貧乏学生はアメリカ留学の夢を見るか
きっかけはじいちゃんが見せてくれた1本のハリウッド映画だった。
じいちゃんは古いチャンバラ映画が大好きで、小学校に上がったばかりの僕にいつも無理矢理色の付いていない映画を見せようとしてきた。しかし6歳になったばかりの子供にその良さがわかるはずもなく、僕は「こんなのつまらない!」と言ってはじいちゃんのハートを斬り捨てていた。
そこである日じいちゃんは作戦を変え、チャンバラ映画を無理矢理見せるのではなく、チャンバラ映画に影響されて作られた現代のハリウッド映画を僕に見せることにした。要は子供でも興味を持ちそうなところから自分の領域に引きずり込もうとしたのである。
じいちゃんの布教活動は上手くいき、僕は宇宙を股にかけて闘う男たちの映画にすっかり夢中になってしまった。夢中になりすぎていた。
「いいか秀介。今のシーンは○○監督の××という作品に出てくるシーンを参考にしていてな——」
「じいちゃんちょっと黙ってて!今いい所なんだから!」
隣でショボンとするじいちゃんをおかまいなしに、僕は画面に釘付けになっていた。観終わると自分で巻き戻してまた最初から観ようとするので、ばあちゃんにチャンネルを取り上げられる始末だった。
縁日でじいちゃんにおもちゃの刀を買ってもらってからは僕は光の戦士となり、闇のサムライであるじいちゃんを何度も殺した。その様子をばあちゃんがビデオカメラに収めてくれ、家に帰って何度も見直すうちに、僕は漠然と将来映画を作る人になるんだと思うようになっていた。
その夢は体が成長するにしたがい少しずつ具体性を帯びていった。
小学2年生になる頃にはアクションシーンが自分でもできないとダメだと思うようになり、剣道をやりたいと言い出した。しかしうちには防具を買う余裕なんか無いと母さんに優しく諭されて、このとき初めて僕はうちが貧乏なのだと言うことに気が付いた。
うちは狭いアパートに両親と姉ちゃんと僕の4人で暮らしていた。今となっては信じられないような狭小住宅だったが、それが当たり前だと思っていた僕にはなんてことなかった。
一方で祖父母はとても裕福だった。いわゆる地元の名士というやつで、広大な土地を持っていた。僕は遊びに行くたびに広い敷地を走りまわったり、いくつもある倉の中に秘密基地を作ったり、闇のサムライを殺したりしていた。
母さんが僕や姉ちゃんをを引き取りにくるのはパートの終わった夜遅くのことだった。
昔々、地元の名士だったじいちゃんは娘をそれはそれは大事に育てていたそうだ。ところがその娘は大学に通ううちにどこの馬の骨ともわからない男と結婚したいと言い出して、じいちゃんは結婚を認めるどころか、娘の相手に暴力をふるい諦めさせようとしたらしい。それに腹を立てた娘は、なんと男と駆け落ちしてしまった。
カンカンに怒ったじいちゃんは娘を勘当し、自分の目の黒いうちは絶対に家の敷居をまたがせないと誓ったそうな。
しばらくして娘に子供が、つまりじいちゃんに初孫ができたとき、孫にメロメロになるじいちゃんを見てばあちゃんは「これでやっと元の家族に戻れる」と思ったそうだ。
ところがそうは問屋が卸さなかった。
娘の結婚相手、ええい、めんどくさい。つまりは僕の父さんが「私の家族のことに口出しするな」と、じいちゃんからの支援を全て断ったのである。父さんは未だにじいちゃんにボコボコにされたことを根に持っていたのだ!
自分で母さんを勘当した手前じいちゃんは何も言えなくなり、僕が生まれてからもしばらくはそのままの関係が続いた。僕はアパートでは貧乏生活を送っていたが、じいちゃんのところに遊びにいくたびに、じいちゃんの家の中でのみ遊べるおもちゃを買ってもらって喜んでいた。当時はなぜアパートにもって帰っちゃダメなのかよくわからなかったけど、そういうものだと割り切り、これからも同じような生活が続くのだと思っていた。
小学3年生のときにじいちゃんが死ぬまでは——。
じいちゃんは母さんに一軒家を遺してくれていた。その家はじいちゃんの家から歩いて30分ほどでつける、小さいけれど人数分の個室がある素晴らしい物件だった。本当は生きている間に仲直りをして近くに住まわせたかったらしいとばあちゃんが涙ながらに教えてくれた。
このことを深く後悔した母さんは父さんを説得してアパートから一軒家に引っ越した。ちょうど思春期を迎えていた姉ちゃんという存在も父さんを説得するいい交渉材料になったらしい。
そしてこの引っ越しが僕をまた夢へと一歩近づけた。
小学3年生だった僕は大好きな映画が英語で話されていることに気付き『英語塾に通いたい』と思うようになっていた。しかしばあちゃんからの支援を受け取らない父さんのせいでうちは未だに貧乏だったので、塾に通いたいなどととても言い出せる雰囲気じゃなかった。僕が通えた習い事は地域の大人がボランティアでやってくれていた少年少女合唱団くらいのものだった。
そこでばあちゃんにそれとなく相談してみると、数ヶ月後にはうちに英会話教室が出来上がっていた。何を言っているのかわからないと思うが、僕も何をされたのかわからなかった。
どうやら母さんの学生のときの夢が英語の教師になることだったそうで、僕の英語を勉強したいという気持ちとばあちゃんの支援をきっかけにしてもう一度夢を追うことにしたらしい。
その後貧乏ながらも母さんのおかげでぐんぐんと英語の力を伸ばしていった僕は、中学に上がる頃には明確にハリウッドを目指して突き進んでいた。自分で英語劇を作ったり、自分で映画のワンシーンを演じたり、ライティングにこだわって自分撮りなんかもした。
もちろん僕のこんな趣味をわかってくれる友人は誰一人現れなかった。小学校のときはチャンバラに付き合ってくれていた友達も、中学に上がったころからどんどん疎遠になっていった。そんな現実から目をそらすように僕はますます英語と映画の世界にのめり込んでいった。
しかしいくら英語を勉強しても日本にいてはその力を活かすことができなかった。
なんとかして海外に出たいと思っていた中3の春、中学の英語の先生からスピーチコンテストに出てみないかと誘われた。あまり大きな声では言えないが、そのコンテストに優勝するとほぼ自動的に夏のオーストラリア研修へ派遣されるメンバーに選ばれるらしいとのことで、僕は一も二もなくその話に飛びついた。
スピーチは外人の先生の喋る様子をそのままコピーすればいいだけだった。それまでにハリウッド映画のシーンを何十本もコピーしてきた僕には雑作も無いことだった。
見事スピーチコンテストに優勝できた僕は、市の予算でオーストラリア研修をたっぷり満喫してきた。それと同時に僕は『海外で暮らさなければ本物の映画は作れないだろう』ということを悟った。それほど『文化』と言うものは住む場所に寄って全く違うものなのである。
高校に入ってからは演技の勉強のために演劇部に入った。それと平行して留学資金を作るために深夜までバイトをするようになった。どちらもとてもハードだったがそれが将来につながっているのだと思えば苦労なんて吹っ飛んだ。
そして演劇部で大勢の人前で演技を見せるうちに僕の中である変化が起こった。映画を作りたいと言う夢が徐々に俳優になりたいという夢に変わっていったのである。
中学同様基本的にボッチだった僕は姉ちゃんにそのことを相談してみたが、大笑いの末ケチョンケチョンにけなされたので、姉ちゃん以外に僕がハリウッドデビューしたがっていることを知る人はいないはずだった。
そして高3になり、他の子たちが受験勉強を始める中、僕は留学の準備を始めた。普通免許を取ったり、大阪までビザを取りに行ったり、留学生のための英語のテストを受けたりした。同時に部活もバイトもしていたので、他の受験生よりよほど忙しい毎日を送っていたような気がする。
渡米まであと半年となった冬の日、ばあちゃんが僕を服の仕立て屋に連れてきた。
「授業料は払ってやることができないけど、せめて服くらいはいいもの着せてやりたいからね」と、夏用冬用のスーツを2着ずつ、計4着のスーツを仕立ててくれた。しばらくして完成品に腕を通したときはその動きやすさにびっくりし、かっこよさにホレボレしてしまった。
「やっぱりじいさんの孫だねぇ。スーツがとっても似合ってるよ」
「ありがとうばあちゃん。アメリカ行ってもこのスーツに恥じないように頑張るよ!」
「ああ。しっかり頑張って立派な俳優になるんだよ」
「ばあちゃんどうしてそれを!?」
どうやら姉ちゃんは僕をからかいすぎたことを気に病み、ばあちゃんにどうすればいいか相談に来たらしい。アメリカに行ったら姉ちゃんとは他人になってやろうと思っていたけど、少しくらいは手紙を出してあげようかと思った。
そしてやって来た5月の最終日。
狭い飛行機の中にずっと座っているとエコノミークラス症候群になると聞いたので、僕は動きやすい服装をして空港にやって来ていた。4着のスーツは型くずれしないよう丁寧にトランクにおさめてある。
「忘れ物は無いかい?」
「大丈夫だよばあちゃん。他は忘れてもばあちゃんにもらったスーツだけは絶対に忘れないから」
「そんなこと言ってないでちゃんとパスポートとチケットの確認しなさい」
「わかったよ母さん。心配性だなぁ」
僕は手荷物の中から重要そうなものを母さんに見せつけ、そのまま「行ってきます」とゲートをくぐった。ハリウッド映画だったらきっとここで熱い抱擁を交わすんだろうななどと考えながら、僕はもう一度家族に手を振った。
いよいよだ。いよいよここから貧乏学生・加納秀介はハリウッド俳優への道を歩みだす。
見てろよ日本!次にあうのは舞台挨拶で凱旋帰国するときだ!!