寝覚め
自分でもバカなことをしたと思った。
「小鈴っ!!」
彼は叫び、彼女はそれを飲み込んだ。咀嚼もろくにせずに、花を一輪そのまま、胃袋へ落とし込んだ。
ただの数日まで自分のことを何も知らなかった男が、自分のことのように目の前で慌てふためいている。それが愉快で、それも彼とあっては、笑うしかなかった。小鈴はひたすらに笑い続け、やがて、溶けるように倒れ込んだ。
ざまぁみろ。私は人形なのだ、お前ごときで変えられるわけがない。可愛らしい恋心なんて持つはずがない。持てるはずがない。それでいいのだ。ずっと考えていたのだから。
死んでしまいたい。人形であれるうちに、死んでしまいたい。誰も私のことを知らないまま、死んでしまいたい。誰にも穢されることなく、清いまま朽ちたい。伴侶なんて必要ない。一生、私は私のままでいたかった。
「いい加減認めちゃどうなんだ」
幼馴染はそう語りかけてきた。これは確か、編み物に挑戦していた時の台詞だ。不器用な自分に対して、彼はそう茶々を入れてきた。
「うるさいな」不機嫌に彼女は返す。「お前なんて死んでしまえばいいんだわ」
「どうして。俺の事、嫌いなのか」
哀しげに、解りやすくその顔は曇る。バカなんじゃないか。ため息をついて編む、編む。また解く。皆皆馬鹿ばかり。親はまた良い顔をしない。
「小鈴のこと好きなやつは、そりゃ、多いだろうけど」
「何にも知らないくせに」
「知らないけど、それでも小鈴綺麗だし」
「あらそう。ありがと」
他愛もない問答。屈託のない笑顔の裏に何人の少女が泣いたのか、自分は知っている。この出来過ぎた幼馴染が自分をこよなく愛していることを逆手にとって、騙してやっている。それでも自分は悪くない。悪いのは、お前だ。
「いい加減さ。本気で誰かの事考えてもいいんじゃないのか」
――お前に言われなくても。
幼馴染が夢に出るたび、嫌な感じがする。自分の正反対にいる人間に対して、劣等感を感じているらしい。困ったことだ。目覚めが悪すぎる。
黒い細い後姿。起床した部屋には仙がいた。彼は彼女が起きたことを知ると微笑み、続けて嘲笑った。
「貴女、馬鹿ですねぇ。なんでまた、ソラシロコデマリなんて飲んだんです」
「理由なんて。おいしそうだったから」
「嘘仰い。あれはね、毒物です。知っているんでしょうけど」
彼は分厚い辞書を両手で抱え、ベッドに乱雑に置いた。そのうちの一冊を抜いて開き、例の頁を開いて見せた。
あの花も、レインも載っている。小鈴が心なしか霞む目をこすっていると、仙はその解説を始めた。
「ソラシロコデマリは、根に強力な毒があります。それこそ、抽出した液を一滴水に垂らしただけで三日は昏倒します。花であれば数時間から半日、眠るだけですけど。即効性は変わりませんがね」
「そう」その花から既に意識は離れていた。どうしても、あの花にしか彼女の意識は向いていなかった。「それで、こっちの……レインは、どんな効果なの?」
「それに興味があるんですか、馬鹿な人。構いません、ついでですし教えてさしあげましょう」
寄り添う形で密着し、仙は一文ずつ指をあてて、解説文を読み始めた。その表情は既に笑みを失い、かつて見た事のない、真面目な青年のそれとなっていた。
「レイン。バラ科バラ属で低木の品種です。トゲが固く、大ぶりなのも特徴ですが、何よりもその花の色が挙げられます。誰も成し得なかった、純然たるブルー。その名を冠すに相応しい、雨を溜めたような色をしています。だが――かの花の名はこれだけでありません」
彼の指は赤いインクへと。その一指に息が止まった。
「先ほど同様、毒をもつ花。この花には時間問わず水滴が浮き出し、それをひと舐めすれば意識が朦朧とし、やがて死に到ります。トゲに刺されれば、深く深く眠りに落ちます。露を含ませ溢れさせる習性から、その名が付きました」
「……そう。よく、知ってるのね」
「勿論です。我が主の所有物ですから」
彼女の動揺など知ったことではないというように、仙は言った。飲み込めていない小鈴へ対し、その本を閉じ、タイトルを見せた。
「『毒物辞典』と、貴女は知らずに読んでいたんでしょう?書庫の他の本はお読みになりましたか?似た本がごまんとあることはご存じで?」
「何、何なのそれ……あの人の趣味、なの?」
「いえ、とんでもない。あの方はこれを生業としています。聡明なる学者、何人もを秘密裏に手にかけてきた極悪殺人者。それがあの方です。貴女はそんな男に嫁がされたのですよ」
するすると彼はすべてを暴露した。小鈴はしばらく本の表紙を見つめ、ただ小さく一言、「そう」とだけ言った。