不意
仙によれば、彼はすぐさま解毒剤を持ってきて、服用させたらしい。死に到らないとは解っているものの取り乱し、必死で名を叫んでいたらしい。
あのロア・デュオンが。想像の及ばない姿を説明され、思わず笑ってしまった。彼でもそんなことがあるのか。あんなに落ち着いて、こちらに興味がなさそうな彼でも。
昼過ぎ、彼の書斎へと向かった。寝間着のまま、仙の置いていった本を返却するという名目で。彼にはまだ聞かなければいけないことが山のようにある。
ノックを数度。返事はない。もう一度ノックする。またしても静かなまま。仕方なくノブを回し、彼女は部屋に入った。
「あの、本を返しに来たのだけど――」
わざとらしいまでに主張する。そうしなければいけない気がした。そうしなければ入れなかった。
彼は机に居なかった。目を凝らすと、棚の間に、何やらもそもそと動く影があった。本の山に埋もれ、頁をめくる大柄の男。似つかわしくないな、と小鈴は音を殺してその背後に迫った。
「何を、してるのかしら?」
声をかけたのは好奇心から。彼のすっとんきょうな、驚く姿を観たかった。何の深い思慮もそこにはなかった。
「っ、あぁっ……!」
呼吸ができなくなり、一気に頭に血が昇った。その屈強な腕が、節くれだった指が、髪を撫でてくれた手が、ギリギリと首を絞めていた。本棚に背はきつく押し付けられ、足は既に床から浮いていた。
ウェーブがかった長い髪の間から覗く双眼は黄金色に輝き、緩く開いた唇は乾いていた。何か言葉を発しようにも息は止まり、意識は遠退き始めていた。
「ロアぁっ…!」
か細い声で、力一杯叫んだ。臓腑すべての力を振り絞って、彼の名を呼んだ。顔は赤く青く、頭に血は上り、最早何も考えられていなかった。
呼応するかのように、一拍置いて手の力が緩められた。ゆっくりと力を抜いて、息を吐き、両腕を伸ばして倒れ来る彼女を抱き止めた。
糸の切れた人形のようにロアの腕の中へ落ち、小鈴はひどく咳き込んだ。止められた分の呼吸をしてしまおうとするように、過呼吸までに繰り返した。
「あぁ…嗚呼、小鈴…」
言葉を吐き、抱き締めた。何度も何度も、ロアは「小鈴」と繰り返した。咳き込むことに応えるように、何度も何度も。
脳みそはビリビリと震えていた。どうしようもなく、ただただ苦しかった。それでも心配そうなその目を見ると、何も言えず、咳き込むことに逃げるしかなかった。
「どう、して……なんで、こんなこと……」
辛うじて、出ない声でそう訊ねた。
彼は暫し沈黙し、そっと小鈴の頬を撫でた。
「……私は、良い人ではないから。人に死を与える商人だ」
触れる手は、ひどく熱かった。まるで初めて出会ったときのようで、思わずまた、目頭が熱を帯び始めていた。
こんなに私は弱かったか。違う、そんなはずはない。私は一人でも生きていける。誰にも頼らず、生きていけるはずだった。恐怖と慕情を取り違えるのも、いい加減にしろ。
しんと静まり返る。衝撃でページはバラけ、本は乱雑に落ちていた。その中で二人きり。
頬を熱いものが伝う。慌てて手の甲で擦るも、涙が流れ止まらなかった。
「あっ、ごめんなさい、こんなはずじゃ」
拭えど拭えど、泉のごとく沸き出す。顎へ伝う頃には冷えており、ぼたぼたと床を濡らしていた。
こんなに泣いたことがかつてあっただろうか。母も父も、私ですら私の涙を見たものはここしばらくいないだろう。泣くことなど、あの家では一切なかった。
無骨な手が、髪を撫で慰める。涙を拭い、赤くなった頬にそっと軽く、己の頬を寄せる。ただ暖かく、幸福だった。
「主様。お客様がおいでになりました」
扉の向こうより、杣が彼を呼んだ。時間は動きだし、彼はゆっくりと小鈴を離した。
「すまない。行かなくては」
「いえ……すみません、身勝手なことを」
「身勝手で良いのです。貴女は、私の妻ですから」
彼の言葉は簡潔だった。それ故に重く、優しく、葛湯のように沈んだ。
彼は部屋を後にした。一人残り、小鈴はまだ暖かい頬にそっと触れた。