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猫虫  作者: コージ
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みどりというミステリアスな女と、猫虫の登場によって混迷を極める、主人公、純を巡るものがたり

Ⅰ 猫虫かく語りき


「あの女のことを哀れんだところで仕方がないさ」と猫虫が言った。

「あの女、って?」

「無神経な色気ババアのことさ。気に掛かっているんだろ?」

「ああ……それは確かに。だって、彼女の言うことも、態度も、あれはちょっとふつうじゃないから」

「それは、ふつうじゃないようにきみに見せ掛けているからさ……いいかな?」

 猫虫はダイニングテーブルの上の煙草の箱とZippoライターを指差して、確認した。

「どうぞ」

「どうも」

 箱から一本取り出して火を点けると、猫虫は旨そうに煙草を吹かし始めた。

「あの女に関わって、良いことは何一つないよ。これまでもそうだったろう? これから先だって同じさ」

「……かもしれないね」

「じゃ、何故いつも相手をする?」

「向こうから話し掛けてくるんだから、仕方がないじゃないか」

「無視してればいいじゃないか」

「それが、いつも何かしら相談ごとやら、助けを求めてくるんだ」

「だから、それがあの色気ババアの遣り口だって……」

「きみは彼女の何を知ってるって言うんだ?」

「何もかも知ってるよ。それは、ぼくが知ろうと思えば、の話しだけどね。だって、ぼくは猫虫だからね」

 猫虫は指で挟んだ煙草の先を、灰皿の縁にトントンと当てて灰を落とすと、また深く一服吸って、話を続けた。

「まあ、きみの性向からして、ああいう輩を排除しきれないのは、長年、きみの猫虫をやってきたのだから、解らないではないさ。しかし、今回も深入りは禁物なのは、きみにもよく判っていることだと思うのだけどね」

「深入りしようなんて思ってはないさ」

「ああ、思ってないだろうな。でも、向こうが引き入れてくるのさ。きみはいつもうっかりそれに乗せられる。だから、こうしてぼくが注意喚起している。いいかい? 海岸や川岸の底は、何処も彼処も、浅瀬から徐々に深みへとなだらかに形成されているわけではない。水流の影響で、浅瀬が突如として深みになっていることはよくあるものだろう? それが極自然にあることなんだ。テレビのニュースでもよくやってるじゃないか、一見、危険そうには見えない、何処にでも在るような川で、毎年、夏休みには必ずと言っていいくらい、無邪気に水遊びをしていた少年少女たちのうちの何人かが、不幸にも溺れて命を落としてしまうんだ。それは彼らが無知故に、川底の形をなだらかに傾斜しているものと決めつけてしまって、状況判断を誤ったから、つまり、危機回避を怠ったから、と……」

「テレビのニュースのことも知ってるのか」

「ああ、この世界にぼくが知らないことはないさ」

「まあ、きみの喩えはいつも理にかなっていると思うよ」

「川底の話しの続きだけれどね、川遊びをしていた子どもたちが、そんな深みに落ちて溺れてしまったのは、ただ彼らが状況の見極めを誤ったからというだけではない。いや、或る程度の見極めはできていただろうね、子どもなりにね。つまり、其処に在る危険は承知だった筈だ。大人の言うところのリスク管理ってやつかな。だから、こういった事例は、第三者的にはアクシデントとして認識される。不慮の事故と。……さて、実のところの問題は、それが子どもであれ大人であれ、人間族が、そういった危険へと導かれる何らかの誘惑に抗うことができない性質を持っている、というところなんだ」

「ああ、なるほど。それはそのとおりかもしれない。でも、彼女の件に関する限り、そういった例に当て嵌まるとは思えないし、第一、これから先のぼく個人の未知の先行きを、きみの自分勝手な邪推で以て決めつけて否定されるのもどうかと思うけどね。それに、これは水の中の話じゃない」

「ふっ!」

 猫虫は吸いかけていた煙草を口から放すと、肺に到り損ねた煙を吐いた。

「邪推ときたか。おいおい、きみはこれまでもやらかしてきたじゃないか。きみはいつもそれを解ってた。それでも逃がれることができなかった。結局、そういうことじゃないのかい?」

「これまでのことはこれまでのことさ。これから先のことは、単なるきみの憶測に過ぎないだろ? それとも、それには何か確信でもあるのかい? あれやこれやと理由付けをして推測するのは、邪推ってもんじゃないのかな?」

「やれやれ、お人好しもいい加減にしてくれよ……」

 煙草を灰皿に押し付けて、その火を消しながら猫虫が言った。

「今夜は話が少し長くなりそうだから、あれをくれないかな?」

「ああ、いいよ」

 ぼくはキッチンに行くと、数袋常備してある珍味の袋の封を切って、その中身を山なりに皿に盛った。〈やわらかイカフライ〉が猫虫の大好物だった。その皿をテーブルに置くと、それを見たとたんに、猫虫はただでさえ大きなその猫目を更に見開いて、舌舐めずりした両手――前脚と言うべきか――の先で、両頬から横向きに伸びた洞毛を丁寧に繕った。猫虫はいつも、この珍味を摘みながら、たっぷりライムを絞ったジンをちびちびやるのだった。猫虫にとっては、やわらかイカフライは日本国内生産の〈株式会社北加伊島水産〉加工製造品でなくてはならなかったし、ジンは正真正銘の〈Plymouth Gin〉でなければならなかった。けれど、煙草の銘柄には、猫虫はまったく拘らなかった。

 ぼくはライムの絞り汁を入れたグラスを二つと、開封したばかりのプリマス・ジンのボトルを持って、猫虫の待つテーブルの席に戻った。

「ありがとう。いただくよ」

 猫虫はやわらかイカフライを口に運んでは、目を細めながらゆっくり咀嚼して、その味と歯触りを一頻り楽しんだ。そして、ジン・ライムを二口、クイクイと呷って、そのグラスをテーブルに置くと、幾らか満足したように言った。

「いいだろう、あの無神経に過ぎる、非礼で卑しくも無知な、下品極まりない、あの色気ババアについて、この際、二人でとことん考察と議論を極めてみようじゃないか。あの女自身にその値打ちがあるかどうかは別としてね」

「まるで糾弾だな」とぼくは文句を言ったが、猫虫はそんなぼくの苦言はまったく意に介さない様子で、「うーん……ライムが少し足りないように思うよ。それに、きみには用心というものが足りない」と切り返した。

 猫虫に催促されて、冷蔵庫からライムを一個取り出しに、ぼくはキッチンに移動した。

「一体、きみはあの色気ババアに女性としての魅力のようなものを感じているのかい?」

「正直に言って、彼女にその魅力に欠ける部分があるとしたら、それは彼女の性格そのものと言えるかもしれないね」と、ぼくはキッチンで二つめのライムを切り、その半切りを絞りながら応えた。

「おいおい、ぼくに対してそんな回り諄い言い方をすることはないじゃないか。……つまり、きみはあの女を女性として認めている。そして、異性として、きみに対する何らかの可能性を見出してもいる、ということなのか?」

「否定はしないよ。ただし、その可能性は極めて低いし、それに、断っておくけど、これまでぼくは、そんな風な異性に対する欲望を彼女に対して抱いてつきあってきたわけではない」

 テーブルに戻ると、猫虫のグラスに氷を足して、その上から、ライムの絞り汁をたっぷり注ぎ足した。

「ああ、そうだろうさ……プリマスも、もう少し……しかし、きみはあの色気ババアを通して、別のものを見ようとしている」

 猫虫はその手に持ったグラスを掲げて、中の氷を見詰めながら言った。

「ほら、凍って塊だった氷も溶け出すと、ジンと見た目は同じ無色透明の液体となって、こうして互いに混ざり合ってゆくじゃないか。これじゃ済し崩しってもんだ」

 そのグラスを口に運んで、猫虫はジン・ライムをクイクイとやって、テーブルに置いた。

「これは、猫虫として言うのだけどね……」

 猫虫はいつだって猫虫だ。彼がそうでなかったことなど一度たりともない。

「……きみにとっては幸か不幸か、まあ、おそらく不幸と言うべきだろうけれども、確かに、あの女ときみとの間には、或る特定の因子が影響し合っていることは認めざるを得ない。これに関してはぼくも否定はしないよ。しかしながら、あの色気ババアの評判は、我々猫虫仲間の間でも甚だよろしくないものでね……だから、ぼくとしては、大いにきみのことを心配しているわけだ」

「きみはかなり彼女のことが嫌いなようだけど……」

「いや、だから、嫌いだとか、そういう感情的なことで言っているのではないさ。ぼくは猫虫だからね。そういった人間族的な感情移入をいちいちすることはないわけでね。虫が好かないんじゃないか? なんて、下手な駄洒落はやめてくれよ。それに、決してきみの信念信条を犯すことがぼくの本来の目的ではないというところは、どうか今後も忘れずに覚えておいて欲しいな。さっきも少し言ったけれどもね、人間族間で交換される特定の因子の及ぼす不可避な問題について、ぼくは常に考慮を怠らないのだよ」

「けど、よく解らないな」

「うむ、ざっと言うとだね、目下、ぼくが注意深く調べているのは、あの色気ババアの持つ因子について、それがどのような経緯で以てして、あのような悪性を持つに至ったか、ということなんだ。その判断の次第によっては、きみに害が及ぶような危惧は捨て去ってもいいのかもしれない。その方向性に関しては、あらゆる可能性を見捨てているわけではないのさ。だから、そこさえ見極められれば、それで上々だ。ただし、これは慎重に調査を重ねて判断する必要がある問題でね。勿論、それは猫虫として、だよ。まあ少々、ここでぼくの愚痴を言わせてもらえば、だ、これは時系列を過去に辿って、見落としがないように詳細に、且つ、綿密に見極めていく必要があってね、きみにはとても想像できないだろうけれども、それは大層骨の折れる仕事なのさ。特にあの女の場合は……」

「それで、彼女のことを嫌っているわけか」

「だから、勘違いしないでくれよ。これは人間族的な感情論で以て述べているのではないよ。あくまで実務上……と言うと、それは少しばかり言葉の表現に語弊があるけれど、今のは、ぼくの猫虫としての気苦労をきみだけに少し吐露したまでさ。ぼくとしては、むしろこれは、きみへの信頼関係の表れと受け取ってもらいたいのだけどね」

 そう言うと、猫虫はやわらかイカフライをぱくついた。そうして、やわらかイカフライを摘んでは口に放り込み、噛み砕いては呑み込みを数回繰り返した後、ゴクンと喉を鳴らすと、猫虫がごちた。

「ああ、旨いよ。やっぱり北加伊島水産のに限るね」

「ご満悦だな。酔ってきたのかい?」

 猫虫はその大きな猫目をギョロっと見開いて、ぼくを見据えた。

「ぜんぜん。まだ序の口ってやつじゃないか」

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