醜い
平凡な、何の当たり障りもない人生だった。趣味もなく、失敗も成功も取立てて言うこともなく、親の言う通り、真面目に生きてきた。自分の意思の希薄な、砂漠に生きていた。
二十歳になった春、ついに親が婚約を決めてきた。海外で財を成し、今は有り余るほどの富を街の開発や投資に利用している――両親は嬉々として顔を合わす度にそれを話し、近所にも語って聞かせた。口先だけの祝福の言葉に喜び、妬みや嫉みはその眼中になかったようだった。
思想にふけって何も手つかずにいると、部屋の障子に影が差した。がっしりとした体躯に短くそろえられた髪。あぁ、幼馴染。シルエットで判断が付いた時には、彼は障子を開けていた。
「よお。その、明日には……行くんだよな」
いつもの快活な口ぶりから一転、口ごもり澱みながら、彼は言った。
「えぇ、そうよ」短く端的に、彼女は切れ切れに答えた。「もう、帰らないかも、と」
母に言われた言葉をありのまま口から零した。沈鬱な空気に押しつぶされてしまいそう。彼ははっと動こうとしたものの、すぐさま挙げた手を下し、うつむいた。
お互いに、沈黙を守った。何も発さず、呼吸すらためらわれた。
物心ついたころにそっと隠れて約束した、「大人になったら迎えに行く」なんて可愛らしい約束。きっと彼はこんなこと忘れているんだろう。明日に去るというのに陳腐な言葉を述べるのも馬鹿らしく、ただ押し黙り、母が部屋にやってきて嫌味を言うまでずっと、ひたすらに貝に徹した。
あぁそうだ。恋など、しないのだ。永遠に、人形のような自分には無縁なのだ。
晴れ。塗りつぶされて流れていく風景も、レールの上を駆け抜ける車輪も、何も感情を生まなかった。ピチピチ囀る人の声、傾いては燃える熟れた夕陽。気づけば一人、終点のホームに立っていた。未だ時間は早い宵の口だというのに、他には誰もいなかった。この無情の田舎には風が吹くばかりだった。
囀る声はもはや聞こえない。自販機はひとりでに呻き、不気味さに身構えると、不意に重い足音が背後から近づいてきているのが感じられた。
振り返れば、それはそこに立っていた。外套をすっぽりと着こみ、中折帽を被った巨大な体躯の男。武骨で粗野、最初の印象はそうだった。
ゆっくりとこちらへ歩んできた男は、節くれだった手をそっとこちらへと差し出した。自分の手など簡単に折ってしまいそうな、大きな手。返すようにとれば、彼は大きな目と口に弧を描いた。
「藤小鈴殿で、お間違えはないかな」
低く、物腰柔らかな声。頭二つ分も上から降ってくる声は敵意もなく、ただただ優しく、甘かった。
彼の手はひどく熱かった。常に微熱があるのではなかろうかと思う熱量に、錯覚を起こした。彼の風貌に対する驚きとともに、恐怖と慕情を取り違えた。初めて小鈴は、その目に色を見た。
ロア・デュオン。彼の革鞄の端に刻印されていたRoa Duoneとあったのを、歩きながら読み解いた。エヌもイーもかすれており、至難の業であった。きっと名乗らない彼の名はこれなのだろう。違っていても、一方的にそう名付けた。
思えば両親からも、その名を聞くことはなかった。ただ日時と場所を指定され、切符とまとめた荷物と小金を渡された。どうでもよかった自分は何も否定することなく、そのすべてを受けいれた。
あの鼓動の速鳴はなんであろうか。どくどくと、今までにほとんど体験したことのない熱量だった。心なしか頬も熱い。耳も冬のようにじんじんする。与えられた屋敷の一室で、そっとベッドへ視線を落とした。
田舎の、集落よりまた離れた丘の上の一軒家。高い塀と重い門扉に守られた、平屋の屋敷。洋室とが半々に作られており、彼は口数少なに案内をしてくれた。与えてくれた部屋はとりわけ広く、どうにも落ち着かなかった。とりあえず落ち着こうと、冷えていた水を飲んだ。
「小鈴様、失礼いたします」
ノック。爽やかな青年の声。軽い返事を返すと、彼は扉を開けた。
彼は身の細い優男だった。書生のような格好をし、手にはまとめて持ってきた荷物を詰めた鞄を持っていた。随分小さな二十年間だ、小涼は自身の鞄を見てすぐに目を逸らした。
「俺はここで務めさせていただいております、仙《ぜん》と申します。お見知りおきを、小鈴様」
「……敬称とか要りませんから。貴方は従者なのですか」
「はい。かの主の僕です」
怪しい男だと思った。睨んでいると、彼はふっとおかしそうに微笑んだ。
「そう警戒なさらずとも。夕食はお部屋とダイニング、どちらでお召し上がりになりますか?」
「そんなの、旦那様と一緒に」
「顔色があまりよろしくありませんが、それでもそうなさいますか?」
田舎道を歩かれたせいですかね、と彼は言った。細い目をさらに細め、再び「どうなさいますか」と尋ねた。
言われて、無性に怠くなってきた。精神的なものだ、主を前にして一緒に夕飯をとらない妻があるものか。ましてや来たばかりの身分で、そんな。
――考えているうちに身体の怠さは悪化し、小鈴はベッドへ腰を下ろした。旨を伝えると彼は一礼し、そのまま部屋を後にした。
その日、出された食事は結局ほとんど喉を通らず、スープとカットされた水菓子のみを胃に入れた。
次の日は随分と早く目が覚めた。時計を見ればまだ四時を少し回ったところ。どうしようか、と少し考え、まずは顔を洗おうと部屋を出た。
そっと、猫のように忍び足。共用の風呂場に洗面所も併設されている。案内された道を最短で、誰にも見つからないように。それこそあの嫌な笑顔に見つからないように。
カラカラ、戸を引いて開けた。途端に、むっと立ち込める蒸気。真っ白に煙る世界に目を凝らした。
「おはよう」
軽い挨拶。にもかかわらず、どくりと心臓は跳ね上がり、全身から汗が噴き出た。
丁度風呂から上がったばかりらしく、ロア・デュオンその人はタオルで髪を拭っていた。ウェーブがかった少し長い髪は水滴を細かく落とし、その一挙一動にたじろいだ。
「すみません。すぐ、離れるから」
彼はタオルを手に持ち、足早にそこを出ようとした。お互い誰も来ないと踏んでいたからなのだろう、妙な気恥しさがあった。
昨日の非礼を詫びなければ。もっと話さないといけないこともいっぱいある。ただそう考えたのは、その腕をはっしと掴んだ後だった。
「その、昨日のこと……行けなくて、あの」
「――気分が優れなかったと。今日は一日、ゆっくりして」
しどろもどろしているうちに腕はするりと抜け、彼の足音は遠くなっていった。何も言えないまま、何も伝えられないまま、小鈴はそれをただ聞いていた。
これは恋などではない。慕情など、抱いていない。ただの寒冒なのだ、流行り病の一種なのだ。だから何もおかしなことはない、じっとしていれば治るものなのだ。
唇に指をあててベッドに横たわる。ネグリジェを脱げないまま、昼を少し過ぎてしまった。退屈に身をやられてため息を吐き、やがて立ち上った。
また部屋を抜け出し、今度は書庫まで。案内された部屋まで、またそろりと向かった。
誰にも会いたくない。だがあまり読書も好きではない。何か面白いものは無いものだろうか。願いを込めて扉を開くと、冷えた空気が廊下に流れ出した。
他の部屋を二つ分くっつけたくらいの広さに、本で山脈が築かれていた。音を殺すカーペットの上にそれらは並べられ、天井へ届く棚は静かに佇み、重厚な背表紙は肩を並べて鎮座していた。奥の窓辺には読書用の簡素な机と椅子があり、窓のカーテンはしっかりと閉められていた。
少しばかり明り取りにそれを引き、小鈴は部屋を見渡した。どの本に手を付けようか、しばし悩み、本棚のひとつへと近づいた。悩むことしばし――やがて、重たげな、いかにも胃もたれと頭痛を引き起こしそうな彼らをひとつ引き抜き、また机へと戻った。
ぼすんと音と埃を立て、ビードロの表紙は寝かされた。厚い頁を数枚めくり、小鈴は既に疲労の息を吐いた。
読めない異国の文字。それが列をなして、頁を埋めていた。めくれど知っている言葉は出てこない。かろうじて挿絵に助けられ、小鈴は椅子に腰かけた。
並ぶ挿絵から、植物図鑑であることはうかがえた。。向日葵、小手毬、桜。知っているものが時折現れるとじっとそれを眺め、細かに描写された葉脈を指でなぞった。茎、根、花弁、色のつかぬスケッチであるものの、惹かれ、見入っていた。
いくら時間がたっただろう。やがて、一枚の頁に辿り着いた。
「……れ、い、ん」
なけなしの知識を振り絞って、その名を読んだ。
レイン。その薔薇にはそう名が付いていた。「色」の項目は「ブルー」つまり、青である。ブルーローズ。世にも珍しいその花が、頁の中にあった。色の項目のすぐ後には、赤いインクで何やら言葉が書かれていた。赤の色なんて、ろくなものじゃない。きっとこの薔薇には毒があるんだろう。これだけ美しいのだ、きっとそうに違いない。
青い薔薇。薔薇は愛好家が多く、品種改良されたものも多いと聞く。しかし、青い薔薇なんてものは未だ完成していないとも聞いた。学友のお嬢様が大金を叩いて小さな園芸種を購入したことを延々話してくれたことを思い出してしまい、今更また辟易した。
じっと見つめる。園芸種だろうか。それとも、何か自然に発見されたものだろうか。想像を膨らませるも乏しく、すぐに現実へ戻ってきた。今度は辞書を持ってから読もう――
そう考えた刹那。扉は再び開かれた。