森の匂える
枯葉を踏みしだき、山林を登っていく。折れ曲がった道は疎らで、川を横断し、岩壁に突き当たることもしばしばであった。木漏れ日を首筋に受けて、うっすらと額にかいた汗を拭う加藤は、十年前のあの日を思い出さずにいれない。
「うわっ」
木立が波打ち風が吹いた。目深に被った帽子が飛ばされそうになる。上空は黒い雲が垂れ込めていた。
嵐の夜。山は四方に闇が横たわり、呼吸の音すら飲み込む静寂が満ちていた。懐中電灯が切れてからどれほど歩いただろうか、加藤が鞄を下ろすと地面の岩に当たって鈍く響いた。その軋むような音はどろりと野山を這い回った。
焦燥に駆られた加藤はスコップを取り出して、力の限り穴を掘った。穴はどんどん深くなり、加藤の体をすっぽりと収めてしまうほどに成長した。
土の粘りつくような青い匂いに加藤は嗚咽が漏れた。正確に言えば、麻痺していた鼻腔が再び正常な機能を取り戻したせいかも知れなかった。
「待ってくれ。俺を置いていかないでくれ」
三和土に裸足で飛び出して手を伸ばした加藤の瞳は、そこから時間が停止してしまった。
何も見えない。何もかも見えなくなってしまったのだ。
加藤は自分が一体何を掴んでいるのか。どのように腕が動いているのか。全ての感覚を失ってしまった。
真っ暗な視界には、赤い膨張と青色の収縮が明滅を繰り返すばかりで、加藤は連続的でいて魅力的な光景に心を奪われていた。
そして気がついたら山を登っていた。あの日と同じく加藤はスコップを担いでいる。昼間の林道がこれほどまでに複雑であると初めから知っていたなら、海へ行っていただろう。
腐葉土の湿った香りが一層高まってくる。
「この場所だ」
加藤は知っていた。闇に閉ざされた世界で、唯一鋭敏になった嗅覚が視床下部に刻んだ記憶を掘り起こす。
青々とした穴から香気が沸騰していた。
注意して見なければ分からないが、明らかに土の色が違う。そればかりか、精力みなぎる植物たちが繁茂している。
スコップで草をなぎ倒し、柔らかな土を剥いでいくと、加藤の足元が突然崩れた。
したたかに腰を打ち付けた加藤の目の前に、茶色く錆びたジッパーが伸びている。ジッパーは所々ほつれていて、隙間が開いていた。
「中身が、ない」
背筋を大粒の汗が流れる。加藤が首をもたげると、光が消えた。そして固まったまま動けなくなった。
砂の礫をざらつく舌の上で転がす。角のない丸みを帯びた懐かしい味に、加藤は舌鼓を打った。