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夢想に散る  作者: 希望
3/3

後編


現実世界で苦しむ人々に救済を。

昔も今も変わらない、自分の誓いだ。



今まで、多くの人を見てきた。


愛していた恋人に裏切られ、絶望しながら首を吊った者。

いじめが原因で精神を病み、薬漬けの生活を送った末に自らの命を絶った者。

「ごめんね」と言って、目の前で首を掻き切って死んだ母親。



瞼を閉じれば、彼らの最期が鮮明に浮かび上がる。

その度に思った。


もう誰も死んでほしくない。誰も苦しませない。

思えば、その一心でこの世界を作り上げたのだ。



随分と長い間、この活動をしている。

上手くいかないことの方が圧倒的に多かった。助けられた人はいたけれど、助けられずに死なせてしまった人も同じか、それ以上にいた。その度に涙を流し、頭を抱え、己の無力さを呪った。


例え上手くいったとしても、心はすっきりとしなかった。

我ながら矛盾していると思う。助けられたのに、喜ばしいはずなのに、心にはもやがかかっているから。



夢の世界における性質。それは、自己の忘却。

優しい世界に身を置き続けると、気づかぬうちに自分のことを忘れてしまうのだ。


心のもやは、間違いなくこのせいだ。

どんなに彼らを救ったとしても、その先にどうしても立ちはだかるのだ。どう手を打っても、これだけは絶対に解決できない。永遠の享楽を手にすることへの代償なのだろうか。薬のようなものだ、とも思う。


でも、夢の世界から出ようとさえしなければ、彼らはずっと幸せに生活できる。

それこそが、自分の求めていたものだ。例え彼らが、彼ら自身のことを分からなくなったとしても。生きているのなら、幸せだと感じているのならば、それでいい。


人々の命を助けられるのなら、それに勝る喜びはないし、これまでの行いに意味があったと証明できるのだ。




ふと、彼女のことを思い出す。


彼女もそう。現実世界で苦しむ人間だった。

これまでの人々と比べたらまだ軽い方だけど、彼女は心から苦しみを感じていた。


助けたいと思った。幸せになって欲しいと願った。

「たかが恋愛で」と彼女は言ったけれど、それでも夢の世界に案内するに足る理由だったと思う。



人よりも後ろ向きで、人よりもネガティブになりやすい彼女。

ここに案内してからは、嬉しそうな表情がかなり増えたように見える。



『私、貴方に恩返しがしたい』

『なにか出来ること、あるかな』



胸の内でこだまする、彼女からもらった言葉。

それだけで、自分は報われる。これまでの行いに意義を見いだせるのだと、そう信じられる。



だから、今日も人々に手を差し伸べるのだ。



夢の世界の端にひっそりと存在する、鏡を映したかのような湖水。

ゆらゆらと揺れる水面を見つめながら、私はひとり座っていた。



最初からわかっていたのだ。

でも、逃げたかった。受け入れたくない現実を前にして、逃げる以外の選択肢なんて考えられなかった。結局、私は夢の世界に逃げた。だって、あの人たちみたいに死ぬなんてこと、あの時の私にはできなかったから。


確かにこの世界は、誰もが幸福で、誰もが自由だった。

ネガティブな感情がなくなるのはとても理想的だし、現実世界なんかとは比べものにならないくらい優しい場所だ。


でも、彼らを見ていると、人間らしさが損なわれているとも感じた。

そう思ったのは、あの双子と話してからだ。


彼女たちは本当に幸せそうだった。

だけど、彼女たちにはそれしかなかったのだ。

ここには”幸せ”しかない。それ以外のなにもかもが消えてしまっていた。



逃げたいと言っておいて何だけど、結局は現実のおぞましい世界の方が、ずっと人間らしくいられると感じてしまったのだ。



ほんと、嫌になる。



戻りたい。帰りたい。

でも、私はどこに帰ればいいの?



現実世界には帰れない。

だって、私は現実世界を断ち切ってここに来たのだから。



“そうなるのを分かった上で、夢の世界を選んだのでしょう?”



声をかけてくるのは、心の中にいるもう一人の私。もう一人の私が、冷ややかな目で私に問いかけてくる。



“あなたも私も、もうどこにも帰れないの。この意味、分かってる?”



うるさい。話しかけないで。そんなの分かってる。



“本当は気付いているんだよね?自分に取り残されている選択肢が。”



黙れ。



頭が痛い。喉の奥が苦しい。

それでも構わずに、もう一人の私は言葉を続ける。



“あーあ。本当に愚か。

自分のことしか考えられなくて、どこまでも後ろ向きで、逃げることしか頭にない。心底気持ちが悪い。救いようがない。”



「っ─────」



気持ちが悪い。吐き気がする。

逃げたい。ここから逃げたい。

私の嫌なところを突かないで。都合の悪い事実を見せないで。全部分かってる。知ってるの。自分がどうしようもなく愚かな人間だって、ちゃんと知ってるの。



頭を掻き毟る。頭皮に爪を立てる。

苦しい。つらい。痛い。苦しい。苦しい。



こんな事をしても何も変わらないのに。

だけど、こうでもしないと心が崩れ落ちてしまいそう。




……ああ、キツいなあ。




「どうしました?」



突然、背後から声が聞こえてきて、慌てて振り返った。

そこには、心配そうに眉を下げる管理人さんがいた。

自分の嫌な部分を、これでもかというほど突きつけられて辟易としていたからか、すぐ後ろの気配すら感じ取ることができなかったみたい。



「管理人、さん…」



どうにか平静を装おうと思って、咄嗟に目を逸らして深呼吸をする。

小さく開けた口から、それに釣り合わない量の息を吸い上げ、そして吐き出した。さっきよりは多少落ち着いたけれども、喉の奥の痛みは完全に消えてはくれない。


蹲っていた私のすぐ傍に膝をついて、管理人さんは顔を覗き込んだ。



「貴女がどこか苦しそうに見えたので…。何があったんですか?」



管理人さんと目が合う。いつもと変わらない澄んだ瞳が、私を鮮明に映し出す。

管理人さんの瞳を見た途端、これまで抱えていた胸のつかえが堰を切ったように溢れだした。



「管理人さん、あのね、私、私…」



声が震える。泣きそうになる。

怖くて怖くて、心が押しつぶされてしまいそう。


何かを言おうとしても、怖さが勝って言葉が出ない。

胸は何かに圧迫されたように苦しいし、喉は針でチクチクと刺されているかのように痛い。

あまりの苦しさに俯いていると、ふと視界の端で何かが動く。それが管理人さんの手だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。


管理人さんは私の指先を取って、大きな両手で私の手を包み込んだ。手のひらから直に温かい熱が伝わってきて、それが余計に鼻腔を熱くさせる。




ああ、温かい。

管理人さんの優しさが、私にとっての唯一の救いだ。


この人に縋りたい。

一時のものでもいいから、安心が欲しい。



そう願って、そっと瞼を閉じる。

だけど、もう一人の私は容赦なく冷たい正論を浴びせる。



“本当に愚かな人。管理人さんに縋っても、何も変わらないのに。”

”こんなことをしても、貴女の心も本質も変わらない。”

”貴女に残されている道だって、変わりやしない。”

”ねえ、まだ目を逸らすつもり?”



管理人さんの手の温かさと、私を突き刺す言葉の冷たさ。その二つが胸の内で混ざりあって、気持ちが悪い。安心感だけが欲しいのに、私が目を逸らしている感情が躊躇うことなく横槍を入れてくる。


私は優しさが欲しい。私は温かさだけが欲しい。

だから、胸に突き刺さる冷たい言葉も、都合の悪い事実も要らない。受け入れたくない。


それなのに。



「大丈夫。ここにいれば、きっと貴女の不安もなくなります。だからどうか、安心してください」



管理人さんが、私の不安を消し去るように両手を握りしめてくれる。

とても温かい。積もりに積もった不安が、雪解けのように優しく溶かされているみたいだ。



でも。




逃げたいという気持ちは、いつまでも消えなかった。



窓辺に置かれた花瓶には、青色のムスカリが飾られている。

ここの店主さんの趣味なのだろう。何度かこのパンケーキ屋さんに足を運んでいるけれども、花瓶の中の花は毎回変わっている。


この前はオリエンタルポピーで、さらに前はカスミソウ。

ここのパンケーキがお気に入りで訪れているというのもあるけれども、毎回変わる花を嗜むのも、この場所での楽しみとなっている。




そういえば、あの子は元気かしら。

ええと、そう。セーラー服を身にまとったあの子。

最近見かけなくなってしまったけれども。きっと、夢の世界のどこかで楽しく過ごしているのでしょう。


また顔を合わせることがあれば、あの日のように一緒にパンケーキを食べに行こう。そして、他愛のない話に花を咲かせるのだ。


あの日は楽しかった。

夢の世界に訪れて日が浅い彼女が、パンケーキを見て目を輝かせていたんだっけ。そして、夢中で頬張っている姿が微笑ましかった、そんな記憶。



思い返すだけで楽しくて、幸せで、胸が踊る。




カラン、と氷が音を立てた。

音がした方に目をやると、双子の少女たちがストローでグラスの中にある氷をつついていた。



「ジュース、飲み終わったのね。美味しかった?」



そう声を掛けると、二人はキラキラとした笑顔で「うん!」と答える。

そう、今日は双子の可愛らしい少女たちが同席している。パンケーキ屋に向かう途中で彼女たちと偶然出くわしたので、良かったらと思って誘ったのだ。彼女たちはここに来るのは初めてだったようで、メニューを見たときには感嘆の声をあげていた。


二人お揃いで頼んでいたうさぎのパンケーキは、綺麗に完食されている。



「ふわふわのパンケーキも美味しかったのよ!」

「甘い生クリームと一緒に食べたらね、お口がとろけるようだったの!」

「ほっぺが落ちちゃいそうだったわ!」

「あのね、すごくすごく美味しかったの!



口々にパンケーキの感想を言う彼女たち。ふと双子の姉の頬にクリームが付いているのに気が付いて、手を伸ばす。彼女はぱちりと目を瞬かせた。



「ほら、ほっぺたにクリームが付いてるわよ」


「あら、本当?」



頬のクリームを指で拭うと、ありがとうと微笑む彼女。

その素直な様子に、思わず笑みが零れる。


指先で拭ったクリームを紙ナプキンで丁寧に拭き取っていると、少女たちは互いに顔を見合わせてふふっと笑う。どうしたんだろうと思えば、私の方に目を向けて身を乗り出した。



「ねえ、お姉さん」

「栗色の髪のお姉さん!」

「私たちね」

「私たちね!」

「今度は花冠を作りたいわ!」

「色とりどりのお花でね、可愛い冠を作りたいの!」

「ねえ、良いでしょう?」



街通りを出て少し歩いた先にある、色とりどりの花が咲き誇る花畑。そこに行きたいという。パンケーキも食べ終わったし、外に出て鼻腔をくすぐるような花の香りを楽しむのも良いかもしれない。



「ええ、行きましょう」



私がそう言うと、双子の少女たちはハイタッチをして喜んだ。それを存分に見て癒された後、お店を出て花畑に向かった。


三人で仲良く歌を歌いながら草原を歩いていると、見覚えのあるセーラー服の少女が遥か先を歩いているのが見えた。



「あら?」



あの子だ。


自分たちとの距離はかなり離れているけれども、あれは間違いない。

それにしても、一人で何をしているのだろう。散歩?それとも、別の何か?


話しかけようと思ったけれど、何だか悪いような気がしてやめた。

なにがそう思わせたのかは分からないけれども。



「お姉さん」

「お姉さん!」

「おうた、歌わないの?」



双子の少女たちに呼ばれて、我に返る。いつの間にか考え込みすぎていたようだ。

少女たちは眩いばかりの瞳をこちらに向けて、首を傾げている。



「歌うわ。さ、続きから歌いましょう」



遠い異国の古い民謡。

どういう意味なのか、どのような背景があるのかは分からない。ただ、この歌は妙に頭から離れない。


それだけ素敵な歌ということなのだろう。

なら、たくさん歌いましょう。


背中から優しく吹く風に、そっと歌声を乗せた。



昔から、嫌な事からは逃げてきた。

授業で発表がある日は学校を休んだし、大嫌いな水泳のテストの日は、おなかが痛いと嘘をついた。


いけないことだというのは、随分と前から自覚している。

でも、私は今までそうやって生きてきた。それ以外の方法なんて知らない。他の人のように逃げずに頑張ってみるなんて、意気地なしの私にできる筈がないのだ。



それが私という人間なのだから。



今回だって、同じ。

現実が嫌になったから夢の世界に逃げて、だけど夢の世界にも嫌気がさしてしまった。というよりも、恐ろしくなってしまったのだ。


この世界の事実を知った途端に、私の頭は恐ろしいほどネガティブな方向へと引きずられてしまった。それと同時に、逃げたいと思ってしまった。どんなに誤魔化しても、どんなに押し殺そうとしても、この思いだけは消えなかったのだ。


夢の世界に来ても、結局私の心の奥底にあるものは変わらなかった。

我ながら笑ってしまう。いっそのこと、最後までこの姿勢を貫いてしまおうか。でも、どこに行けば逃げられるのだろうか。夢の世界から逃げる術なんて、知る由もないのに。どう探せばいいのだろう?



そんなことを悶々と考えながら、どこまでも広がる緑の地を歩いていた。



行き先はあの湖。管理人さんと一緒に過ごしている場所だ。

何故だか、あの場所は妙に心が落ち着くのだ。管理人さんが言うに、他の住人たちはあまり寄り付かないらしいけれど。


あんなに幻想的で美しい場所なのに、何が彼らを寄り付かせないのだろう?

管理人さんは湖を大層気に入っているというのに、何だか不思議だ。


夢の世界には絶景と形容できる場所がいくつもあるけれども、湖は格別だった。この世すべての美を凝縮したかのような、いや、寧ろ絶景と評しても足りないぐらいの美しさだというのに。湖の美しさを知らないなんて、勿体ない。




やがて、私の足は草原から小さな森へと入っていく。

湖は、森の奥の開けた場所にある。ここの森は木々が空を隠すように生えているので、上を見上げても幻想的な星たちを拝むことはできない。


足元に落ちている枝を踏みしめながら進んでいくこと十数分、遠目ではあるが、木々の隙間から光が漏れ出るのが見えた。


もう少ししたら湖のある場所に辿りつく。

湖が見えたら何をしよう。最初はとりあえず、無為な時間を過ごそうかな。考えるのは後からでもいい。今はただ、一秒でもいいから安らぎが欲しい。



木々を掻き分けるようにして進むと、まずは優しい光が視界いっぱいに広がった。それが少しだけ眩しかったので、避けるように目を伏せる。そうして光に目が慣れてきた頃に瞼を開くと、美しい湖がその姿を見せた。


そして、そこには見覚えのある人影があった。



「あ……」



それは言わずもがな、管理人さんだった。

管理人さんは背中を向けているから、私の存在に気が付いていない。それに、私との距離も十数メートルは離れている。だから、私の足音にも気が付いていないだろう。


管理人さんと名前を呼ぼうとしたが、それは喉元から出ようとしたところでピタリと止まった。

何故かって?それは、管理人さんが湖に躊躇なく入っていったから。



管理人さんは、そのまま足を踏み入れていく。


嘘でしょう?

だって、底がないから落ちたら危ないって─────


私は制止しようと管理人さんのもとへ駆け出すけれども、時すでに遅し。管理人さんの身体は、完全に湖に包まれた。



「ちょ、嘘…」



いきなりの出来事に愕然としていると、不意に湖が青白く輝きだした。その光によって、管理人さんの姿が綺麗さっぱりと消える。

そして何事もなかったかのように、湖はもとの美しい姿に戻った。


湖に沈んだはずの管理人さんは居らず、透き通った水面には泡ひとつない。




「───── は、」




そのとき、私は悟った。

今眼前に広がる湖こそが、夢の世界の出口であると。

そして、湖に身を投じれば最後、自分は現実世界だけでなく夢の世界も拒絶することになると。


それが何を意味するのかは、分かっていた。



でも、私は望んでいた。望んでしまったのだ。

─────ただひとつ、逃げたいと。



どこからか、声が聞こえてくる。



”逃げよう?”



これは、管理人さんの声ではない。

私の心の奥底。私自身の声。




心臓がドクドクと強く脈打つ。

頭が金槌で殴られたかのように痛む。


身体中が熱くてたまらなくて、破裂してしまいそう。

でも、私の心は歓喜に震えていた。


感動のあまり、私の両の目からは涙が溢れ出る。



そう。そうだ。

これが私の望んだ道だ。これが私の望む結末だ。

私は逃げる。例えそれが間違いであっても、私は構わず逃げるの。




それが、私という人間なのだから。





頬を伝っていた涙が、地面に落ちて消えた。




久しぶりに会った彼女が「時間がある時に湖で一緒に話したい」と言ってくれた。

あの一件があってから、なかなか顔を合わせる機会がなかったけれども、こうして彼女の方から誘ってくれたのが嬉しかった。


だから、現実世界での仕事が終わったら、真っ先に湖へ向かおうと決めていた。



草原を進み、森に入る。森を抜けて湖に出ると、彼女が水面をじっと眺めながら座っていた。僕の気配に気が付いたのか、振り向きざまに嬉しそうな表情を見せる。



「管理人さんっ!」


「すみません、遅くなってしまって」


「ううん、大丈夫です」



彼女の隣に腰掛ける。湖は、相変わらず絢爛たる姿を惜しみなく見せている。


ここの湖は、いつ訪れても綺麗だった。

悲しいことがあって落ち込んでいる時も、嬉しい事があって気持ちが昂っている時も、決まって美しかった。


彼女は、湖の輝きをその目に焼き付けている。心なしか、その目元が赤い気がした。

気の所為ならいいけれども、前に彼女がとてつもなく不安に駆られた表情を見せていたことがあったから、心配でならない。


もしかしたら、また何かを抱え込んでいるのかもしれない。そう思うと、不安でたまらなくなる。


たまらず、彼女に声を掛けた。



「何か、ありました?」


「え?」


「いや、そのなんというか…少し前に、とても辛そうな顔をされていたのでもしかしたらと思って」



自分の言葉に対して、彼女は目を丸くしてきょとんとした顔をしていた。

杞憂だったのだろうか。以前のような泣きそうな顔はどこにもなく、自分がたった今投げかけた言葉に対して首を傾げている。


少しの間を置いて「ああ、あの事か」と気が付いた彼女は、すぐさまにこやかな顔を見せた。



「それなんですけど…実はもう吹っ切れたんです」



吹っ切れた。

その言葉を聞いて、僕の心は良かったと一安心する。

あれは、本当に杞憂だったのだ。あの時の彼女に何があったのかは分からないけれども、少なくとも今は大丈夫なのだと分かって安堵した。



「というか、管理人さんに思いっきり心配かけちゃってたんですね。申し訳ないです」


「いえ、何事もないのなら、それで良いのです。貴女に悲しい顔は似合わないので」


「へへ。それはちょっと照れますね」



彼女は照れくさそうにはにかんで、少しだけ目を逸らした。

我ながら気取っていたかもしれないと思うと、羞恥に顔を赤らめそうになる。しかし、これは紛れもなく自分の本心である。


彼女をはじめとした夢の住人たちには、いつまでも幸福でいて欲しいのだ。その気持ちを伝えたかったのだけれど、婉曲な伝え方をしてしまったみたいだ。



それから、無言の時間がいくらか続いた。

どうにか沈黙を破ろうかと思ったけれども、肝心の話題が見つからない。


どうしようかと内心わたわたしていると、彼女が徐に口を開いた。




「今日管理人さんに来てもらったのには、ちょっと訳がありまして」


「…?と、いいますと?」


「最後に管理人さんにお別れを言いたくって」



お別れ?しばらく何処かに行くのだろうか。


彼女は立ち上がって湖の近くまで歩み寄ると、振り返って身体をこちらへ向けた。

それに合わせて、プリーツのスカートもふわりと揺れる。

そして、彼女は僕に向かって、言い放った。





「私ね、ここから逃げようと思うの」




「─────え、?」






彼女から発せられた言葉の意味が呑み込めず、頭が真っ白になった。

そんな中、僕は辛うじて言葉を絞り出した。



「どういう、意味ですか?」


「逃げるんです。この世界から」



暫しの沈黙。

時間をやや置いてから、脳は、徐々に彼女の言葉を理解し出す。それと同時に、狼狽した。


逃げる?そんなことは不可能だ。

夢の世界に足を踏み入れたら最後、現実世界には二度と戻れない。それは事前に伝えていて、彼女も了承したはずだ。



「そんな事、できないですよ。だって夢の世界の出口は、」


「私、見ちゃったんです。この前、管理人さんが現実世界に行くところ。偶然だったんですけどね。でも、あれを見た瞬間に悟っちゃいました。もし私たち夢の世界の住人が湖に入れば、この世界を拒絶する事になるって」



心臓が止まりそうになる。

いつの間に?一体いつ?

いや、そもそも僕は、湖の正体を夢の住人の誰にも打ち明けていない。それなのに、何故?



「管理人さんはあえて何も言わなかったんですよね?湖に入ったらどうなるのかを知っていたから」


「それは」


「夢の世界に足を踏み入れたら、現実世界には戻れない。その時点で分かりきっていたことでした。私はどこにも行けないって」


「じゃあ、なんでそれでも逃げようとするんですか」



食い気味に吐き出した。頭が混乱して、気持ちが悪い。

彼女の考えが理解できない。彼女の結論に納得できない。


ここは終わらない幸福の場所。永遠に続く癒しの楽園。

ここにいれば、彼女はずっと幸せに暮らせる。なのに。



先ほどからずっと核心を突かれているからか、喉の奥は息が詰まったかのように苦しいし、胸は鈍器で殴られた後のようにズキズキと痛む。

しかし、胸中の思いは留まることを知らずにほとばしる。



「…僕たちは。僕たちは、君たちを救うために、あらゆる手を尽くしてきた。結果として、誰しもが享楽に耽ることの世界を作り上げた。言うなれば、これが僕らが望んだ理想郷なんです。それをも貴女は、拒んでしまうというのですか?」



胸に溜まったぐちゃぐちゃな感情が、ひとりでに吐露されていく。



止まらない。止められない。

感情的になるなど、自分らしくもない。

けれども、この溢れ出る感情を抑えることはできない。


彼女は黙っている。

笑顔を湛える訳でも、涙を流す訳でもなく、ただ口を閉ざしてこちらに茶色の目を向けていた。それでも構わずに、思いの丈をぶつけた。



「僕は、貴女たちの命を守りたくてこれまで動いてきたんです。みんなを助けたくて、死なせたくなくて、ずっと幸せに生きていて欲しくて…。なのに、なんでこんな事。ただ、助けたかっただけなのに…」



視界がゆらりと揺れて、瞳から零れ落ちた雫が袖を濡らす。

今まで抱いてきた思い。自分の心の奥深くで、ずっと大切にしまってきた思い。

ずっと彼らの命を救うことだけを考えてきたこと。そのためだけに、自分の人生も時間もすべてを捧げてきたこと。


その全てがとめどなく溢れて、抑えられない。

胸のずっと奥が痛くて、苦しくてたまらない。




「管理人さん」と名前を呼ばれる。

彼女はこちらに視線を合わせたまま、ゆっくりと口を開いた。



「確かに私は管理人さんに助けてもらったし、あの時すごく嬉しかった。こんな自分に手を差し伸べてくれたんだって。でもね、知っちゃった。夢の世界はとても優しい場所だけれど、その代わりに自分の名前も記憶も、何もかもが消えてなくなるって!そんなの、私には耐えられない。…耐えられなかったの」


「本当はね、ずっとこの世界で過ごしたかった。でも、怖くなったの。逃げたくなったの。だから逃げるの。ねえ、だって言ってくれたでしょう?人間、逃げることも大事だって」


「あの時、管理人さんは私の生き方を肯定してくれた。いつも逃げてばかりいた私のことを尊重してくれた」


「今回だって同じ。私は、いつものように逃げるの」



「本当はちょっと怖いけど、もう決めたことだから」





「─────だからね、最期に管理人さんに見届けて欲しいの」






「─────」




彼女の真意を悟った途端、僕は言葉にならない悲鳴をあげた。



ダメだ。こんな結末があってたまるものか。

僕は貴女を救うために、この世界に案内したのに。



「駄目。駄目です。お願い、行かないで」



必死に懇願した。[[rb:希 > こいねが]]った。

けれども、それらは彼女には欠片も届かない。



「さようなら、享楽。とても楽しかったけれど、私には重すぎた」




その言葉を最後に彼女は微笑んだ。

一際幸せそうな、切なそうな、そんな笑顔だった。


それを見て直感する。

ああ、この少女は本当にここから逃げるのだと。




必死に手を伸ばして彼女の手を掴もうとしたけれども、それは虚しく空を切る。ひどく穏やかな表情をした彼女は、そのまま背中から倒れていく。



そして、ざばんと大きな音を立てて。

少女は湖に沈んでいった。




波が幾重にも輪を描く。

水中で生まれた泡が、水面に浮かび上がる。

湖は、段々ともとの静寂さを取り戻していく。


数分の静寂ののち。

水面を揺らしていた波紋が完全に消えた。





終章



落ちてゆく。

何もない空間を、独り落ちてゆく。


ううん。ちょっと違う。

何も見えないし、何も聞こえない。何も感じられない。だから、落ちているという実感すらない。



今はこうやって自我があるけれども、そのうち泡のように消えるのだろう。



五感が消える。

その次は自我が消える。

最終的には、自分の意識も消える。それはすなわち「死ぬ」ということ。



だけど、不思議と穏やかな気持ちだった。

もうじき自分の命が消えるというのに。

おかしいね。少しだけ、嬉しいの。




翡翠色の目をした貴方。

ごめんなさい。

でもどうか、自分を責めないで。これは私の愚かさ故なのです。



ああ。

結局、こうやって逃げてしまったけれど。





「最期に王子様に会えて、良かったなぁ…」






夢想に散る

True End


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