリ殿下が留学生として編入なさると言うのだ。
「……もちろんこの級ですわね?」
「ええ、左様にございます」
特A級は、貴族学院での成績最高位者のみが在籍できる級だ。
実力主義をとっている我が学院では級の選定に爵位を問われないが、勉強の得意な秀才や、頭の出来が違う天才を別とすれば、幼い頃から教育に豊富な人材と金をつぎ込める高位貴族がほとんどの席を埋めている。
当然ながら、強大なオートナリ帝国の皇族がその中に入れないはずもない。
……まあ、我が国で最も高位の王族であるはずの第一王子殿下は入れなかったのですけれど。
ともかく、そんな優秀な同級生たちですので、状況の深刻さをよくご理解くださっておりました。
「由々しき事態にございます」
ミリシア嬢は固い声で言うと、教室内にいた他の級友たちも難しい顔で頷いた。
今の王子殿下は、わたくしという婚約者がいるにも関わらず恋人を侍らす不届きものにしか見えない。いや、見えないもなにも真実なんだけれども、我が国の王族の不誠実で愚かな振る舞いを他国の王族に晒すわけにはいかないのですわ。
婚約者としての役目の範疇からは逸脱しているような気もするけれど、父、ヴェルシュナーの言ったように、ヒーデル侯爵家の令嬢として、務めを果たさねばなるまい。
「わたくし、全力を尽くしますわ。ですが、わたくしのみでは力が足りません。皆様にもご協力をお願いしたいのですけれど」
「勿論のことでございます」
いつどんな場面とでくわしてもいいように、ドミトリウス殿下への基本的な対応は、級違いの第一王子に代わって婚約者のわたくしが務めるという建前で行い、それ以外の部分は級友たちがそれぞれの手腕を発揮した。
「食堂は?」
「はしたない噂話が耳に入らぬよう、殿下と側近方の周辺には常に複数名を配しております」
「廊下と中庭は?」
「お二人のふしだらな姿を目撃されないよう、話し掛ける班と視界を遮る班とで時間を擦り合わせておりますわ」
「流石ですわ、皆様」
自身、あるいは派閥の人材をフル活用した隠蔽工作は、学院の隅々にまで渡った。国家の威信の前には、対立派閥がどうのだなんて言ってはいられない。
本当は殿下ご自身やシェリリエ嬢、そして彼らの同級生たちにも自重してもらいたいのだが、そちらは別の都合によりそれは叶わぬことだ。学外の方は、裏で暗躍していらっしゃる方々が手を回してくれることを期待するしかない。
そんなこんなと、そうやって王子殿下のことを知られないように動けば動くほど、わたくしがドミトリウス殿下と過ごす時間が増えていくのは自然なことで。
一年も経つ頃には、わたくしと殿下はそれなりに気の置けない友人という間柄となっていた。
「ヴェリアルデ嬢は、着飾ることに興味はないのだろか?」
「学生は学ぶのが本分ですから」
「そういったところは貴女の美徳だが、華やかな衣装を纏ったところも見てみたいものだね。きっと百合のごとく美しいのだろうな」
「勿体ないお言葉でございますわ」
社交辞令もスマートで、嫌みのないドミトリウス皇弟殿下。きっと彼の母国では人気を集めていらっしゃることだろう。
炎のように鮮やかな赤髪と、夕焼けに似た揺れる緋色の瞳。かつては侵略王と呼ばれた先代オートナリ皇帝の若かりし頃に良く似た容貌をされているが、ドミトリウス殿下はどちらかというと理性的な面差しをしていらっしゃる。
本人の希望による留学というだけあって勤勉で、投げ掛けてくる質問は実利的な物が多く、わたくしがつい口走る可愛げのない辛口評論にもにこにこと寛大だ。
「辛口かな? 私は至極まっとうな意見だと思うし、あれだけ即座に言葉が出てくるのは、貴女の聡明さの証明だと思うけどな」
ずっと相手をしているためか、だいぶ砕けた会話を交わすようになった殿下は、わたくしのような者にずいぶんと好意的だ。
「傷付ける意図で口にされたものならともかく、可愛げがないと口を封じようとするのは、その正論が自分に都合が悪いからではないかな。自覚的かどうかはわからないが、自分に非があるのがわかっているような気がするね」
大人ですわね。同い年だと言うのに。
人格者の殿下に尊敬を抱く反面で、わたくしの心の底にはどろどろとしたものが鬱積していく。
保安上の都合もあって、行動範囲は王宮と学院内に限定されているけれど、ドミトリウス殿下は学生ながらに『これぞ王族』という風格を漂わす態度は人の目を惹く。
殿下のような方が我が国の後継者であればどれほと良かったか。そう嘆く声があがるのは、至極当たり前の流れだろう。
それを悪い意味で後押しするかのように、トリアンリート王子は、せっかくあれだけ身に付けた礼儀作法は後退し、公の場では控えるようになっていたはずの乱暴も増えてきた。
いつの間にか彼の周りに群がり始めたクズ……学生たちが、おべっか使っておだてて調子に乗らせ、その威をかりて我が物顔で振る舞っているからだ。
本来ならばわたくしがすぐにでも牽制に行くところだが、今、ドミトリウス殿下の側を離れるわけにはいかない。両親も長くは領地を離れていられないので直接的に手を出すのは難しい状況にある。
そうしている間にもどんどん隠すのも厳しくなっていく王子の醜聞と、理由があるとはいえ傍観するばかりで何の手助けもない王宮の態度に怒りと苛立ちを抑えながら、必死で隠蔽し続けること、更に二年。
後少し。後少しだけ我慢すれば、学院の生活は終わる。
その後、卒業を迎えられたドミトリウス殿下がご帰国されれば、本格的にわたくしとトリアンリート王子の婚約について動き出すだろう。
父の言う「いましばらく」の後に始まる激動の予感に、わたくしも覚悟を決めなければ――
なんて考えておりましたけれど。
「そなたとの婚約は今日をもって破棄する!」
現在、よりにもよって卒業生による記念パーティーで、やらかしてくださっておりますのが、我が国の第一王子殿下にしてわたくしの婚約者殿ですわよ!!
……はぁ。
深々と溜め息を吐き出したいところをぐっと飲み込んで、わたくしは茶番劇の中央に立った。
このタイミングを選んだのは恐らく、大人たちの目を避けるためだったのだろう。自分たちのしていることが、公に反対されることだという理解はあるらしい。
それがわかっているなら、何でそこで止めとこうと思わなかったんですの? なんでそんなところばかり行動力がおありなのかしら??
ため息を飲み込みながら送ったわたくしの目配せに、ミリシア・バリーツェ伯爵は頷いて重たいドレスを着ているとは思えない足捌きでささっと遠ざかって行った。王宮の担当役人へ通報に向かったのだ。
作っていてよかった緊急連絡体制。使わないで済むならそのほうがよかったのだけれど、最早事態は動き始めてしまった。
「すべて身に覚えのないことにございます」
もう何一つ後戻りは出来ない。
あらゆる思惑と段取りすべてをすっ飛ばし、その中心で堂々とトンチキな振る舞いをする殿下と対峙する。
卒業生たちのパーティーという場でやらかしてくれたことで、彼の婚約破棄宣言は覆しきれないものになった。この場には、我が国の権力では口を封じることのできない相手がいるのだ。
色々と想定外ではあるが、ここまでくればもう結果は変わらない。後はただ、彼が自滅していくように振る舞えばよかった。
「もう、宜しいですか?」
彼が思う『悪役令嬢』の態度を取ってやれば、どこかの小説のような語り口でわたくしを断罪しようとするはずだ。
わたくしは殊更にその言葉を尖らせる。
「皆様の卒業記念パーティーを台無しにしてまで、このような茶番でわたくしを貶めようとなさるとは。大人や先生方のいらっしゃらない機会を狙ったのでしょうが、浅はかと言わざるを得ませんわ」
「……っ! 黙れ!」
狙いどおり、皮肉もなしのド直球にぶっぱなせば、噴火するかのように顔を真っ赤にしてわたくしに指を突きつけた。
「侯爵家程度の分際で未来の王太子を愚弄するとは! 潔く罪を認めてシェリリエに謝罪すれば側妃くらいにはしてやろうと思っておったが……」
「あなたの妃などこちらからお断りです。婚約は破棄で結構ですわ」
きっぱりと王子からの言葉を断ち、まっすぐにその昔から美しい色をしている目を見つめた。
これで、この何年にも渡るわたくしたちの苦労も終わりを告げる。
はずだったのだが。
「ヴェリアルデ•ヒーデル! 貴様の態度、本来ならば反逆罪で死罪にしてもよいところだが、元婚約者への慈悲として不敬罪に留め、身分剥奪の上、国外追放に処す!」
「おいおいおい何言ってんだ」
どこまても可愛げがないわたくしに苛立ったのか、王子が予想の斜め上にとんでもないことを口走ったせいで、事態は一変してしまった。
ドミトリウス殿下が、思わずといった様子で口を挟んだのだ。
野次馬の輪の中からゆっくりと近付いて来られた殿下は、咳払いをひとつしてトリアンリート王子に話しかけた。
「勝手に決められては困るのだが」
「誰だ貴様は!」
嗚呼、よりにもよって!
反射的にだろう、殿下がいつものように怒鳴り声を上げた瞬間、わたくしは全身から血の気が引いていった。
侮辱罪、不敬罪、国際問題!
あなた一度殿下と顔を会わせたでしょうが!
わたくしとの婚約破棄どころではないやらかしに、心臓が潰れるようだ。唯一の救いは、彼とわたくしに同級生として交流があることぐらいか。
頭のなかでわあわあうるさいわたくし自身の声に一旦蓋をし、急いでその御前へ出ると、深く腰を沈めて礼をとった。
「我が国のご無礼、申し訳ございません。わたくしの監督不行き届きをお詫び申し上げます」
「いや、前触れなしに割り込んだのは私だし、「これ」は君の責任ではないと承知している」
ドミトリウス殿下は鷹揚に頷いてくださったが、婚約者としてではなく、公ではトリアンリート王子のフォローはわたくしの仕事、わたくしの責任なのだ。
彼が、興味のないことについてどれだけ無頓着なのかをすっかり失念していたわたくしの失態だ。
とはいえ、そんなことを口に出せるはずもなく、わたくしはただ必死に表情を取り繕った。
本音のところ、彼だけは巻き込みたくはなかった。
彼の留学の記憶にこんな醜態を残してしまうことも、こんな茶番に付き合わせてしまうことも、望んではいなかった。
けれど、あちらから飛び込んできてしまったのだからもう、割り切って利用させていただくしかない。
幸いと言うべきか、第三者であるドミトリウス殿下の登場はトリアンリート王子の作り上げていた空気を完全に粉砕し、自身の舞台へと塗り替えていく。
帝国の王族ともなれば、場を支配するのはお手のものということなのだろうか。
彼が婚約破棄ならびに国外追放を言い渡されたわたくしに、オートナリ帝国への亡命の手配を提案すると、それをわたくしが受け入れたことで、トリアンリート王子は頭に血がのぼりきったようだった。
「貴様も不敬罪で捕らえてやる!」
「だ、駄目です殿下……!」
煽られて更に余計なことを口走ったトリアンリート王子に、側近面をしていたハンパノ侯爵家の三男坊が慌てたが、遅すぎるにも程がありますわね。
まあそもそも彼のような男が側近面をしていたのが片腹痛いのだけれども。
「できるものならば、やってみるといい。オートナリ帝国皇帝が末の弟、ドミトリウス•ジル•オートナリを不敬と問えるならだが」
最早この場は、ドミトリウス殿下が主役だ。
あれよあれよという間に誰が起こした騒ぎで、誰がそれを正そうとしているのか、という構図が作られ、逆転された断罪者たちが追い詰められる側に回った。
「最後に忠告であるが、どのような事情であれ、今後はこのような祝いの場で断罪劇などという不躾な真似は止されたほうが良かろう。余興として程度が低いと他国に侮られかねん故な」
そうして、卒業記念パーティーでの婚約破棄騒動は、蒼白にを通り越して土気色になって固まったトリアンリート王子たちの逃げるような退場によって終幕となったのであった。
恐らく今頃は、駆けつけた王宮の担当役人たちによって別室へ連れられている頃だろう。
予想だにしていなかった幕引きにまだ心の追い付かないまま、わたくしは差し出されたドミトリウス殿下の手を取った。
そして――現在。
「正式に婚約解消の旨、マンナーカノ王国滞在中のドミトリウス皇弟殿下より報が届いてございます」
あの婚約破棄騒動後、ドミトリウス殿下の計らいで会場からそのままオートナリ帝国へ訪れたわたくしに用意された仮の邸に、それは届いた。
「ようやく、ですわね」
簡単な概要だけのまとめられた短い手紙を眺め、わたくしは静かに息を吐き出した。
結局、わたくしの婚約とその破棄については、トリアンリート王子殿下の有責での白紙化となった。
更に国家間の不和を招きかねない行為の責任を取り、トリアンリート王子は王位継承権を剥奪。一族の引責として王妃とその実家の継承順位を引き下げ、繰り上げと言う形でゲンカック公爵家より養子を取り、王太子に任ずる、と。
概ね当初からの計画――父、ヒーデル侯爵とマンナーカノ国王陛下の思惑に沿った形で終結となった。
長かった、という気持ちとやりきった、という達成感。そして消しきれない苛立ちが、わたくしの中にゆるく波打っている。
そう、わたくしとトリアンリート王子との婚約は、最初から破棄されるために用意されたものだった。
王族とはいえあれだけの問題児が、持て余されながらも廃嫡にならなかった理由は主にふたつ。
現在の王家に、嫡子が彼しかいないこと。そして彼の母である王妃は、マンナーカノ王国の片翼とも称されるエラーソナ公爵家当主の妹であったことだ。
建国当初から王国を支えてきたエラーソナ公爵家の発言権力は大きく、近年では強引な派閥拡大により王家に匹敵しつつあった。それを更に確固たるものにしたかったエラーソナ公爵家は、先代の娘を王妃に捩じ込み、更にはその子を王にしようとしていたのである。
そこで、牽制として用意されたのが、対立派閥であるヒーデル家の婚約者だった。
当然、エラーソナ公爵家としては面白くない。
しかし、王家と国内でも上位にあたる侯爵家の婚約は、国策にも等しい契約だ。婚約解消ですら厳しいなか、ましてや破棄だなんて、簡単にさせられるようなものではないのだ。
そのため、公爵家はわたくしとトリアンリート王子との婚約からずっと、彼の性格を利用してわたくしとの仲を険悪にさせようとしていた。
シェリリエ嬢とのことを放置していたのもそのひとつで、婚約者を蔑ろにする扱いに憤慨したヒーデル家の方から婚約解消を言い出させ、次の婚約者にエラーソナ公爵家に連なる家の娘を捩じ込むつもりだったからに他ならない。
本来なら、シェリリエ嬢――をけしかけた男爵家を潰す道もあったのだが、王はエラーソナ公爵家にも傷を付けておきたかった。
そのため、わたくしは彼女の存在を無視し続けるのと同時に、エラーソナ公爵の思惑にはあえて載るかたちで殿下からの嫌悪を募らせることで、癇癪持ちの殿下の方から婚約破棄を切り出すか、それに足る失態をやらかすのを待っていたのだ。
マンナーカノ王国は難しい国だ。
それぞれ独立していた領土が、かつて大陸で起きた激しい覇権争いに対抗するため寄り集まって生まれたため、未だ領主貴族たちの影響力が強い。
その上大陸の中央に位置する国として周囲を五カ国と隣接しているせいで、常に緊張感を強いられている。
そんな国主ともなれば、情や綺麗事だけではやってはいけない。自身の息子であろうと利用し、時に切り捨てでも国家の平穏のために権力バランスを維持しなくてはならない強かさと非情さが必要であると理解している。
――理解しておりましたし、国家とやらの望むとおりに動いては参りましたけれども、それに納得していたかどうかは別の問題だ。
トリアンリート王子は、癇癪持ちで我が儘で傲慢で、とてもではないが王になれるような男ではなかった。誰しもがそう思ったし、わたくしもそう思っていた。
けれど、彼を無価値だと思っていたわけではありませんでしたのよ。
わたくしとのお茶会の最中だと言うのに、真剣な眼差しで本を読んでいた少年。止めろ、嫌だしかなかった単純な罵倒の語彙が、次第にちょっと格好付けた台詞になっていったのがむしろ楽しかった。
じれったいほどの速度ながら、付き人や教育係たちの地道な努力を受けて変わっていった礼儀作法。描かれた王子様像に近付こうとして、運動だってはじめていたことをわたくしは知っていた。
それらを全部つぶしてまで、彼を愚かな子供に仕立てなくてはなからなかったのだろうか。
あの考えなしの取り巻きたちに唆されて足を踏み外していくのを、誰も止めようとはしなかった。彼が愚かである方が、誰にとっても都合が良かったからだ。
わたくしは、ずっと、怒っていた。
理不尽な国に、利権ばかりの大人たちに、それに踊らされるばかりの彼に、どうにもできなかった不甲斐ないわたくし自身に。
だから、トリアンリート王子が卒業記念パーティーでやらかしてくれてことは、良くやったという気持ちがあった。
国にとっては、わたくしの国外出奔含めて想定外の醜態に頭の痛いことでしょうけれど、良い薬になったのではないかしら。ご苦労様でございます。
と。まあ祖国のことはさておき。
わたくしは今、別の想定外を前に困惑している。
「それから、ドミトリウス殿下よりこちらをヒーデル侯爵令嬢へと預かっております」
届けられたのは美しい花々だ。
学院で共に過ごしている間、わたくしが好きだといった花をすべて覚えていらっしゃるらしい。
メッセージカードには『すぐ戻るので、その際は私と過ごす時間をくれないか』と流暢な文字で書かれている。
「……物好きなことですわ」
呆れつつも、卒業記念パーティーでしゅんと耳を畳んだ子犬のような顔が思い出されると、わたくしの頬はわずかに緩む。
彼からの好意が、嫌だというわけではない。
学院で知った彼の人柄は好ましいものだと思ってもいる。
けれどわたくしはまだ、彼に対する想いの形に名前をつけられていないのだ。
おわり
ヴェリアルデの視点だと、婚約のところからさかのぼることになったため、思っていたよりずいぶんと長い話になりました。
次は、トリアンリート王子の深堀をしてみたいと思っています。
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