diary「暴力の総数論」
ゲヴァルラギアの要求を承認。具体的にはいくつかの外都市を配下に置くことをバベルが認めたことで、戦争は終結した。宣戦布告から約三ヶ月後のことである。
要するに彼らは奴隷都市がほしかっただけだ。そのためのパフォーマンスとしての戦争。所謂政治なのだ。
それから約半月後、ゲヴァルラギアは独立国家宣言を撤廃し解体。合併していた都市はまた境界線を引き、それぞれ元の外都市へと戻った。そのうち都市Nは解体直前の内部抗争により都市Dの隷属となり、都市Aは解体直後メギドにより焼き尽くされている。それ以外は概ね元通りになったと言えよう。そう、世界はまた元通り。誰かにとって少しだけ都合が良くなっただけで本質的にはなにも変わっていない。空白となった都市Aが、消滅から二週間も立たぬうちにゴモラ645を変換することで補われたことからも、今回の戦争は通り雨のようなものであったと断言できる。
外都市集中地域にあった都市Aという名が、ゴモラ645という付近に外都市がない場所に移ったという事柄だけは変化につながる可能性があるかもしれないが、それは期待しすぎというものだろう。
少し話は戻るが開戦直前のゴモラ67への使用、そして都市Aへの使用と、一年の間にメギドが二度発射されたことは実に七十年ぶりのことである。推測だが、あれはチャージ期間が長く連射できるものではない。今回の連続使用は、メギドの限界と言えるのではないだろうか?
メギドの恐ろしいところは、どのような形の範囲でも確実にそこだけを均等に焼くことだ。その調整に時間がかかると考えれば、使用後再び発射するまでの期間は一定ではないと言える。その異常なまでの精度を捨て、ただ威力だけ追求すればもっと早く再発射することが可能なはずだという推測もつけ加えておこう。
そうした余裕を容易に想像させるところも、バベルの恐ろしいところである。そしてその懐の深さのおかげでゲヴァルラギアは出現し、この神に甘えるかのような戦争を実行することができたのではないだろうか?
否定的な言葉をつらつらと並べてしまったが、私個人としてはこの戦争を高く評価している。人類が戦争という課題を放棄しなかった結果。その一つの解が、今回の戦い、通称「ゲヴァルラギア戦争」にはあるのだと強く感じているからだ。少なくとも、今回の戦いを内戦と呼ばず戦争として受け入れ扱ったメギドのありかたは、人類の意思発展に貢献したと称賛されるべきである。暴力を禁止するのではなく、暴力の使用を容認した上で結論を導き出す。今の世界にはそうした調整が間違いなく必要なのだ。
この物事に対する私的な意見を述べさせていただけるのであれば、間違いなく私はこう言うだろう。ゲヴァルラギア戦争というのはあまりにも捻りがない、不似合いな名前だと。そんな薄っぺらな名では、後世に生きる者がこの戦争から学ぼうとしないのではないかと。私ならばこう名づける。瓦礫の悪意と。少々気取り過ぎな気はするが、この戦争は――――――――――――
レウダ・ラン・シュタイン著『暴力の総数論』より抜粋




