表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の夢の話  作者: Hase
5/5

不意

 仙によれば、彼はすぐさま解毒剤を持ってきて、服用させたらしい。死に到らないとは解っているものの取り乱し、必死で名を叫んでいたらしい。

 あのロア・デュオンが。想像の及ばない姿を説明され、思わず笑ってしまった。彼でもそんなことがあるのか。あんなに落ち着いて、こちらに興味がなさそうな彼でも。

 昼過ぎ、彼の書斎へと向かった。寝間着のまま、仙の置いていった本を返却するという名目で。彼にはまだ聞かなければいけないことが山のようにある。

 ノックを数度。返事はない。もう一度ノックする。またしても静かなまま。仕方なくノブを回し、彼女は部屋に入った。

「あの、本を返しに来たのだけど――」

 わざとらしいまでに主張する。そうしなければいけない気がした。そうしなければ入れなかった。

 彼は机に居なかった。目を凝らすと、棚の間に、何やらもそもそと動く影があった。本の山に埋もれ、頁をめくる大柄の男。似つかわしくないな、と小鈴は音を殺してその背後に迫った。

「何を、してるのかしら?」

 声をかけたのは好奇心から。彼のすっとんきょうな、驚く姿を観たかった。何の深い思慮もそこにはなかった。

「っ、あぁっ……!」

 呼吸ができなくなり、一気に頭に血が昇った。その屈強な腕が、節くれだった指が、髪を撫でてくれた手が、ギリギリと首を絞めていた。本棚に背はきつく押し付けられ、足は既に床から浮いていた。

 ウェーブがかった長い髪の間から覗く双眼は黄金色に輝き、緩く開いた唇は乾いていた。何か言葉を発しようにも息は止まり、意識は遠退き始めていた。

「ロアぁっ…!」

 か細い声で、力一杯叫んだ。臓腑すべての力を振り絞って、彼の名を呼んだ。顔は赤く青く、頭に血は上り、最早何も考えられていなかった。

 呼応するかのように、一拍置いて手の力が緩められた。ゆっくりと力を抜いて、息を吐き、両腕を伸ばして倒れ来る彼女を抱き止めた。

 糸の切れた人形のようにロアの腕の中へ落ち、小鈴はひどく咳き込んだ。止められた分の呼吸をしてしまおうとするように、過呼吸までに繰り返した。

「あぁ…嗚呼、小鈴…」

 言葉を吐き、抱き締めた。何度も何度も、ロアは「小鈴」と繰り返した。咳き込むことに応えるように、何度も何度も。

 脳みそはビリビリと震えていた。どうしようもなく、ただただ苦しかった。それでも心配そうなその目を見ると、何も言えず、咳き込むことに逃げるしかなかった。

「どう、して……なんで、こんなこと……」

 辛うじて、出ない声でそう訊ねた。

 彼は暫し沈黙し、そっと小鈴の頬を撫でた。

「……私は、良い人ではないから。人に死を与える商人だ」

 触れる手は、ひどく熱かった。まるで初めて出会ったときのようで、思わずまた、目頭が熱を帯び始めていた。

 こんなに私は弱かったか。違う、そんなはずはない。私は一人でも生きていける。誰にも頼らず、生きていけるはずだった。恐怖と慕情を取り違えるのも、いい加減にしろ。

 しんと静まり返る。衝撃でページはバラけ、本は乱雑に落ちていた。その中で二人きり。

 頬を熱いものが伝う。慌てて手の甲で擦るも、涙が流れ止まらなかった。

「あっ、ごめんなさい、こんなはずじゃ」

 拭えど拭えど、泉のごとく沸き出す。顎へ伝う頃には冷えており、ぼたぼたと床を濡らしていた。

 こんなに泣いたことがかつてあっただろうか。母も父も、私ですら私の涙を見たものはここしばらくいないだろう。泣くことなど、あの家では一切なかった。

 無骨な手が、髪を撫で慰める。涙を拭い、赤くなった頬にそっと軽く、己の頬を寄せる。ただ暖かく、幸福だった。

「主様。お客様がおいでになりました」

 扉の向こうより、杣が彼を呼んだ。時間は動きだし、彼はゆっくりと小鈴を離した。

「すまない。行かなくては」

「いえ……すみません、身勝手なことを」

「身勝手で良いのです。貴女は、私の妻ですから」

 彼の言葉は簡潔だった。それ故に重く、優しく、葛湯のように沈んだ。

 彼は部屋を後にした。一人残り、小鈴はまだ暖かい頬にそっと触れた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ