夢
音に慌てて本を閉じ、カーテンを引いた。振り返れば今一番会いたくない人が、眼前に立っていた。
「あ…あの、ごめんなさい、勝手に入って……すぐ、帰るつもりで」
仙だった。眉間に皺の寄ったその表情は小鈴を確認するなり緩み、いつもの笑みを貼り付けた。
「貴女でしたか。てっきり盗人でも入ったものかと」
「ご、ごめんなさい。怒ってないの?」
「ここは主のものですから。あの方も貴女なら叱りはしないでしょう」
そう言いながらこちらへ歩み寄ってくる黒衣の男。白い顔についた笑顔がどうにも不気味で、小鈴は机に手をついて身を逸らした。
その手が、肩へ触れた。彼は今回も手袋を嵌めていた。
「何を、そんなに怯えているんです。俺がそんなに怖いですか」
「いえ、別に……そういうわけじゃないわ」
「そうですか。俺は小鈴様のこと、好きですよ」
体が触れ合うほど近く、追い詰められた。ゆっくりと腕は背へ回り、首元へさらりと髪が垂れた。
「やめて」かっとなって、思わずその手を払った。距離を取り、そのまま入口へと駆けた。「急に何をするの。私はあの方の妻です、汚らわしい」
「あら。そう仰る。釣れない方だ」
けらけらと彼は笑っていた。初めからこうなることが解っていたかのように。
馬鹿馬鹿しくなり、そのまま部屋へ戻った。持ってきた安定剤を飲んで、ベッドへ横たわった。本を片づけていないことに気付いたのは、もうほとんど微睡んだ後だった。
目覚めると既に、ロア・デュオンは家を空けていた。簡単な書置きには夜には帰るといったことくらいしか書かれておらず、それでも昨日また夕飯を抜いてしまったことに対する心配の言葉が並べられていた。
キッチンへ行けば、赤い鍋がひとつぽつんと置かれていた。仙を頼る気は起きず、勝手にそれに火を入れた。立ち上る出汁の香りにくうと体が反応していた。
角のとれた野菜はくつくつと煮え、すっかり溶けた粥の水面は見つめているだけで思考が溶かされていった。まだ寝ぼけているのだろうか。思い出すのはいつも同じだった。
器へよそって、熱々のまま口へ運ぶ。水を含んでまたもう一口。胃に落ちていく熱も心地よく、二杯ぺろりと食べてしまった。
頭は重く、身体も変わらず怠いまま。それは満腹の所為なのか。ここにきて三日、今まで病などほとんどかからなかったというのに、今は異様に、身体が辛く、重かった。少しこの暮らしに適応できていないのだろうか。気晴らしが必要だ。
胃のものを流すように水を一杯飲み、小鈴はミュールを片手に玄関へと向かった。
屋敷の裏手、拓けた地にその庭園はあった。周囲は木々に囲まれており、訪問者は鳥や虫が精々といったところ。誰が手入れをしているのか、色とりどりに咲き乱れた花々は陽を受けて優しく揺れていた。案内をしてくれたとき、ここはほとんど飛ばされてあまり見られていなかった。
鉢も蔓もよく手を加えられ、肥料も液体・固体と様々。同じ花形でも中央から放射線状に別の色が走っていたり、色そのものが全く異なっていたり、トゲが増えていたりと、実験を施された庭はまるであの図鑑がそのまま飛び出してきたようだった。
ブリキのジョウロを知らずに蹴とばし、空洞の金属音に停まっていた蜂が飛んだ。そのまま池へ行き、小ぶりな、蓮に似た花に再び着地した。その花は形こそ知ったものに酷似していたが、色はビビッドな赤や紫で、強い匂いを放っていた。池の端に近寄るだけでむっと香る甘ったるい香りは鼻につき、バナナやリンゴの腐った臭いに近く、小鈴は思いがけず足を止めていた。むせ返る臭気。蜂はどこかへ消えており、小鈴はベンチへ腰を下ろした。
肺を浄化するように深呼吸。青空は頭上に、小鳥がどこかで囀っていた。
ふと、足首を何かがくすぐった。重たい頭を下げて見て見ると、愛らしい白い小さな花が固まって、ひとつの中ぶりな花となっていた。どこかで見たかしら――ぷつんと手折り、小鈴は空にかざしてしばしそれを眺めていた。
あぁ、見た。気付いたのは一分もかからぬ後だった。あの辞書だ。何だったか、何頁にあったか――あぁ、思い出せない。
諦め、ひじ掛けに頭を乗せ、はしたなく足を放り出した。花を頭に挿せばほの甘い香りがして、簡素なワンピースは風に揺れ、灰色のカーディガン越しに見るそらは色を失った。心地よく暖かく、編み物セットでも持ってくるべきだったとため息を吐いた。
数度まばたき。まどろんで、落ちていく。夜に帰るという彼へ、想いを馳せた。
「小鈴。俺は、お前を……っ」
賀家晴市は幼馴染だった。初等部の時に自分たちがこちらへ越してきて、そこからずっと家が隣ということもあり親しくしていた。いつでも快活で、やんちゃで、誰からも愛され、信頼され、光り輝く人。スポーツ万能で面倒見もよく、家の権力をかさに着たりなどせず、理想的・模範的な学生だった。
その彼が、苦し気に言葉を吐く。獣の如く、息を吐く。夏の汗が混じって落ち、畳にシミを作る。彼の小麦色の肌は障子越しの陽光に悩ましく熟れ、乾いた唇は何度も藤小鈴の名を呼んでいた。
たった半年前の幻想だった。法事で誰もいなくなった彼の家で、学校から帰ってしばらく。ふたりきりの息のつまるような空間で顔を真っ赤にして、泣きそうな声で、彼は言った。
「小鈴。好きだ。大好きだ」
――自分には、嫌いなパーツがあった。みんな嫌いだったが、特に自分の顔で、つり目なのが嫌いだった。全然可愛げがない。笑って見せても、鏡で見ていると全然笑っている感じがしない。もっと愛らしい、愛されるような顔で生まれたかった。
その私の顔が、笑わずに彼を見つめていた。
「勝手にしたら」
冷たい言葉だった。それでも彼はそれに慣れていて、馬鹿みたいなポジティブさで頷いた。愛してると、好きだと繰り返していた。それでも心には何ら響かなかった。
彼の厚い手が伸び、肩を掴んだ。扱いを知らぬ無茶な抱擁にも感情は生きず、ただ自分は天井を見つめていた。
ただ抱きしめるだけ。彼の声は泣いていた。見つめるのは木の組まれた、うちとそう変わらない天井。勝手にしてろとずっとそう考えていた。その野蛮さを、どう猛さを、男らしさを、父は愛し、母は嫌悪していた。自分はただひとりの友人だった彼など、どうでもよかった。
自分は彼が嫌いだった。眩し過ぎる彼が、ただ、目障りだった。