前編
序章
カンカンと照りつける太陽に、澄んだ青空。
梅雨が明け、本格的に夏が始まろうとしていた。
人々は涼しげな服に袖を通し、暑そうに目の前を通り過ぎていく。きゃっきゃとはしゃぎ回る小さな子供たちに、忙しなく歩くサラリーマン。主婦たちは毎日暑いですねと他愛のない会話を交わす。
そんな中で私は。
私は一体、何をやっているのだろう。
1
現実逃避をしたいと思ったのは、もう随分と前からの話だった。何が自分をそうさせたのだろうか。その"何か"を、自分が思い出せる限り思い出しているのだが、そのきっかけが何なのかは分からない。ただ、逃げたいと思ったのだ。
何も考えなくていい世界。
何かに追われなくていい世界。
何かを背負って生きる必要のない世界。
きっと、そんな世界に私は憧れているんだ。誰かが自分のところにやってきて、「一緒に逃げないか」と言って手を差し出してきたら、私は真っ先にその人の手を取るのだろう。いや、確実に取る。いっそ、この現実から断絶された世界に行けたらと、叶いもしない事をひたすら想像するほどだ。
その人が白馬の王子様のようなかっこいい人だったらいいのにな、なんてことも思う。同級生にそんな感じのことを言ったら、大抵はそんな望みは叶わないぞ、と返されるけれど。でも、華の高校生ならば、きっと内に乙女心を抱いているものだ。夢くらいは自由に、遠慮なく語らせて欲しい。
つまり何が言いたいのかって?
とにかく私は逃げたいのだ。誰でもいい。何だっていい。この現実から離れたい。そう思っていた。
2
好きな人がいた。背が高くて、好きなことを沢山持っている人。おまけに、自分に対してとても優しく接してくれた人。今まで全く恋愛経験のなかった自分が、初めて仲良くなろうと思った人だった。
だから、異性との慣れない会話を続けようと奮闘したし、何なら学校でも話しかけようとした。自分にしては頑張った方だった。誰に何と言われようが、私は頑張ったのだ。
文化祭の時、向こうが軽音部で出し物をするから来てと言ってきたならばちゃんと行ったし、会話だって好印象を抱いてもらえるように心掛けていた。
7月頃、自分の所属している吹奏楽部は、毎年定期演奏会を行う。これはチャンスだと思って、彼を誘った。正式に情報が公開される前に、こっそりと日程だって教えてあげた。それなのに。
考える度に、何ともいえない虚しさと、誰に向ければいいのか分からない怒りと、誘わなければ良かったという後悔で胸が締め付けられる。
なんで来てくれなかったんだろう。
なんで当日になって突然ドタキャンなんてしたんだろう。
見に行くねって言ってくれていたのに。
…数日後、私はSNSで、彼に恋人が出来たことを知る。嬉しそうな笑顔の彼と彼女。自分の好きな人が見せる幸せそうな表情が、私にとっては苦痛でしかなかった。
何が悪かったのか。どうしてこうなったのか。考えたけど無駄だった。考えれば考えるほど、負のスパイラルに陥っていくから。
嫌だ、嫌だ。忘れてしまいたい。
そして、この結論に至るのだ。
ああ、逃げたいと。
実際、既に逃げている。今だってそう。
彼と顔を合わせたくなくって、仮病を使って学校を休んだ。家にいても、仮病を使うなと親に叱責される。だから昼間に公園なんかにいるのだ。
前から現実逃避をしたいとは思っていたが、その思いを加速させたのは、間違いなくこれだ。
相当キてるんだな自分、と自嘲する。
だって、そう。胸が苦しいのだ。今だって喉のずっとずっと奥が痛くてたまらないのだ。
"何もかも忘れて逃げられたら、どれだけ楽な事か"
何度も何度も、心の内にあるこの思いが自分を締めあげる。それは執拗に自分の心を砕こうとしている。つらい。逃げたい。つらい。つらい。嫌だ。
ブランコをゆらゆらと揺らしながら、目を覆う。心が苦しいのに、涙は出ない。ああ、何なんだろうこれは。誰か、誰か。
私を連れ去ってほしい。
3
それから何分経ったのだろうか。
ずっと項垂れていたものだから、首が痛くなってきていた。この場でひたすら凹んでいるのも馬鹿らしくなって、そろそろ家に帰ろうかなと思い始めた頃のことだった。
「こんにちは、お嬢さん。なにかお困りで?」
痛い首をおずおずと上げると、容姿端麗な男が目の前にいた。
初対面であっても、簡単に人を惹き付けてしまいそうな、そんな優しげな雰囲気。これは夢か?と疑うほど、綺麗な人だった。余りにも突然の出来事だったから、その時の私は理解するまでに相当時間が掛かった。いつもは初対面の人に話しかけられたら、私は大抵警戒して身構えてしまう。けれども、目の前にいるこの人は、不思議と怪しい人には見えなかった。
「王子様…?」
ポロッとでた言葉を聞き、男はクスッと笑う。そして違う違う、と手を横に振った。
「違いますよ、僕は貴女を助けに来たんです」
「助けに来たって…それはやはり王子様なのでは?」
「いえ、僕は王子様ではありませんよ」
「じゃあ貴方は…」
「僕は管理人。貴女を夢の世界へいざなう者です。気軽に管理人さん、とお呼びください」
手渡された名刺に目を通してみると、彼はどこかの企業のサラリーマンのようだ。しかし、どこか現実味がないと感じるのだ。その端麗な容姿ゆえなのか、彼の話自体が現実味がないからか。とにかく、夢のようだと思ってしまうのだ。
「いきなりで申し訳ないのですが、貴女は今逃げたいと思っていますよね?」
「え、」
「一目見て分かるんです。現実に失望して逃げたいと思っている人がいたら、すぐさま手を差し伸べる。僕の仕事は、セラピストと同じようなものなんです。端的に言えば、現実世界において精神的に苦しんでいる人たちを助けているんです。それで、その人を助ける方法…これは後で説明しますね。その方法を使って、人々を辛い現実から助ける、といった感じで」
セラピスト?辛い現実から助ける?
一度聞いただけでは呑み込めず、私は聞き返した。そうすると、男は曇りのない笑顔で頷く。そこに偽りなど全くない。私の直感がそう告げている。きっと、この人は本当に誠実な人なのだと。
「株式会社、と名刺には名乗っていますが、慈善団体と言った方がいいでしょうね。まあ、現実世界で苦しむ人々を救済する組織と覚えていただければと思います」
「宗教団体、ではなく?」
「ええ。当団体にはそのようなものは微塵も」
「なら…本当にそのような事をやっていらっしゃるのですね」
「はい。ですので、差し支えなければ、貴女のことを教えていただきたいのです。我々なら、貴女の願いを叶えられるかもしれないので」
少しだけ、胸がきゅっと苦しくなった。
この人に自分の心の内を明かしてもいいのだろうか。たったさっき出会ったばかりのこの人に、自分のこれまでの話を聞かせてもいいのだろうか。
でも、もしかしたら。この人なら、どこかに連れて行ってくれるのかもしれない。
そんな根拠のない予感を信じてしまえるほどに、私は彼のことが気になったのだ。
だから、ぽつりぽつりと吐き出した。
「…私、逃げたいんです」
4
「それが決め手で、なんか嫌になっちゃったんです。ただの失恋なんですけど、私にとってはそう、現実ごと嫌になっちゃうほどに重大な出来事だったのかも」
「そうですか。それはとても辛かったですね…」
「はい。とても」
管理人さんが、憐憫の込められた目で私を見る。
それを感じた途端に、私の胸の奥がスッと軽くなる。
先程まで心に抱えていたものが、一気に消えたように。何故だろう。初めて会った人にあまり自分の事なんて話さないし、何なら見抜かれる事もなかったのに。
この人の前だと、自分の弱さ全てを見透かされているような気持ちになる。
「…バカらしいとは思っているんです。たかが失恋したぐらいでこんなに後ろ向きになるなんて。でも、あれは私の初恋でした。はじめて人のことを好きになって、はじめて自分が頑張りたいって思えるようになったきっかけでした」
「そうですか」
「でも失恋しちゃったし、なんか色々なことが嫌になっちゃったしで。もう逃げたいなあ、どこかにそういう苦しみがない世界があればいいなあ、なんて」
これまで吐き出すことなく、自分の内に秘めてきた想い。
相手が管理人さんだからなのだろうか。さらさらと言葉が出てくる。
ふと、管理人さんが口を開いた。
「僕はね、人間って、逃げることが大事だと思うんです。でも、逃げ方を間違ってはいけないとも思います」
彼は語る。
現実の過酷さ、理不尽さなどに打ちのめされた人々の自殺が問題視されている現代。彼らは苦しみに苦しんで、結果自らの命を絶つことで亡くなってしまった。自分は、現実世界での苦しみが、命を落とすことに繋がってしまうことが悲しい。彼らが生きる方法をなんとか探し出し、そして救いたいと思ってこれまで活動をしてきたと。
逃げること自体は、選択肢として大切である。しかし逃げ方を間違えてしまえば、何もかもが消え失せてしまう。その最たるものが自殺である。何もその選択を「有り得ない」と否定したい訳ではない。ただ、助けたいのだ。たとえ当人たちから「余計なお世話だ」、「おせっかいだ」、「自分の問題に関わらないでほしい」と思われたとしても。それでも、命を落とすのではなく、もっと別の手段を提示することで、彼らに逃げ道を示したいのだと。
それらを語っている時の彼は、人一倍愛情深く見えた。だって、こんなにも現代に生きる人々のことを考えていて、憂いていて。自分のことばかり考えている私とは大違い。とても立派で、とても素敵な人だと思った。それと同時に、彼なら私のことも助けてくれるのではないかという淡い期待も抱いた。
「その、現実世界で苦しんでいる人を助ける、でしたっけ。それはどうやるんですか?」
「ああ、そうでした。お伝えするのをすっかり忘れてしまっていました。簡単に言うと、夢の世界にお連れするんです」
「夢の世界?」
夢の世界。
何とも現実味のない、それこそ御伽噺のようだった。
しかし、管理人さんをはじめとする慈善団体の長年の努力の結果、見事作り上げることができたらしい。現実世界で苦しむ人々を助ける方法。それがこの「夢の世界」という場所に案内することだという。
「言葉の通り、苦しみや悲しみなど、ネガティブな感情を排斥した夢のような世界です。でも、その分いくつかデメリットというか、掟というものもあって」
夢の世界には、独自の絶対的なルールがある。
一つ目。夢の世界の住人となるには、団体または管理人からの事前説明と、本人からの同意が必要である。
二つ目。夢の世界に行ってしまえば、現実世界には二度と戻ることはできない。
三つ目。現実世界に生きる人間と、夢の世界の住人の交換は不可能である。いかなる場合であっても、両者の間に等価交換は成立しない。
これらに同意した者のみが、夢の世界への切符を手にすることができる。
「夢の世界…」
この人なら私をどこかに連れて行ってくれるだろう。そんな予感があった。期待を抱いた。でも、そんなちっぽけな理由で、本当に決断してもいいのだろうか。
一瞬だけ冷静になった頭が、そんなことを考える。
本当に?
もう一人の自分が、私に問いかける。
私は逃げたいと思っていた。
それがこうして、別の世界に行くという形で叶おうとしている。
あの世界に行ってしまえば、現実には二度と戻れない。二度と、絶対に。
でも、それが何だというのだ。だってそうでしょう?管理人さんだって、逃げることは大事だと言ってくれたばかりじゃないか。だからこれは正しい、と思う。
後悔しない?
もう一人の自分が、また問いかける。
それは────
息が詰まる。わからなくなる。
でも、私は。
自問自答を繰り返している私のことを気遣ってか、管理人さんは私に向き合ってこう言ってくれた。
「無理強いはしません。夢の世界に行くか行かないかを決めるのは、他でもない貴女自身です。貴女の答えがどちらであっても、僕は貴女の考えを尊重します」
管理人さんのまっすぐとした目がこちらに向けられる。
翡翠色の美しい瞳に、胸が高鳴る。
「でも、もし貴女がここから逃げ出したいと”心の底から”思っているのなら」
「私、あの、」
言の葉を紡ごうと口を開く。だけど、上手く紡げない。
そんな様子を見た彼は私の前に膝をつき、私に手を差し伸べた。
「僕と一緒に逃げましょう」
その瞬間、私の中にあった最後のわだかまりは無くなった。
私が、その手を取らないはずがなかった。
「───はい」
私が管理人さんの手を取ると、彼は優美な微笑みを湛えた。
夏の空の下、少女と青年は人知れず姿を消した。