中編
1
管理人さんの手を取ってどれくらいの時が経ったのだろうか。
管理人さんに促されるままに目を開くと、ありえない世界が広がっていた。
プラネタリウムのような空間。
空には無数の星々が煌めいていて、その下にいる人々は、全員が幸せそうな表情を浮かべていた。
緩やかに流れる音楽に合わせて踊る少女たち。
気ままに寝転がって眠る老人。
思いのままに食べ物を頬張る若い男性。
誰もが幸福で、誰もが自由だ。
その瞬間、私は「ここが理想郷だ」と感じる。自分が何よりも望んでいたものに、思わず口元が緩む。
「管理人さん…ここ、本当に」
「ええ、着きましたよ。ここが夢の世界。終わらない幸福の場所、永遠に続く癒しの楽園です」
ありえない。こんな世界があっていいものか。
でも、それは確かに存在している。なぜなら、今この身体が「夢の世界は本当にある」と実感しているからだ。
管理人さんに手を引かれて、鍵盤に似た階段をゆっくりと下りていく。
草地に降り立つと、管理人さんは私の方に向き直った。
管理人さんの宝石のような美しい瞳が、こちらを捉える。それは、今まで見てきた何よりも美しくて、綺麗で、あでやかで。自分にその瞳が向けられているというだけで、胸がトクンと脈打つ。
「ようこそ、夢の世界へ。そしておめでとう。君は、今日からここの住人だ」
そこで私は、改めて感じ取る。
ここは現実とは違う。楽しいことがたくさんあって、苦しいことは何一つ存在しないのだと。
そんな夢のように楽しい日々を想像して、心を躍らせた。
ああ。
私が憧れていた世界。望んでいた場所。
さっきまでの迷いはなんだったのだろう。
ここでなら、現実世界の何倍も楽しく生活できるじゃない。
「管理人さん」
嬉しくなって、管理人さんの名前を呼ぶ。
管理人さんは、優しい笑顔を浮かべたまま首をかしげた。
「ありがとうございます。私、ここでなら楽しい日々を送れそう。えへへ、管理さんが助けてくれたおかげですね!」
管理人さんが、わずかに目を見開く。
そしてすぐにはにかんだ。
「良かったです。僕もあなたに声をかけて本当によかった。どうか、夢のようなひと時を」
2
こうして、私の夢の世界での生活が始まった。
とは言っても、ここに連れられてすぐに「はいどうぞ」と放り出される訳ではない。
夢の世界にある様々な場所。
煌びやかな街通りや香り高い果樹園、優しい光に包まれたパステルカラーのお花畑を、管理人さんが一つずつ紹介して回ってくれる。
何だか、御伽噺に出てくるお姫様になったような気分だった。
夢のような場所に王子様が連れて行ってくれて、そこで二人でデート…なんて。
勘違いが過ぎるかな。
でも、よく考えてみてよ。
今まで平凡で変わり映えのない生活をしていた私に、いきなりこんな出来事が起きたんだもの。そう思ってしまうのも当然だと思う。
「そうなりたい」と夢想しても、なかなか手に届かないもの。それがある日いきなり手に入った時、誰だって嬉しいし浮かれちゃうでしょう?
私にとって、御伽噺のお姫様と王子様というものは、それだけ遠い存在だった。
だから、たった今管理人さんにエスコートされているこの状況は、私が浮かれてしまうには十分過ぎた。
ベージュ色の綺麗なレンガ道を歩いていると、向かい側から女性がこちらに手を振ってきた。20代半ばから後半ぐらいの、栗色のウェーブがかった髪の毛がとても魅力的な人だ。
その人は私たちの前まで歩みを進めると、ぺこりと会釈をした。
「こんにちは。素敵な管理人さん、はじめましての貴女」
「こんにちは。今日も元気そうで何よりです」
管理人さんも、女性に負けず劣らずの美しい笑顔でお辞儀をする。
その所作がため息が出るほど上品なものだから、思わず見とれてしまう。
「ふふ。かわいらしい新人さんね」
女性が私を見て微笑みかける。「高校生?」と訊かれたので、はいと短く答えた。
すると彼女は、まだまだ若いわねと顔を綻ばせる。
「貴女。ここに来てまだ日が浅いのよね。良かったら今度一緒にランチでもどう?私、ここのお洒落なパンケーキ屋さんを知ってるの」
「いいんですか?」
「ええ。だってここに新しく来た方だもの。早く仲良くなりたいし、何よりこれからずっと一緒に過ごすものね!」
女性のかけてくれた言葉が、ジンと心に染みわたった。
これから一緒に過ごすんだ。一緒にパンケーキを食べたり、草原を散歩したり、話に花を咲かせたりするんだ。先のことを想像するだけで、私の心は春の柔らかな日差しを浴びたかのように温まった。
「ありがとうございます!きっと、一緒に行きましょうね!」
女性は最後に花が咲き誇るような微笑みを見せて、「じゃあまたね」と去っていった。
女性が見えなくなったあと、管理人さんが私にそっと耳打ちをした。
「夢の世界の住人達は、全員あの女性のように親しみ深いのです。皆さん、貴女がここにいらっしゃったことを心から喜んでいますよ」
優しい場所だ、と思った。
さっきも彼らと話す機会があったけれども、みんなあの女性のようにあたたかだった。もっと言うと、冷たい人など一人もいなかった。
「本当、すごいですよね。悪意が欠片も感じられないです。あの人たちも、さっきの女性も、みんなそう。口から出る言葉が100%真実そのものだし。本当に、綺麗すぎて…」
ふと、私のはじめての失恋の記憶が頭をよぎった。
「見に行くね」と言ったのに、結局来なかった彼。
あれから、人の言葉を信じるのが怖くなったんだっけ。
いや。ここは夢の世界。都合の悪いものが排斥された、理想的な場所。現実世界とは違う。
あんなの、ここには存在しない。ここでは絶対に有り得ない。
「怖い、ですか?」
「え?」
「顔にそう書いてあったので」
ふふ、と笑う管理人さん。
やっぱりこの人には、全てを見透かされている。
「…敵いませんね、管理人さんには」
「はい。でも大丈夫。貴女のことを裏切る人も、悪く思う人もいません。どうか安心してお過ごしください。幸せそうな貴女を見られるのならば、それに勝る喜びはありません」
管理人さんにそう言ってもらえるだけで、私は嬉しかった。私なんかにこんなに気遣ってくれるなんて。嬉しすぎて、耳まで赤くなってしまいそう。
私のことを助けてくれた管理人さん。
綺麗なきれいな管理人さん。
私の王子様。
貴方が私に手を差し伸べてくれたというだけで、私はこんなにも幸せな気持ちになっている。心の底から感謝している。だから、ありのまま伝えた。
「…私、十分幸せですよ。ここに来て良かったとそう思えるくらいに」
「ふふ。そう言っていただけて、僕も光栄です」
彼が、嬉しそうな顔を見せる。
どこまでも美しく透き通った曇りのない表情に、私の心はいとも簡単に満たされる。
私、こんなに幸せでいいのかな。
こんな幸せな時間が、ずっと続くんだろうな。
拠りどころのない思いが、私の胸をさらに弾ませた。
管理人さんと他愛のない話をしながら歩いていると、レンガ道が終わりを迎え、その先には緑色の草原が広がっていた。
それまで私の隣を歩いていた管理人さんは、不意に私の一歩前に出てきて、そして振り返った。
「ここの街通りはこんな感じです。最後にそうですね…、湖とかいかがでしょうか?僕のお気に入りの場所なんです。ぜひ貴女にも見ていただきたくて」
夢の世界にある湖は、数ある景色の中でも一際輝きを放っているのだとか。それは、奇跡の絶景といわれるウユニ塩湖に匹敵するか、それ以上の美しさらしい。
そんな場所に、私を案内してくれると。
「いいんですか?行きたいです!」
私が弾んだ声をあげると、管理人さんは心底嬉しそうに微笑んだ。
「では行きましょう。端の目立たないところにあるので、ここからだと結構歩くのですが…」
「大丈夫ですよ。私、これでも体力はある方なので。それよりも、早くその湖を見てみたいです。管理人さんのおすすめの場所、ですもんね!」
「それなら、少し早めに歩きましょうか。さ、手を取って」
管理人さんが、私の前に手を差し出す。
私はそっと手を取り、指先からゆっくりと力を入れて握った。管理人さんも、私の手を静かに握り返した。
視界いっぱいに広がる草原に足を踏みしめる。
まだ見ぬ湖への期待に胸を躍らせながら、私たちは歩き出した。
3
湖は、優しい光に照らされてキラキラと輝いていた。
その光は不思議と眩しくはなく、辺り一帯を守るような優しさがあった。
水面を覗いてみると、湖の美しさに頬を紅潮させる自分が鮮明に映り込む。それが何だか少しだけ照れくさい。
どこまでも透き通っているからなのだろうか。あるいは別の理由があるのだろうか。目の前に広がる湖は、磨きたての鏡に似ている。
そのあまりもの美しさに、私はしばらく息をするのを忘れていた。
後ろに佇んで湖を眺めていた管理人さんが、私の隣に腰を下ろした。
「どうですか?ここ、とてもいい場所でしょう?」
「はい。こんなに綺麗な湖、初めて見るかも」
「ああ、あと、ここの湖は底がないので、落ちないように気をつけてくださいね」
「わかりました。気をつけますね」
しばしの沈黙。そこに気まずさなどなく、寧ろ心地のいいものだった。
幻想的な湖に、管理人さんと二人きり。
ロマン溢れるこの状況にときめいてしまう。
この胸の高鳴りを落ち着かせるように、私は言葉を紡ぎ出した。
「あのね、管理人さん。私、夢があったの。素敵な王子様に出会って、自分の知らない世界に連れて行ってもらう夢」
「夢、ですか」
「そう。夢、だったの」
ぽつりぽつりと。
管理人さんに聞いて欲しくて、私は回顧しながら言の葉を紡ぐ。
昔から逃げ癖があって、日常的に嫌な事から目を背けていたこと。
そんな自分に引け目を感じていたけれども、どうしていいか分からずに日々を過ごしていたこと。
ある時から色々なことが上手くいかなくなったこと。
そして、いつからか現実そのものから逃げたいと思い始めていたこと。
「何もかもが上手くいかなくてさ、逃げたいって思ってたの。いつか白馬の王子様が目の前に現れて、ずっと遠いどこかに連れて行ってくれて、そこで何も考えずに過ごせたらって。だから、こんな世界があるんだってことを知って、すごく嬉しくなった。だってここだったら、私は悲しい思いをしなくて済むんだもの!」
管理人さんは、黙って私の言葉に耳を傾けていた。その表情は、喜びでも悲しみでも怒りでもない、真剣そのもの。相槌を打つわけでも、途中で何か言葉を挟むわけでもなかった。こちらに視線を真っ直ぐと向けて、静かに聞き入っていた。
それが何だか安心感があって、心地がよくて。
私の心の内にある言葉は、意図せず口から溢れ出る。
「管理人さんが私に声を掛けてくれたこと。手を差し伸べてくれたこと。全部、本当に感謝しかないんです。こんなに良くしてもらえて。私、貴方に恩返しがしたい。何か出来ること、あるかな」
ほんのわずかに管理人さんの唇が開く。目が見開かれる。
それは一瞬の出来事だったけれども、何故だろうか。その瞬間だけ、ぴたりと時が止まったかのように感じられた。
いつも口元に優雅な笑みを湛える彼だからこそ、その姿が珍しいと思ったのだろうか。
「…お気持ちはとても嬉しいです。ありがとうございます。でも、僕は貴女がここで幸せに過ごしているだけで、十分報われているのです。それが、今貴女から頂いている恩返しです。…ええ、本当に」
わずかな間をおいて、管理人さんが微笑んだ。
少し、ほんの少しだけ寂しそうに。そんな気がした。
「管理人さん、どうかしたんですか?」
「いえ、何でもない、です」
「…そうですか」
先ほどとは打って変わって、一切の寂しさもない笑顔を見せる管理人さん。
その姿を見て、あまり深く訊くのは野暮だと感じた私は、口を閉ざした。
私の楽しそうな姿が管理人さんの幸せならば、私のやるべき事はそう。この世界で楽しく幸せに過ごすこと。
そうすれば、管理人さんが一瞬だけ見せた寂しそうな表情は、どこかに消えていくのかもしれない。
それが、私が管理人さんにできる唯一の恩返し。だから、これ以上は訊かない。
しばらく何も交わさない時間が続く。
相変わらず湖は光に照らされて、キラキラと輝いている。
そっと目を閉じた。
緩やかな風が髪を揺らして、毛先が鼻をくすぐる。
この時間がいつまでも続きますように。
そんな想いを込めて、管理人さんの名を呼ぶ。
「ねえ、管理人さん」
「はい」
「もう少しだけ、ここにいてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
管理人さんが答える。
その返答を聞いた私は嬉しくなって、思いきり草地に寝転んだ。
ああ。幸せだ。
こんなに満ち足りた時間、現実世界にあっただろうか。
「じゃあ、もう少しだけ一緒にいましょう。二人で」
幻想的な湖に、管理人さんと二人きり。
高鳴る気持ちを噛みしめるように、眼前の景色を思う存分に目に焼き付けた。
4
管理人さんと二人で過ごしたあの日から、数日が経過した。
たまに時間が空いている時には、湖で語らっている。彼曰く、普段は夢の世界の住民と二人で語らうことはあまりないという。
”私だけ特別扱いなのかな?”
以前の私なら、こんな勘違いをして都合よく空想に耽ってしまうところだ。だけど、これは特別扱いでも何でもない。
だって、「たまにでいいから、管理人さんと湖で一緒に過ごしたい」と言ったのは、他でもない私なのだから。管理人さんは、律儀にも私の我儘に付き合ってくれているのだ。
そんな彼は今、新たな住人を案内するべく、現実世界へと出向いている。
私はというと、今日は栗色の髪の女性と過ごしている。
私が初めて夢の世界に訪れたときに、女性が一緒に行こうと言ってくれた場所。そこの美味しいパンケーキを食べにきている。
女性に勧めてもらったパンケーキ。
綺麗な焼き色をしたケーキの上に、生クリームやフルーツ、チョコレートソースがふんだんに盛り付けされている。その上に金箔まであしらわれていて、誰が見ても豪華な一品だった。
はむ、と一口食べると、甘い味が口いっぱいに広がる。
「お、美味しい!外はカリカリで中はふわっふわ。生クリームも甘すぎないから食べやすい…。あとそう、フルーツ!フルーツも新鮮でしゃきっとしてて美味しい!!何これ、すごく美味しいじゃん…!」
「ふふ。気に入ってもらえたようで良かった」
美味しすぎてほっぺが蕩けて落ちてしまいそう。夢中になってパンケーキを頬張る私を見て、女性はリスみたいと笑った。
パンケーキを平らげて、最後にトロピカルジュースを一気飲み。トロピカルジュースのフレッシュな味が、喉を滑らかに通っておなかの方まで流れていく。
なんて至福なひと時なのだろう。贅沢すぎる。
先ほどおかわりしたジュースを、惜しげもなく口元に運んでいると。「ところで」と言って、女性が私に顔を近づける。
何だろう?
何か聞きたい事でもあるのかなと思って、視線を女性に向けながらジュースを飲む。
「貴女、管理人さんとよく二人でいるじゃない?もしかして、そういう関係なの?」
それを聞いた途端、口に含んだばかりのジュースを吹き出しそうになる。
ガタ!と大きな音を立ててしまったものだから、女性は驚いて肩を上げ、若干身体を後ろにそらした。
「いやいやいや!違う、違うって!あれはただ、もっと管理人さんと話したいなって本人に言ったからで!それで、たま~に一緒に話すときはあるけどぉ…」
「あら、ちょっと残念」
色恋かと思ったけれど、と愛らしくウインクをされた。
わかりやすく、ドドドドと脈打つ心臓。
違う。これは恋ではない、絶対に恋じゃない。
落ち着いて、私の心臓。これで動揺してしまうなんて、単純極まりないわ。
そう言い聞かせて、動揺を誤魔化すように軽く深呼吸をする。
(でもまぁ、特別扱い云々とは関係なく、管理人さんは理想の王子様だな〜とは思うけどね!)
赤くなった私のことをひとしきり弄った女性は、コーヒーに角砂糖をひとつ入れて話し出す。
「管理人さん、いつも一人でいる印象が強いから珍しいなって思ったのよ。からかってごめんね?」
「う、うん」
相変わらずバクバクと主張する心臓を、ジュースをくいと飲むことで落ち着かせる。まさか、このタイミングでこんな話を投げかけられるとは思っていなかったから、どうにも平静になるのに時間がかかってしまう。
どうしようかなと考えたのち、なんとなく管理人さんについての話題を振ってみた。さっきの話を掘り返すという訳ではなく、単純に彼のことを聞いてみたかったから。
「そういえばさ、管理人さんっていつも現実世界に行ってるの?忙しそうだよね」
「ええ、だって彼、現実で苦しんでる人たちみんなを助けるために動いているから」
「そっか。あとさ、さっき管理人さんのこと、一人でいることの方が多いって…」
「そうねぇ、一人でいるというか、私たちから少し遠い場所から見守ってくれている感じ。私としては、もう少し距離を詰めてくれてもいいのにって思うのよね。でも彼は、私たちが幸せならそれで十分だし、あとは何も求めないって」
たまには息抜きでもしてほしいものだけど、と言って、女性はコーヒーを飲み干す。
それを見届けた後、ふと女性自身のことが気になって、何となく質問を投げかけてみた。
「…ねぇ、貴女はさ、ここに来る前って何をやってたの?いつから夢の世界にきたの?」
「え?ここに来る前のこと?」
女性は目をぱちくりとさせる。そして、おどけたように笑った。
「それねぇ、実は全然覚えてないの!いつからかも分からないわ。ここに来てから楽しくてたまらなくて、その前のことも、自分のこともさっぱり分からないの」
「え…?」
自分のこともわからない?そんな事ある?
物心つく前の記憶がないのは分かる。でも、ここ最近の、それこそ学生時代の記憶とかは少なからず残っているものじゃないの?
そんな色々な疑問が積もりに積もって、徐々に混乱し出す。
でも、冷静に考えてみれば、ここに住む人達から一度も過去話を聞いたことがなかった。いや、過去話どころか、住人たち自身のことも。
「じゃあ、夢の世界にきた理由も?」
「ごめんなさい、それも全く分からないわ。でもね、私は今がすごく幸せだから、そこまで気にしたり思い出そうとしたりしなくてもいいと思うの。ほら、だって、こんなにも楽しいんだもの!それで十分でしょ?」
「う、うん…」
女性は笑っていた。心の底から嬉しそうに、そして幸せそうに笑っていた。
実際、彼女が顔を曇らせたところを見たことがない。夢の世界ではネガティブな感情がなくなるというから、それは夢の世界の効果が出ているということなのだろう。こう見ると、確かに女性は幸せだと思う。
だけど。けれども。
女性のことを、寂しいと思う自分がいた。悲しいと嘆く自分がいた。
「どうしたの?」
女性が訊く。私は、微笑みを浮かべて答える。
「ううん、何でもないよ」
5
栗色の髪の女性と別れて、私は街通りを背に草原を歩いていた。街通りを出ると広大な草原が広がっているが、そこを少し歩いた先には大きな花畑がある。
ピンク。水色。黄色。オレンジ。
淡く彩られたその場所は、夢の世界の中でも一際現実離れしている。
パステルカラーで彩られた花畑の中で、二人の少女がくるくると踊っていた。
「踊りましょう」
「一緒に踊りましょう」
「楽しい楽しい夢の世界」
「綺麗なきれいな夢の世界」
「私と貴方」
「貴方と私」
「ずっと一緒」
「ずっと一緒よ」
「夢のような日々を」
「煌めくような日々を」
「二人で過ごしましょう」
花の上で舞う蝶々のように、少女たちはふわりと優雅に回る。彼女たちの愛らしい声も、優しい風に乗って耳に届く。
可愛らしいな、と思ってその場を通り過ぎようとしたけれども、少女たちが私を見つけて駆けてくる。
「新人さん!」
「こんにちは、新人さん!」
「こ、こんにちは」
10歳になったか否かの年齢の少女たちだった。よく見ると、首や腕に古い傷がいくつも残っている。それを見て、私は少しゾッとした。
この子達は、過去に虐待を受けていたのだろうか。
そんな私の戸惑いを気に留めることなく、少女たちは互いの手をとってくるくると回っている。
「ここはとてもいい場所なんだよ!」
「誰も傷つかない、誰も不幸にならない!」
「ここでなら、ずっと幸せなままだね!」
「でも」
「でも」
「どうしてだろう」
「何かを忘れている気がするの!」
「だけどね」
「楽しいからいいんだ!」
「ほらだって、こんなに綺麗で楽しいことばかりな世界でずっと過ごせるんだよ!」
「こんなの、幸せ以外の何物でもないよ!」
「嬉しいね!」
「幸せだね!」
「君も」
「君も!」
「ここでずっと幸せに過ごそうよ!」
「私たち、ずっと一緒だよ!」
『何かを忘れている気がする』
それを聞いた途端、ぞわっと背筋が凍った。
この双子は心の底から幸せそうな顔をしているのに、とても恐ろしく感じてしまう。
さっきの女性との会話でもそうだった。
何だか、どこか寂しくて、恐ろしくも感じるのだ。
これまで胸の内に抱いていた違和感を確認するかのように、私は恐る恐る訊く。
「ねぇ、貴女たち、名前は?」
すると、双子の少女たちは、信じられない言葉を返した。
「名前?名前ってなあに?」
「素敵な響きね!名前って何かしら?」
「でもごめんね、私たち何も分からないの」
「でもいいの」
「幸せなんだもの!」
「私たち、幸せなの!」
「だから大丈夫だよ!」
「ほら、貴女も」
「貴女も!」
「一緒に踊りましょう?」
少女たちの純粋でキラキラとした瞳が、私を捉える。
彼女たちの視線が、まるで鎖で縛り上げられているかのように痛い。
彼女らにそんな意図がないことは十分に分かっている。けれども、私にとってはあまりにも苦痛だった。
夢の世界で生活をしていたら、これまで歩んできた人生どころか、自分の名前さえも思い出せなくなるだなんて。
────そんなの、恐ろしすぎる。
笑顔で手を差し出して近づいてくる双子に対して、私は逃げるように身体を背ける。
「あ、ご、ごめんね」
喉がつっかえて、うまく言葉を口に出せない。
そんな様子が不思議だったのか、双子は「どうしたの?」と首を傾けた。
「どこか痛いの?大丈夫?」
「う、ん、…ううん。大丈夫なの。ただ、今日はちょっとやめておこうかなって。誘ってくれたのにね。ごめんね。また誘って?」
自分の動揺を繕って笑顔を貼り付けたけれども、果たして上手くできたかどうかは分からない。多分、口角も頬も不自然に上がっていたと思う。なぜなら、現在進行形で目が泳いでいて、目を合わせるなんて今の私には到底できないから。
私の予想は見事に当たったようで、双子は訝しげに顔を見合わせた。でも、それはほんの刹那の出来事で、すぐにあのキラキラとした表情に戻った。
「うん。分かった!」
「またいつか一緒に踊りましょう!」
「私たち、いつまでも待ってるわ!」
満面の笑みで手を振る双子を尻目に、私はそそくさと花畑を後にした。
彼女たちの姿が完全に見えなくなったのを確認すると、私は一目散に駆け出す。
どこに向かうかは考えていない。ただ、あの花畑から少しでも遠い場所に行きたくて、必死に足を動かした。
すれ違う住民が私のこと気にかけても、例え声をかけられたとしても。
ただひたすらに、がむしゃらに走り続けた。
はあ、はあ、はあ。
緩やかな音楽も、人々の楽しそうな声も聞こえない。私の荒い呼吸だけが、頭に響きわたる。
緑色の草原を抜け、レンガの敷きつめられた街通りを抜け、やがて誰もいない丘に辿り着いた。
夢の世界の丘には、見上げるほど大きな木が一本だけそびえ立っている。
すでに限界を迎えた足は、丘の上に着いた途端にズキズキと痛み出した。
「────は、ぁ」
大きく息を吐いた。胸につっかえた何かを逃がすようにして吐き出した、溜息。
苦しい。
苦しい。
ぐるぐると回る頭を落ち着かせようと、側頭部に手をあてがいしゃがみ込んだ。
ひと呼吸置いて、瞼をギュッと閉じる。
しばらく目を閉じていたら、呼吸と心臓の鼓動が落ち着いてきた。頭も少しだけ冷静になった。
「…ふぅ」
平静を取り戻せたことに安堵したその時。
頬を何かが伝う。
一筋の涙。
それに気がついた瞬間、私はひどく動揺した。
一体なぜ?なんでそんなものが。
なんで。どうして。どういうこと?
だって自分は、もう現実世界を捨てたのだ。夢のような時間と享楽を求めてここに来たのだ。ここでの生活は、現実世界とは比べ物にならないくらい幸せで、心地が良かった。ずっとこの世界で過ごしたいとさえ感じた。
なのに、頬を流れる涙は止まらなくて、喉のずっと奥が痛い。
この突き刺さるような痛みを、私は知っている。
現実世界にいたときに散々感じたものだったから。
それは、「逃げたい」という心の訴え。
自分にとって嫌なものに対する拒否反応だった。