中院凛愛の対敵
「近寄らないで!これ以上彼女に何かしようものなら警察を呼ぶから!!」
突然の事に私が何も言えないでいると、代わりに真由子さんが啖呵を切ってくださいました。私とたいして変わらない身長なのに、とても背中が大きく見えます。
「これは失礼しました。うちの者が何かしでかしたでしょうか?——おまえら!決して手を出さず丁重にお迎えするように言っただろうが!——申し訳ありませんお嬢さん。彼らに言い含められなかった私の責任です」
「あ、その、そうだったんですか……?」
「どうぞ信じてください。私はそちらのリアお嬢様と話がしたかっただけなのです」
元婚約者はお側付きの人たちの態度とはうって変わって非常に柔らかな物腰で話し始めました。曰く、ずっと話したかったのにガードが固く会う事さえできなかった。だからこうして自ら庶民のお店にまで出向いたとの事。それを聞いた瞬間、真由子さんの表情が少し曇りましたが、イギリスでは貴族と労働階級の身分差がはっきりとしていて、彼のような物言いはある意味仕方が無い事なのです。
彼の説明が終わり沈黙がやって来て、さすがにこのままだんまりを貫き通すのは礼を失すると思い、私は真由子さんの前に出て貴族の礼をもって元婚約者に挨拶をすることにしました。
「お久しぶりですね、ロード・ネヴィル」
「どうかロジャーと御呼びください」
「ではロジャー。私と話がしたいとのことでしたが、それでしたら学校でアポイントメントを取ってくださらないでしょうか。見ての通り今は彼女と買物中なのです」
「是非ともそうしたい所なのですが、いつ尋ねても勉強で忙しいと取り合ってもらえなかったのですよ」
だとしたら笹塚さんが断っていたという事なのでしょうか。何も報告は受けていないのですが、もしかしたら私に気を遣わせないよう笹塚さんが裏でいろいろやってくれていたのかもしれませんね。
「それでは取り次いでもらうよう連絡をしておきますので、また後日ご連絡ください」
「そう言うわけにはいかないのです。その、この場で説明するのは少しはばかれるのですが……」
「おっしゃってください」
「実はハワード伯の体調が思わしくなく……」
「お爺様が!?」
大病をしてからはほとんど寝たきりのような生活を送っていらっしゃった優しいお爺様。最後にあったのはいつの事だったでしょう。あのおひげから覗かせる笑顔がもう見れなくなるのではないかと思った瞬間胸がつぶれたような苦しみに襲われました。
「……お爺様のご容態は?」
「これ以上は立ち話では……。ホテルが取ってありますので一緒に来ていただけませんか?」
ああ、こんな事態が起きないよう笹塚さんやマキちゃんが私の側にいてくれたというのに、私は何をやっているのでしょうか。
「いえ、もう婚約者でもないのにそのようなことは頼めませんわ。秘書に連絡して送ってもらいます」
「その必要はありませんよ。ミスターササヅカには私のホテルで既に待機してもらっていますから」
いったいどういう事でしょう?ひょっとして笹塚さんに電話が通じなかったのは彼らに拉致されたからなのでしょうか!?それとも……考えたくはありませんが、笹塚さんが向こう側に寝返ったのでしょうか。いずれにしても、私には一緒にホテルへ行くという選択肢しか残されていないようです。
「そういうわけです真由子さん。せっかく買物に付き合ってくださいましたのに申し訳ありません」
「そんな事は気にしなくてもいいよ!ねえ、私も一緒についていこうか?」
そうしていただけたらとても心強いのですが、一族の問題にこれ以上真由子さんを巻き込むわけには行きません。
「ありがとうございます。しかし大丈夫です。マキちゃんが心配するといけないので、私は無事だと伝えてもらえませんか?」
「……うん、オッケー。きっとシュウも心配すると思うけど——」
「シュウには何も言わないでください、お願いします!」
私は咄嗟に真由子さんに口止めしていました。この事を誰に知られたとしても、シュウにだけは知られたくありません。
「……わかった。シュウには言わないでおくね」
「ありがとうございます」
私たちは日本語で話していたのに、まるで何を話しているのかわかっていたかのようなタイミングでロジャーが話しかけてきます。
「それでは行きましょうか」
「ええ、お願いします」
ホテルに向かう車内でロジャーにいろいろ尋ねたのですが「全てはホテルについてから」の一点張りで、私は口を紡ぐしかありませんでした。車窓は見慣れたボストンの街へと景色を移していきましたが、最終的に到着したのはやや奥まった所に建っている、こじんまりとしたホテルでした。
「ここに笹塚さんがいるんですか?」
「ええ、そうですよ。——おい、あの日本人を部屋に連れてこい。——では部屋へ案内します」
薄暗い廊下を進んだ先にあったのは、パッと見美しい調度品が並べられた部屋でした。しかしよく見ればどれもが安物のような違和感を覚えてしまいます。
私がそわそわとソファーに腰掛けると、そこへ笹塚さんが連れてこられました。しかしその髪はこれまでに見た事も無いほど乱れ、麻のスーツはすっかり皺になり埃まみれになっています。
「笹塚さん!」
「リアさん、ご無事ですか!?」
「私は大丈夫です。それより笹塚さんが!」
「私の事は気にしないでください。こんなことになってしまい本当に申し訳ありません。これでは雅哉様に顔向けできませんね……」
「私が笹塚さんとの約束を破って出かけたのが悪いんです。笹塚さんは何も——」
その瞬間、心配し合う私たちを虫でも相手にするかのような冷たい声が襲いました。
「少し黙れ、黄色い猿ども」
その声を発したのは先程までにこやかに話していたロジャーその人でした。
「やはりそれがあなたの本性でしたのね、ロジャー。しばらく見ないうちに貴族らしくなったこと」
「黙れと言ったろジャップ。それと馴れ馴れしくロジャーと呼ぶな」
スーパーの入り口で話しかけられたときは数年で成長したのかとも思いましたが、元婚約者は昔と変わらない自尊心のかたまりのような最低の男だったようです。
結局、彼は私が口を閉じるまで爬虫類のように冷たい目でこちらを睨み続けてくるのでした。