1:ドクター・カメラマニア
私が帰宅すると、博士は「おかえり」も言わず、いや、言わなそうな勢いで紙袋を受け取ってから申し訳無さそうな顔で「おかえり」と言った。それから、紙袋に入っていた分厚いタオルに包んだカメラを取り出す。
肩のあたりで切りそろえてある赤茶色の髪はボサボサ。眼鏡は汚れてるし白衣には珈琲をこぼした跡。目の下のクマも酷いし顔色も悪い。近くにいると、ちょっと酸っぱい匂いもする。もしかすると博士は……えっと、私がこのカメラを買いに輸入市にでかけたのは三日前だから……その間ずっと寝てなかったのかな? せっかく美人なのに、これでは台無しだよ。(いつもこんな感じだから、いつも台無しと言えば台無しだけど。)
「ふむ、ちゃんと言ったとおりの品だな」
「うん、お店の人に博士に聞いた特徴を伝えたらね、あ~お嬢ちゃん、そのカメラは多分――」
「おい」
博士はテーブルの上にカメラを置くと、私の口をつまむ。
「名を言うなと教えただろう?」
「そうれひた……ごめんなさひゃい」
私が博士と暮らしているこの街には、変なルールがある。ここでは、人間がつけた工業製品の固有の名を口にしてはならない。このルールはとてもややこしい。カメラという言葉は良いのだけれど、それを作ってる会社の名前だとか、その製品そのものにつけられた名前を言うのはダメ。本当にややこしい! でも工業製品じゃないから、アジアゾウとかインドゾウとかパンダとかオルカだとか、そういう動物の名前は良いんだって。そもそも人間が作ったものじゃないから。
じゃあ歌はダメなの? って聞くと、歌は工業製品じゃないから良いって。でもさ、CDとか作るのって工場じゃない? それに私はロボットが歌っているのを何回も見たことあるけど? ね? すっごくややっこしいでしょ。
それでね、その変なルールのせいで私は、以前の名前が使えないの。まぁ思い入れがない名前だったし……ってのは嘘で、覚えてないから別に良いんだけど。
「ソドム、これは良い品だぞ」
そう、このソドムってのが私の今の名前。博士がつけてくれた名前だから、きっと前の名前を思い出してもこっちのほうが好きだと思う。
「本当? 良かった!」
「ああ、レンズの中も綺麗じゃないか。カビもバル切れもない」
博士はカメラからレンズを取り外し、青い光で照らしながら覗いている。うーん、バルギレってなんだろう……。カメラって専門用語が多いし、あんまり使ったこと無いからよくわからないんだよね。博士はよく熱弁してくれるけど、なかなか覚えられなくって。
「だいぶ汚れたな、シャワーを浴びてこい」
「博士も汚いよ」
「私はまだやることがあるのだよ。おまえの右手を早く完成させてやらねばならん」
「ありがとう博士、シャワー浴びたら珈琲淹れるね」
シャワールームの前には、大きな鏡がある。その前でワンピースを脱ぐと、ワンピースを着ていない私が鏡に映る。
「右腕、楽しみだな」
私には右腕がない。博士と出会った時は左腕もなかったらしいんだけど、ちゃんとある。博士が作ってくれたから。
「うひひ、綺麗」
薄い金色の髪は長いだけであんまり綺麗じゃないし、目は青いけどなんか暗めの色だし、背も低いしなんか細くて弱そうだし……ってかんじで、私は自分の見た目があんまり好きじゃない。名付けるなら、不思議の国のアリスあらため、不思議の国の貧相なアリス。(不思議の国のアリスって名前も工業製品じゃないから言っていいみたい。)
でも、博士が作ってくれたこの腕は好き。全部金属でできてるから、光を綺麗に反射するし、細いけどすごく硬くてとってもとっても強そうだから。