102話:申の契約者
大樹の都での滞在が始まって数日が経った。俺たちは国王フェイサルからの厚意で、都の樹上に設えられた美しい客室で過ごしている。木の温もりを感じる室内は、森谷村の家とはまた違った心地よさがあった。
交渉はまだ始まっていない。エマニエルさんの話では、燕の国は東の国とは異なり、物事を急がない文化があるらしい。時間をかけて相手を見極め、信頼関係を築くことを重んじるのだとか。プログラマとしては、即断即決、高速開発がモットーなので、この「デバッグ」のようなじっくりした進め方には慣れないが、郷に入っては郷に従え、だ。
その日の午後、俺は千春さんと連れ立って都を散策していた。鈴音は「人間どもの堅苦しい挨拶など見てられん」と言って、黒猫の姿でどこかへ散歩に出かけてしまった。エマニエルさんは国王との調整で多忙なようだ。
「巧魔氏、見てください!あれが燕の国の『風の庭園』です!」
千春さんが指差す先には、巨大な樹の枝の間に、風の力だけで浮遊する無数の花々が咲き乱れる空間が広がっていた。花々は絶えず優雅に舞い上がり、視覚で捉えるにはあまりにも美しく幻想的な光景だ。これは、風魔法の応用だろう。千春さんはその光景に、魔法への探求心を刺激されているようだった。
「これはまた見事ですね。精霊魔法の力でしょうか」
「はいです!精霊魔法は、自然に宿る精霊の力を借りて魔法を行使するんです。私たち東の民の魔法とは、根本的に違います。あたしの魔法は、魔力を直接操作するようなものですから」
千春さんはそう言うと、自身の掌に小さな炎の玉を浮かべて見せた。東の魔法は、まるでプログラミング言語で直接ハードウェアを操作するようなものか。精霊魔法は、OSを介してリソースを管理するようなイメージだろうか。どちらも一長一短あり、共存できるならそれに越したことはない。
と、その時、俺たちの前方に、奇妙な身なりの男が現れた。男は木登りでもしていたのか、全身が泥だらけで、髪には枯葉が絡まっている。だが、その瞳の奥には、鋭い光が宿っていた。
「おや、珍しい客人がおるのう。風の庭園に迷い込んだか」
男はそう言うと、にこやかに笑った。その顔には、どこか猿のような愛嬌がある。そして、その背後からは、しっぽのようなものがチラリと見えた。
(こいつは……干支の契約者か?)
俺がそう思った瞬間、コン先生が脳内で反応した。
≪警告。第9支・申の契約者、接近を検知しました≫
「第9支……申ですか」
俺が思わず呟くと、男は目を丸くした。
「ほほう、拙者が干支の契約者だと見抜くとは、なかなか目が肥えておるな、少年。拙者は**猿舞**と申す。お主らは、東の国からの使者と見たが、違いないか?」
猿舞と名乗る男は、警戒するように俺たちを見つめた。千春さんは、目の前の人物が干支の契約者だと知り、驚きと興奮が入り混じった表情を浮かべている。
「はい。東の国から参りました、巧魔と申します。こちらは弟子の千春です」
「ふむ、道理でエマニエル殿の気配を感じたわけだ。東の国と燕の国は、長きにわたり交流を断っていたが……まさか、この時代に再び誼を結ぶことになるとはな」
猿舞はそう言うと、俺を値踏みするようにじっと見つめた。その視線は、まるでプログラムのバグを探すかのように鋭い。
「巧魔殿。貴殿が『第十三支の猫』の新たな契約者であると、正義殿から聞いている。その能力、見せてもらってもよろしいか?」
猿舞の言葉に、千春さんが「ええ!?」と驚きの声を上げた。突然の要求に、俺も少し戸惑った。だが、これは相手の力を測る機会でもある。
「ええ、構いませんが、この場で何をすればよろしいでしょうか?」
「ふむ。では、あの巨大な樹の枝まで、素早く到達してみせよ。足場を使わず、己の力のみでな」
猿舞が指差す先には、遥か上空に伸びる、大樹の巨大な枝があった。通常の人間には、到底到達できない高さだ。猿舞は、俺の能力を試そうとしている。プログラマとしては、これは「ベンチマークテスト」のようなものだ。