17:犬
チャンピオンが立ち上がらなくなるまでに振るわれた拳は、ちょうど三十発。その間誰も声を上げることはできなかった。
『しょ……勝者……黒き狂気兇器強姫……』
立ち上がり続けたチャンピオン。その度に力を加減し、何度も倒した黒き狂気兇器強姫さん……。
「殺してはいないな」
博士の言う通り、チャンピオンはかろうじて動いていた。意識の消えた瞳で、ただただ呼吸するその姿はとても弱々しい。
『あ~あ~、テステス。みなさん聞こえますかみなさん』
メイドさんからマイクを受け取り喋りだす、黒き狂気兇器強姫さん。
『読み上げがあったってことは、わたくしが新チャンピオンということで良いのですわね? てっきりレギュレーション・タイムを飛ばしてはじめちゃったから、反則負けになると思っていましたわ』
その声に応える人は、だれもいない。
『まったく、この程度で怖気づいてどうするんですの? せっかくわたくしが……みなさんが飽きないように、現実を叩きつけてあげましたのに。ご安心くださいまし、わたくしは上位十人にも入れなかった、下位プレイヤー。たまたまチャンピオンが壊れてくれていたから勝てたような――――』
この人は一体、なにを言っているんだろう。
『ふふ、可愛いですわねみなさん。こんな下種なゲェム見ているのにいい子ちゃんでいたいんですの? 違いますわよね? あなたが見たいものは。思い出してくださいまし、この狂ったゲェムの名前! 不公平の塊、結実した理不尽、暴力的地下遊戯ですわよ!』
お。と小さな声が聞こえ、それが増えて歓声となった。でもそれは、試合前のものとは違うもっと荒々しく生々しいものだ。
「今回の試合のプロモーターは商売人だな。狂姫はこうしろと言われてやったのだろう」
「え?」
「そうでなきゃルール無視が通るわけがない。それにしても考えたな、これであいつはアンチモラルのスーパースターだ」
私には博士の言う意味が、なんとなく理解できた。そして――。
「虫酸が走るかね? 暴力的地下遊戯はショービジネスだからな、こうしたテコ入れは上のクラスになればなるほどありえる話なのだよ。もっとも、今回は少々露骨すぎだがね」
「…………」
心の底で渦巻く、なんだかムズムズする変な気持ち。
「どうしよう博士……」
ドクドクと、私の体内が脈打つ。ああ、この感じ懐かしいような、はじめてのような。
「私、戦いたい」
殴りたい、蹴飛ばしたい、噛みつきたい、引きちぎりたい。湧き上がるこの感情に、私はなんで涙を流しているのだろう?
「今日のチャンピオンのように自殺行為はしないと約束するなら、許可してやろう。これからの道をな」
「え……」
博士は優しく私を抱きしめる。
「狂姫がおまえをほしがっている。最近人気のタッグマッチに出場するための相方に育て上げたいそうだ」
「博士、ごめんなさい」
「構わん。それはおまえの本能のようなものだ。そうだな、私がカメラを集めたくなる気持ちと似たようなものじゃないか?」
「ふふ、それは趣味だよ博士」
私は笑った。涙と鼻水を流しながら、ちょっとだけ無理やり。
博士、ぐちゃぐちゃで汚い私の顔を、嫌がらずに白衣に押しつけてくれてありがとう。




