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世界の『不平等』に対する私見

作者: 橋本洋一

僕たちが生きているこの世界では、数多くの『不平等』が存在します。


ここで言う『不平等』は差別と同じです。国籍、人種、性別、言語、宗教、学歴、職業、容姿、病気、能力――挙げてしまえばキリがありません。しかも恐ろしいことに、未来へ進むごとに『不平等』は減ることなく、むしろ増え続けているのです。 


人は自分と異なる人間を敵視します。身内でさえ、劣っていたら見下します。逆に優れていたらまるで化物を見るかのように、見上げられてしまいます。


こうした人間の本能と呼ぶべき差別的目線があるかぎり、人間が住むこの世界に『不平等』がなくなることはないと個人的に思います。


では、この『不平等』無くす方法とはあるのでしょうか? 答えはありません。僕のような非才な人間では見つけることはできませんでした。


そもそも人間は完璧なものではありません。はっきり言ってしまえば不完全な存在です。だから話し合いという高等生物のみができる方法でも戦争を回避することができないし、加えて未だに世界に統一国家ができないのです。戦争を無くそうと考えるならば、国を合併させるくらいしか方法がないのに関わらずです。


この国を統一させるという考え方は多分学者や政治家も考えはするけれども、決して成すことができないのです。繰り返し言いますが、世界には『不平等』が満ち溢れているのですから。


そもそも統一国家を造るなんてことは夢物語に過ぎません。なぜなら国には優劣や貧富があります。それを平均化させる作業、もしくは全体の底上げを行なう事業をしなければ、真の統一が果たせないのです。


では平等なる社会もしくは世界を一から創るにはどのような方法があるのでしょうか。


方法は三つあります。一つは教育。一つは思想の縛り。そして最後に忘却による受け入れです。


まず教育ですが、これは明治時代の啓蒙思想家、福沢諭吉の著作、『学問のすゝめ』に記載されています。当時としては主流の考え方ですが、差別的な表現を含まれているので、簡単に説明します。


天は人の上に人を作らず、天は人の下に人を作らず。しかし現実として貧富の差が如実に現れている。それはなぜか? それはひとえに教育がなされていないから。教育を行なうことで西洋諸国に対抗できるようになるし、反対に教育を行なわなければ、C国やK国のように奴隷となってしまうだろう。


一見、平等主義者のようなイメージを持たれる福沢諭吉ですが、それとは逆に差別的な目線を持っていたのです。しかし差別的な表現を乗り越えて読んでみますと、確かに教育の有用性はあります。きちんとした教育を成すことで、国が豊かになることは、識字率百%の日本を思えば、歴然と分かります。


次に思想の縛りですが、これは国民の自由を制限する考え方です。


平等のためには思想や言論を統制する必要があります。なぜかと言うと、平等とは不自由と同じであり、不平等とは自由の証なのです。自由だからこそ、競争が生まれ、結果的に不平等となり、平等だからこそ、縛りが生まれ、結果的に不自由となるのです。共産主義と資本主義が相性の悪いのはそのためです。


だから平等の世界がSFでディストピアになっているのは、自由民主主義に慣れ親しんだ僕たちが無意識的に嫌悪感を感じてしまうのでしょう。


そして最後の忘却による受け入れ。これは戦争の勝戦国と敗戦国の両方に戦争の歴史を抹消させることです。


人は一度受けた痛みは忘れません。与えた痛みも忘れません。それは恨みとなり、子々孫々へと受け継がれていくのです。危険ですが、例を挙げるならば、日本と韓国の間で起こっている『従軍慰安婦』は当人よりもその家族や子孫が熱心に運動を行なっています。また、身内に居ない人間も運動に参加しています。自らが受けたわけでもないのに。


だからこそ忘却が必要なのです。忘却によって一から関係を築かなければいけないのです。もしくは滅ぼすしかないんです。それこそが平和への一歩となりえるのです。


まあ忘却は簡単に言ってしまえば臭い物に蓋をするようなものですが、どうしようもないことにはそれしか方法がないのかもしれません。


以上が私見ながらも方法を考えてみました。


しかし『不平等』は必ずしも悪であるのでしょうか?


学歴があるから、人は必死になって勉強をします。貧富があるからこそ人は努力します。


ようは考え方次第なのかもしれません。用量を守れば、世界にとっての起爆剤になりえるかもしれません。


無くしたほうがいい『不平等』と残しておいたほうがいい『不平等』。この『不平等』の中にも差別があるのかもしれません。


最後にこれだけは言います。


『不平等』を言い訳に世界に絶望しないでください。


もしも自分が底辺だと思っていても努力し続けてください。


底辺から抜け出すこと。これこそが平等かつ優しい世界への一歩となるのです。


そう信じつつ、僕も文章を書いています。

読んでくださりありがとうございます

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― 新着の感想 ―
[一言] 逆に平等にしようと考えるから不満が出るのかなと思っています。 分相応に貧しいなりに出来ることに満足できれば上を見ることも無いですし、平等にしようと富の再分配を行おうとすれば「努力しないくせ…
[一言] 最初に考えたことは、不平等とは何かです。 その概念の擦り合わせがない状態で 「ここで言う『不平等』は差別と同じです。国籍、人種、性別、言語、宗教、学歴、職業、容姿、病気、能力……」 そう聞か…
[一言] すみません、豊かさの指標をあげてなかったので、誤解を招いたようです。私が思う豊かさとは物質的なものよりも、実際に国民が感じる「幸福感」であると想定していました。幸福感において日本人が幸福だと…
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