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デイヴィッドside
「今の私には、あのパーティーの後に飛び降りた時までの記憶しかありません」
「……え?」
衝撃の事実だった。
つまり、転生してから彼女が私にとった態度は、前世で私たちが結ばれた記憶がなかったからこそのものだと、そう捉えても、良いのだろうか。
「……つまり、私は、エヴィに許して貰えていなかったとは限らない、という事………?」
恐る恐る、そう聞いてみる。僅かにでもその可能性があると思っただけで、情けなくも涙が滲んできたけれど、気合いでエヴァンジェリン嬢の瞳を見つめ続ける。
「……記憶があの時点で止まっている私としては、とても肯定できないくらいの気持ちですけれど。……ご覧の通り、私は相手への感情が態度に現れやすいようですので、その片鱗を前世の貴方が感じられなかったのであれば、その可能性もゼロとは言えないのでしょう」
今はとても許せそうにない、と遠回しに言いつつも、エヴァンジェリン嬢の瞳に憎悪は浮かんでいなかった。
むしろ、どこか優しげな色が滲んでいて……。
「……そんなに泣かれていると、まるで私が加害者のようね」
エヴァンジェリン嬢がそう苦笑して、私にハンカチが差し出される。
「えっ、あ、ありがとう、ございます……」
そして、ようやく気づく。
私は、堪えきれずに泣いてしまっていた。
気づいてしまったが最後、涙の勢いが増し、嗚咽が漏れ始める。
エヴァンジェリン嬢は、エヴィのように抱きしめてくれることは無かったけれど、私が泣き止むまで静かに待っていてくれた。
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エヴァンジェリンside
「……みっともなく泣いてしまって、申し訳ありません」
謝罪してきた彼は、ズビズビと鼻を啜っている。
この人が私に二度と会おうとしないくらい、いっそ泣かせるつもりで今日は挑んでいたけれど、いざ泣かれてしまうとあまり愉快な気持ちにはなれなかった。
泣いている理由が、前世の私に嫌われていない可能性が見えてきたから、という健気なものだからなのかもしれない。
とりあえず、渡したハンカチは返さなくて良い、とだけ言っておいた。
あからさまに落ち込んでいる姿には、見て見ぬふりをすることにした。
ぬるくなったお茶を飲み、落ち着いたタイミングで言った。
「………あなたの言う事を信じるなら、前世の私は、ステイプルズ家に嫁いでから2人の男児を授かったそうですが、彼らと会うことは可能ですか?もしかしたら、自らのお腹を痛めて産んだ子に会えば、何か思い出せるかもしれません。
………知りたくなってしまったんです。記憶の止まっている私が抱くこの悪感情を、前世でどのように乗り越えて結婚に辿り着いたのか」
彼からすれば、このまま婚約が解消されるのは、あまりに酷な事だろう。
約束は破ったものの、きちんと埋め合わせを済ませてお互いに納得したはずの事を、「よくも約束を守らなかったな」と10年後に蒸し返すようなものなのだから。
「その為に、婚約解消まで少々のお試し期間を設けたいのです。元々、解消についてはこちらから言い出したわがままですので、お試し期間に関しても、私から両家に伝えさせていただきます」
そう伝えると、目の前の彼は目をぱちくりさせながら、
「は、はい」
と答えてくれた。
「……では、始めに、諜報員として働いてくれていたメイドに声をかけてみます。息子達と直接の繋がりはできていませんが、私も一応父親でしたから、彼女を通じて多少の話は聞いているんです」
「よろしくお願いします」
こうして、2人きりでの外出が決まった。
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デイヴィッドside
詳細は手紙でやり取りすることになり、私はリカード家を後にした。
「……デイヴ、大丈夫?」
ガタガタと揺れる馬車の中、窓の外を見つめ続ける私に、母が声をかけた。
「ええ、大丈夫です。
エヴァンジェリン嬢と話し合い、解消の前にもう少しだけ猶予をいただける、という事になりました。猶予期間等については、リカード家から打診が入ると思います」
「まあ、そうだったの!良かったわね、デイヴ。
……でも、その期間が終わっても、解消の方針に変更があるとは限らないわ。あまり、期待しすぎてはダメよ。心が潰れてしまわないように、悲観するくらいが丁度良いの」
久々に聞いた言い聞かせるような口調に、少しだけ笑みがこぼれる。
今後何年歳を重ねようと、母に勝てる気だけは永遠にしない。既に人生二週目の私にとって母は年下なのだというのに、この有様なのから。
後日、リカード家の手紙が私にも回ってきた。
「婚約の解消まで3ヶ月の猶予を持たせる、かぁ。良かったな、我が自慢の繊細すぎる弟よ!」
手紙を渡してくれた兄が冷やかすように言った。
言葉と同時に私の背中へと放たれた戯れの平手は、僅かに滲んだ私の涙を吹き飛ばしてくれた。
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エヴァンジェリンside
「……本当に良いんだな?話し合いの途中に、部屋からメイドを追い出したと聞いたが、脅されていたりは無いんだな?」
「もう、そのお話はこれで3回目ですよ、お父様。何度聞かれたって、私の答えは変わりません。
この期間の後に婚約を解消するか否かの決定権は、変わらずこちらにあるのですから、どうか安心してくださいな」
「しかし……」
尚も言い募ろうとする父を、笑みを浮かべて牽制する。
向けられる愛情に嬉しく思うものの、多少過保護が過ぎるのではないか、という考えが抜けない。
それに、使用人たちの暖かな眼差しがくすぐったかった。
「……分かったよ、もう聞かない。その代わり、何かあったらちゃんと教えてくれ」
「はい、分かりました」
少しだけ寂しそうな表情をした父が、私たちの距離を詰めてそっと私の頭を撫でる。やっぱり使用人たちからの視線が恥ずかしかったけれど、父の気が済むまで、私は父に身を預けていた。
そして、私たちの話し合いからちょうど一週間後。
私は、前世で飛び下りた直接的な原因の一つである、アレと逢い引きしていたメイドと会うために、馬車に揺られていた。
『結婚した記憶が無い=妻とは言えない』という事で、ヒーローは敬語になりました。それまでは、『愛情に偽りがあっても、交わした言葉の全てが嘘だったとは限らないから、妻の言いつけは守らないと』という使命感で謝罪の時も敬語を外していました。話し方の制限がなければ、ヒーローは確実に敬語を選択しています。
ありがとうございました。