プロローグ:残響の檻
多少独自解釈、改変あり
鄧士載の視界には今日も褐色の波紋が広がっていた。
立って拳を突き上げこの褐色の水面に一飛沫あげたいが、自由を制約する重く長い鎖を打ち壊す前段階が必要だ。
ふと自らの手の甲を覗き込むとかつての戦傷と根のように深く長く刻まれたしわが薄暗い空の下でもはっきりと見えた。
もう木材を割る力でさえもこの老体に残ってなかろうと悟り、力なくゆっくりと腕を下ろした鄧艾は鉄格子の間隙から後ろで同じ境遇にいる息子の姿を見た。
美男子と呼ばれ数多の蜀将相手に奮戦してきた勇将の姿はそこにはなく目の周りを赤く腫らした初老の男が一人。
蜀制覇後の大望野望が儚く水泡と帰したこの状況で雒道をゆっくり北上させられている多くの将兵達はこの鄧父子のように目に光を灯すことなく蜀の山林を眺めていた。
そこに前方から檻車の将兵の視界を遮るかのように砂埃をあげながら駆けてくる将がいた。
「…と、鄧士載よ、まだ蜀の地に未練があるのか。いくら地形好きな貴様とはいえ、この檻車、この無数の護送兵の中では手も足も出まい。大人しく晋公に謁見し、故郷で農耕でもして老後を過ごせば良かったものを。」
「し、師纂か…胡烈といい衛瓘といいお主といい…姜維と睨み合っただけの鍾士季のごとき若造の讒言を迂闊に信じおって…この時機での呉侵攻の重要性が何故分からんか!」
「口を慎め。私も鍾会殿も晋公の命に従ったまでだ。」
「晋公も晋公じゃ。晋公、いや司馬昭様はこの忠臣を信じなさらず、あの若造の虚妄に振り回されてしまわれるとは…仲達公の時代ではな…」
「鄧士載よ、時代は変わったのだ。名実ともに曹魏は司馬氏の傀儡となっておる。正史の曹爽一派の誅滅の頃とはわけが違うのだ。魏帝から晋公への禅譲も現実的になってきた今、司馬氏に絶対服従を誓わねばならない時節なのだ。それが蜀侵攻後の召還にも応じず呉侵攻とは…晋公の懸念ももっともであろうが。」
「その正史の頃より姜維の北伐阻止に注力してきたわしが蜀や荊楚で独立すると?馬鹿馬鹿しい。卑賤の身から国の安定を願ってきたわしが何故今頃になって反逆を…王凌、毌丘倹、文欽、諸葛誕、それに高貴郷公までも司馬氏には敵わなかったのじゃぞ。司馬氏の圧倒的な力は間近で見てきたこのわしが一番理解しておるわ。」
「ならばその証明を凱旋と共に行ってくれば良いではないか。…これだから爺の戯言には付き合ってられん。」
師纂はそう言ってため息をつくと周りの魏兵を見渡した後に怒り心頭の鄧艾に近づくと小さな声で
「…な、なあ爺さん、俺も本当は爺さんのような英傑をこの世から失いたくはない。頼むから蜀侵攻同様に呉侵攻を行いたいのなら世渡りを学んでくれ…」
鄧艾はそっと目を閉じると、去っていく師纂に目もくれず檻に背を委ね、また低い空を眺めた。
鄧士載は未だに褐色の波紋を眺めていた。風の強さ、周りの明るさから鑑みるに重たい曇り空が広がっているらしい。
最近では護送兵でさえも日に日にやつれゆく鄧艾の様子を気にするようになっていた。
今は罪人を帝都洛陽まで護送する兵となっているが、鍾会の直臣だけでなく鄧艾の指揮下で陰平の急崖を抜け、成都まで破竹の進撃を共にした部下も含まれていた。。
指揮に武人に内政に能を発揮していた鄧艾を罪人となってしまった今でも慕う者は多かった。
一方、その対象である鄧艾自身は
「わしの望んだ平穏な日々は何処か。わしの求めた安泰な国家は何処か。鍾士季のような若く才能があるというだけで私利私欲にまみれた男に蜀の地を任せるなどそれこそ独立を許すようなものじゃ。司馬昭は何を考えておるのか。それにしても護送兵達がわしに憐憫の情を見せておるがそんなことをするくらいなら早くわしを救い出して逆賊鍾会を討たんか」と深くため息をつきながら考えていた。
魏に仕えて50年もの歳月が流れた。曹操の代に興隆を見せ、曹丕によって帝国へと昇華。曹叡によって盤石なものへと大成したが、曹芳の代には司馬氏が台頭。曹髦は司馬昭に反逆の意思を示したものの抹殺され、曹操の孫の曹奐が傀儡として擁立され現在に至る。
「今の司馬昭の専横には憤りを感じるが、わしはそもそも司馬氏によってこの潮流に飛び込んだ身。仲達公の御志に共鳴し魏のため司馬氏のため逆賊を倒し蜀討伐に尽力してきたが…ふむ、どちらか捨てねばならんようだな…司馬氏に逆賊として滅ぼされた者共になるか、かつての文帝(曹丕)の頃の仲達公になるか…」
そう考えているうちに鄧艾は強い眠気を感じ、深い眠りに入っていた。
周りの護送兵は生死の確認以外は特に何も行わなかった。
プロローグにしては長いのかも