形容できない感情は無理に言葉にしなくて良い。
放課後の予鈴は心地が良い。
我々学生は日々授業という名の強制労働とさえも思える時間に拘束されているのだ。解放を告げるそのチャイムは一日の頑張り全てを労ってくれているような、甘く優しい音色に聴こえてしまうのも無理は無いだろう。
俺は将来、就職先でどんなに理不尽な重労働やパワハラを受けても、感謝の言葉一つで許してしまうような立派な社畜になるに違いない。
俺はそそくさと荷物をまとめて鞄を肩に掛けてから、忘れ物が無いか念の為机の下に手を突っ込んでまさぐる。それから隣の席の元恋人への挨拶も忘れない。
「じゃあな恋花、部活頑張ってな」
「あれ、汐森君今日休みじゃなかったの」
休みじゃねえよ。朝からずっと隣の席に居たよ。始業式から皆勤賞だよ。
見えてねえのかと突っ込みたくなるが、これが恋花の挨拶なのだから仕方がない。返事があっただけ良いやと思えてしまう俺はもう、どんな言葉でも喜ぶ豚のような精神状態なのかも知れない。誰か良い医者を紹介して欲しい。
俺は口角を引きつらせてから
「まあ、いいや。陸上部始まったばかりだし怪我には気を付けてなー」
「それは…、ありがと。汐森君もバイト頑張って」
「…!」
なんて事だ。こっちに一切目をくれてはいないとは言え、会話のラリーが出来たのは始業式以来だ。
思わず心臓が跳び跳ねてしまった。返事がもつれる。
「きょきょきょ、今日はバイトじゃないよ。俺は委員会活動だ。図書委員。水上も誘ってみた」
「そ。瑞希ちゃんに変な事しないでね」
「変な事ってなんだよ…」
「あなたがすること全部」
「俺を変質者かなんかだと思ってるのか」
「何とも思ってないわよ。じゃね」
そう言って恋花は席を立ち、俺以外のクラスメイトには程々の愛想を返して教室を後にする。
「何とも思ってない、か」
俺は虚しくも、他の連中より特別冷たくあしらわれているというのに、少しだけ気分が高揚しているのを感じてしまっていた。
隣の席にいるせいで、性癖が歪んでしまったらどう責任を取ってくれるんだ、全く。
俺も委員会へ向かうとしよう。
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校舎二階の図書室。
本校図書室の蔵書数は2万数千冊。それが大きい規模なのかどうかは分からない。
陽当たりの良い場所に位置しているので、本が傷まないようにする為かいつも室内はカーテンを閉めて日差しを遮ぎり、照明が点けられていた。この構造は設計ミスだったのではないか?
俺は基本的に放課後はバイトをしている事が多いのだが、週に一度だけこの図書委員会の活動に出席する。
活動内容は主に本の貸し出しと返却を管理することくらいだ。学校で購入する本の話し合いなんかもどこかでされているそうだが、週一くらいしか活動しない俺には関係ない。
俺は図書室に顔を出すなり、同じ曜日担当となった後輩の水上瑞希へと声を掛けた。
「よ、水上。早いな」
「ああ、清継先輩お疲れ様です。さすがに担当決まった初日ですからね、早く来ちゃいました」
「同じ曜日になるよう計らっておいたぞ、感謝して欲しい」
「いや先輩、暇だから話相手になって欲しいって私を誘ったんじゃないですか。違う曜日だったら意味不明ですよ。暇人増員しただけになりますから」
水上の言葉通り、この委員会に彼女を誘ったのは俺だ。俺は部活に所属していないので、バイトがない日は直帰することしか選択肢が無くなるが、たまにはすぐに帰りたくない日もある。
その為こうして委員会活動をして時間を潰しているのだ。とはいえ、普段から読書癖のない俺にとっては、少々手持ち無沙汰になる時間が多い。それで気兼ねなく話が出来る後輩の水上を同じ委員会に勧誘したという次第だ。
俺は貸し出しカウンターの上に鞄を置く。
「なんにせよ、水上が来てくれて助かった。話相手がいなくて退屈してたんだ」
「まあこの学校、何かしらの委員会には強制加入ですからね。でしたら私も気が楽な方が良いです」
「それは良かったよ。そうだ、水上聞いてくれよ。さっき恋花と会話が出来たんだ」
「何ですかいきなり。自慢話の次元が低過ぎて悲しくなってきますね」
「これは快挙だぞ。こういう小さな積み重ねが清継復縁プロジェクトの成功に繋がるんだろうが」
俺がそう憤慨してみせると、水上は『ああ』と声を漏らす。そのプロジェクトまだ生きていたんですね、という意味だろうけど、勝手に殺さないで欲しい。
「して清継先輩、話の内容は」
「俺の事何とも思ってないって言ってたな」
「ある種嫌い以下の存在ですよそれ」
「何を言うか。今までのあいつはすいませんと声を掛けたなら拳銃で撃ち殺して来るような奴だったぞ」
「どこのスラム街の話してんですか!」
顔合わせの挨拶も程々にして俺も水上の隣の椅子に座る。
図書委員が二人に対して、お客様はいらっしゃらない。人件費の垂れ流しに浸れるというものだ。放課後すぐということもあるがいつもこんな感じだ。
だから話相手が欲しかったというのに、水上はいつの間にか文庫本を手にしていた。
タイトルは何だ?『悦びの罰』…。
何て物読んでるんだこいつ!俺は今まさに開けてはいけない性癖の扉に手を掛けているというのに。内容が気になるが訊くのも恐ろしいので止めておく。
俺は相も変わらず、暇人となったので、鞄から一枚の紙を取り出し近くにあった図書委員用の鉛筆を手に取った。
水上の顔をまじまじと見つめる。
「な、何ですか。」
視線に気付かれてしまったか。俺は気にせず、紙の上で鉛筆を走らせ始める。
「ちょっと、返事してくださいよ」
水上の顔をよくよく観察しながら、鉛筆の手を止めない。
「〜〜〜!」
暫く続けていたら水上は声にならない声を鼻で鳴らして、顔を真っ赤にしてしまった。
そりゃどんな奴でも、顔をじっと見つめられたらそうなるだろう。悪いことをした。
「先輩そろそろ怒りますよ!?」
「水上これを見てくれ」
言葉を制するように、俺は鉛筆で描いた一枚の肖像画を水上に突き出した。
水上がそれを一瞥して目を細める。
「何ですか、このクリーチャーは。この世に生を受けた事を後悔しているような顔ですね」
「水上、これはお前だ」
「誰の顔がクリーチャーですか!生まれた事を後悔させてあげましょうか!」
「まあ落ち着け。俺はお前の顔を良く観察して描いたんだ」
「先輩は私をストレスでハゲさせたいんですか」
そんなつもりは無かったのだが。やはり、俺には芸術のセンスとやらが全くないらしい。
「近々美術の授業である事が行われる」
「はあ」
「隣の席の人を互いに模写し合うというものだ。俺は恋花の肖像画を描き、恋花は俺の事を描かなければならない」
「地獄のような時間になりそうですね」
「見ての通り、妥協を一切せずに描いた俺のイラストセンスがこれだ。これを恋花に見せたらどうなると思う?」
「画板でぶん殴られるんじゃないですか」
「俺もそう思う」
俺が一切の手を抜かなかったとしても、こんな哀しきモンスターをお前だと言って見せれば誰しも不快になる。
俺の絵は悪意の無い凶器に等しい。
「水上、俺の絵を描いてみてくれ」
そう頼むと、水上は無言で紙と鉛筆をよこせというジェスチャーをする。俺が渡すと、水上はすぐにクリーチャーの隣に俺の絵を描き始めた。
「おお…」
時々ちらちらと俺の顔を見ているが迷い無く鉛筆を走らせ、あっという間にデフォルメ化された俺のイラストを描き上げて見せた。
水上はアレだ。クラスに一人はいる『なんか知らんがむっちゃ絵が上手い奴』である。一体奴らはどこで研鑽を積んでいるのだろう。趣味が興じてなのかは分からんが、敬意を表したい。
「大したもんだな。俺の描いた絵がイナゴの大群が通った後のようだぞ」
「それを言うならミミズの通った後では?何も残って無いじゃないですか」
「頼む水上、俺に絵を教えてくれ!」
「無理ですよ、一日二日でどうにかなるものじゃ無いんですから」
「そこをなんとか!」
俺達二人が図書室の利用者がいないことを良いことに騒いでいると、ふと女生徒に声を掛けられた。
「楽しそうな所悪いね。本の返却、良いかな」
声の方に目をやれば、そこには美しい、いや、麗しい佇まいの女子が一人。
「おお、王子か」
「やあ、清継君。今日は君が当番なんだね」
同じクラスの皇美姫、通称王子だ。
去年は俺の人気を抜き去った事から私怨を抱いていたが、クラスメイトになったので最近は話す機会が多くなっていた。どんな属性の人間にも別け隔てなく接する真に清き者だ。近頃は尊敬の念すらも抱いている。
王子と初対面であろう、水上は明らかに狼狽えていた。俺はカウンター後ろに引きずり込まれる。
「清継先輩!だだだ、誰なんですかあのイケメンはあ。」
「名前は王子。クラスの王子だ」
「すみません。ちょっと何言ってるか分かんないです」
「人気者だよ。俺と同じでな。お前俺と話しててもそんなリアクションしないだろ」
「だって、先輩とまた系統が違うじゃないですか!王子様ですよ~」
俺は一人で頬を赤らめて夢の世界に入り込む水上に一言告げて、席に戻る
「あいつ女だぞ」
「え」
「待たせたな王子、返却だったな」
「ああ。忙しい所悪いね」
こんなに暇そうなのは周りを見て分かるのに、気を遣わせてむしろ申し訳ない。
王子から何だか哲学的な本を受け取ると、俺は返却シートに今日の日付を書いて判を押す。
「何か借りていくか?」
「いや、今日は止めておくよ。読書に集中して課題が手に着かなくなりそうでね」
王子スマイルを返されて、俺も水上のように心が乙女になってしまいそうになる。この感覚は可愛い女子に一目惚れするのでなく、目の前のイケメンに落とされてメスになる感覚だ。
しっかりしろ俺。俺は頭を振る
「そうだ、王子これを見てくれ」
そう言って俺は水上にクリーチャーと評された肖像画を見せる。
王子は興味深そうに顎に手を当て、短く一言。
「個性の光る絵だね」
水上聞いたか。これが他人を傷付けない王子のオブラートだ。シルクのようだろう。是非とも見習って欲しいものだ。
それから王子はさらにクリーチャーへと接近し、一人頷きながら鑑賞していく。
「これは怒り、いや哀しみなのか?だがある角度から観れば喜んでいるようにも見える…。そうか、これは戦争という悲劇を二度と繰り返さない為の」
誰がそこまで深読みしろと言った。
水上が隣で腹を抱えてながら大笑いしている。
「あっはははは!」
「なんだい、僕は何かおかしな事を言ったかな?」
「王子、お前は無自覚に人を傷付けているぞ」
「そうなのかい。それはすまなかった」
「いいよ。形容出来ない感情は無理に言葉にしなくて良いだろ」
王子は俺の言葉を反芻するようにして頷いてみせる。
「深いな」
こいつはもうだめだ。良い奴なのは間違い無いが、圭吾と同じ匂いがする。純粋過ぎて扱いが難しい人間なのだろう。
「もういいよ。用が済んだならさっさと帰れ」
「冷たいなあ、君は。まあいいさ。それじゃあね、清継君。あと…」
「水上瑞希です」
「うん。僕は皇美姫。じゃあね、瑞希ちゃん」
王子は俺達に爽やかな笑みを送ると片手をふわりと上げて去って行く。
馬車にでも乗って帰るような後ろ姿だ。心無しかこの古い図書室が宮殿のようにも見えてくる。
王子の姿が見えなくなると、水上は興奮気味に
「ヤバいですね、清継先輩。瑞希ちゃんって…呼ばれちゃいましたあ」
「水上、お前意外とミーハーなんだな」
後輩の知らない一面を覗いてしまった。
その後も俺達は本を読んだり、少し話をしたり。たまに利用者が来て対応してを繰り返した。
肖像画の件は授業までに何らかの手を打たねばならないだろう。
委員会の時間が終わり、鍵を閉めて職員室へと鍵を返却する。職員室はいつもコーヒーの匂いがする。
俺のクラスの担任、近島先生がいたので、少しだけ委員会の話をした。先生は俺の話を良く聞いてくれ、終始笑顔でとても可愛い。
バイトの代わりにだいぶ時間を潰しただろう。そう思った。
それでもまだ少し時間を浪費したりない。
「水上、お前これからどうするんだ」
「どうするって帰りますよ。当たり前じゃないですか」
「そう、だよな」
俺が歯切れ悪く応える。するとその直後背中を強く叩かれた。
「よ、清継!水上!帰りかあ?俺も今部活終わったとこ!」
「あ、圭吾先輩お疲れ様です」
友人の圭吾だ。
こいつは昔からサッカーをやっていて、高校でも当たり前のようにサッカー部に入った。汚れたユニフォームのまま、白い歯を見せ付けてくる。
「サッカー部今日は早いんだな」
「まあな、新1年生が入ってミーティングと軽い練習くらいだったし。今帰るとこだろ?俺も混ぜろよ」
「いや、俺はもう少し…」
そこまで言って、次の言葉が出なかった。下校するには良い時間だろう。日も落ちてきている。
そんな中で、俺はまだ帰りたくないとは言い出せなかった。
しかし圭吾は、何かを察するような表情をする。
「ってか腹減ったよなあ!清継、水上。これからなんか食いに行かね?」
「ええ、またですかあ。私今日外食するってお母さんに伝えて無いんですけど」
「デザートくらいなら奢ってやるぞ」
「大至急連絡します!」
そう言って水上は圭吾に敬礼すると、いそいそとスマホを取り出してメッセージアプリを開く。
俺は何だか呆気に取られて上手く言葉が出てこなかった。
そんな様子を見て、圭吾はいつものように軽い口調で
「清継、勿論お前も行くよな!」
俺は勢いに飲まれたようにして『ああ』と返事をする。
本当は時間潰しの手段を探していたのだから、とても嬉しかった。
こうして俺達三人はまた帰りに寄り道をしていく。俺はこの時間に安心感を覚えて胸を撫で下ろす。
この時の俺は、何故俺が家に帰りたがらないのか、二人に打ち明けることは出来なかった。
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