幽霊人形の壊し方
いじめ描写があります。ご注意ください。
最後はハッピーエンドです。
中学生2人の心の変化を感じていただけたら幸いです。
せめて9月に転校できれば良かったな。
10月1日。知らない中学校の朝のホームルーム前、職員室に寄って担任に挨拶を済ませた俺は、これから過ごす教室の日常の雰囲気を知っておきたいからと、担任より一足先に割り当てられた教室へ向かった。
そこは今まで転校してきた何処の学校とも変わらず賑やかで騒がしかった。だからこそ、より浮いている一つだけ混じる異質な存在。
一瞬、目を疑った。それから眉間に皺を寄せて溜息を吐く。
担任に無理を言って先に教室に来ていて良かった。そうでなければ、しばらく「転校生」という物珍しい存在として周囲を囲まれ、このおかしさに気付くのが遅れたかもしれない。
本当に呆れる。こんなことする奴らって、まだ日本にいるんだな。
「なあ、あそこに座ってんの誰?」
入口のすぐ傍の席、ぎゃあぎゃあと騒いでいる男の集団に声を掛けた。
「は? お前誰だよ?」
同じ学ランでも校章の違うボタンと通学鞄はやはり目立つらしい。男達は俺を見て警戒するように目を鋭くする。まるで縄張りを守る犬みたいだ。
「転校生だよ。今日からこのクラスになるんだ」
「マジで!?」
叫びに近い驚きの声が朝のざわめきを静め、僅かな沈黙の後--爆発する。
「嘘!?」
「転校生!?」
「普通てんこーせーって先生と一緒に入ってくんじゃねーのかよ!」
「先生は親と話があるみたいだったから、俺だけ先に来たんだ。よろしく」
こういう対応には慣れてる。軽くあしらい、最初に声を掛けた男に続けて聞いた。
「なあ、あいつ誰?」
人を指さしてはいけません。そんな言いつけは気にせずに人差し指を向けた先に、俯いた女が座っている。
彼女の机の中央には菊を挿した花瓶が飾られていた。
窓際の一番後ろ。教室によっては居眠りのベストポジションとして席替えで取り合いになる特等席だが、ここでは違うらしい。
ワーストポジション。同じ教室内でありながら、あそこだけ隔離空間が完成していた。中途半端な人数だったのか、少し乱れてはいるが長方形に並んだ机の中、彼女の席だけはみ出している。正確には彼女の机と余った机の二つだけが、前の席と意図的に大きな距離が開けられていて、後ろには汚れた掃除用具用のロッカーがあるだけだった。
指の先を確認して、男の顔がニヤリと笑う。クラスがスッと静まった。
ひそひそ、ひそひそ。まるで風のような速さで、教室を囁き声が満たす。クスクスと笑い混じりで悪意と嘲笑がたっぷりこめられた話。内容が聞こえなくても伝わる。
みんな、馬鹿みたいに同じ笑い方だ。
「誰のこと言ってんだ?」
返ってきたのは、まるで台本の台詞を読むようにわざとらしい答えだった。それに続いて教室のあちこちから声が上がる。
「その席、誰もいないじゃない」
「菊が置いてあんじゃん」
にやにやと顔に浮かんだ笑みは消えない。
なるほど。やっぱりそういうことか。
予想した状況の裏付けがとれて俺は合わせた笑みを浮かべながら思案する。
そうして、決めた。
これからこのクラスで過ごしていくんだ。強いものには従わないとな。
「ああ、そうなんだ」
納得した俺に満足したらしいクラスメイト達が本格的に笑い声をあげる中、すたすたと先に進む。
そうして無造作に彼女の真横の机に鞄を置いた。
「お前、名前 は?」
投げた質問に教室が凍り付く。
「……」
女は顔を上げない。俺が教室に入った時のまま、俯いて、ピクリとも動かない。肩まである髪がすだれのように顔にかかって、表情も分からなかった。
「お前、俺にしか見えないんだってよ」
何も言わない。
「普通の奴に見えなくて俺にだけ見えるなら、お前、幽霊だよな?」
何も答えない。
「よろしくな、幽霊」
肯定と受け取って挨拶を終えた俺は、幽霊の机に飾られている花瓶を掴み上げる。
綺麗な菊の花。なくなると、机にシャーペンで隙間なく書かれた罵詈雑言が余計に目立つ。
「これ綺麗だな。いらねえなら、転校祝いってことで俺にくれね?」
沈黙。沈黙。沈黙。
「幽霊なんだから、花なんかいらないだろ?」
仕方ないから勝手に結論を出して、軽く見える笑顔を浮かべたまま、俺は花瓶を自分の席の足下に置く。帰る時、適当なプリントに包んで持って帰ろう。誰かに悲しまれるために買われて飾られるのは、飾られた奴も、花も、その花を育てた人も、皆悲しい。
それなら、俺がもらった方がずっと良い。
ああ、でも、菊って縁起悪いんだっけ? 花ならどれも同じだと思うけどな。
先生が来るまで、俺はそんなことをつらつらと考えていた。完全に敵と認識して鋭い視線と悪意たっぷりの囁き声を向けてくるクラスメイト達なんか気にもならない。
授業どこまで進んでんのかな。
それが今一番の気になることだった。
同じとこを繰り返し習うほど、だるい事ってないからな。
朝のホームルームに少し遅れて来た担任から前に呼ばれて紹介され、俺、霧島大地は正式にこのクラスの一員になった。とても仲間に入れてくれそうな雰囲気じゃなかったけど、そんなことはどうでもいい。
一時間目の授業は国語。先生が来るまで俺は隣の女を舐めるよう見つめていた。
実は人形なんじゃないだろうか。
ピクリとも動かない様子を見て、そう思う。
俺が趣味の人間観察をこんな露骨にやっても、周囲の人間は誰も俺達を構わない。一人から二人、隔離された空間は少しだけ範囲を広げて、この教室に確かに存在し続けている。
ふと目の前で女が動いた。
引き出しではなく、俺の席の反対側にぶら下げている鞄からルーズリーフ1枚と筆箱を取り出す。そうしてまた元のポーズに戻る。
(教科書は……?)
考えて、すぐに気が付いた。
机すらあんな状態で、出されたのもノートではなくルーズリーフ。つまり、使える状態ではないのだろう。読めない教科書。書けないノート。そんな物は持っていても無意味だ。
「おい、幽霊」
音を立てて机をくっつける。
「俺がおんなじ教科書持ってて良かったな。幽霊だから教科書なんて持ってないだろ?」
ニヤリと意地悪く笑って、2つの机の真ん中に自分の教科書を広げた。チャイムと同時に職員室からやってきた授業教諭は、そんな俺達に何も言わなかった。
転校生が在校生に教科書を見せてもらうのは、普通の事だからな。
***
「なあ、幽霊」
それから、毎日毎日飽きもせず、俺は彼女に声を掛けた。
彼女は毎日毎日怒りもせず、人形の振りを続けている。
あっさり日常になってしまったやり取りをどう思っているんだろう。
「幽霊だって。聞いた?」
「きもーい。頭おかしいんじゃないの?」
聞き止めたクラスメイトが嘲笑う。俺が何かを言ったり、少しでもおかしな仕草をすれば、それはクラスメイトの格好の餌食になる。暴力を振るわれることはない。ただ普段は無視しているのに、こちらが何か行動を起こせば馬鹿にする。体に傷が付くこともないし、ささやかな行為で大きな騒ぎにはならない。
けれど、これは立派な心への暴力だ。苛める側は乗りやすく罪悪感も少ないが、苛められている方にしてみれば、こんな辛い事もない。
「学校の案内してくれよ」
耳障りな声を無視して、俺は隣を歩く女に笑いかけた。一カ所に止まるのが嫌だと言いたげに、早足で歩く彼女の後ろをついていく。
数分も経たない内に、廊下を歩いていた俺達の姿は学校の校門を越えていた。あそこはまるで異次元だ。それだけで嘲りもからかいも遠い世界の出来事になる。
「幽霊になっても学校に来てるんだ。お前、学校が好きなんだろ? なあ」
「近づかない方がいいよ」
一方的に話し続けていた俺の言葉を、小さく、けれどはっきりとした声が遮った。
初めて聞く声だった。
誰に言われたのか分からず、驚いて立ち止まる。周りを見回したけど、こっちを見てる奴は誰もいない。
すぐ傍には、変わらず前が見えているのかも分からないほど俯いた女がいた。
立ち止まっていた。
いつも何を言われても歩き続けていたのに、彼女は今俺の横で立ち止まっている。
ここに来て2週間。変わらないと思ってたけど、どうやら彼女の心の中では何かが変わっていたらしい。
「今更意味ないだろ」
やや遅れて言葉を返した。ポンと放るように。気遣いを台無しにして。けれど彼女は動かない。肩を跳ねさせて怯える様子すらない。
だから俺は口を動かす。顔には新しい笑顔を浮かべて。
「別に俺が好きでやってることだから気にすんな。俺はお前と一緒にいる方がいい。
サンキュ。意外と優しいんだな、幽霊」
歩き出すと、俺から半歩遅れて彼女も歩き出した。今までと立場が逆転する。いきなり訪れた劇的な変化だ。
「あー… …そうだ。じゃあ、学校はいいから街を案内してくれよ、幽霊。お前、街も好きだろ?」
返事は期待してなかった。ただ無言になりたくなかっただけ。
なのに彼女の頭が上下するのを、俺ははっきりと見た。
少しだけ女の足が速まって、また俺の半歩先を行く。
驚いた。嬉しかった。わくわくした。
でも、それ以上に残念だった。どうせ反応してくれるなら、さっき初めて聞いたあの可愛い声を、俺はもう一度聞きたかったんだ。
***
日常が過ぎるのは早い。十月は肌寒いと感じる程度だったのに、十二月が間近な今は息も白くて、冬服じゃ冷えた空気を完全には防げない。
この街では見ない学校の制服を着ている俺は随分と浮いていた。いや、分かってる。 別に制服だけが理由じゃないってことくらい。
大きな道のすぐ横にある小さな公園。遊具はなくて、あるのは古びたベンチと砂場だけ。子どもが10人が入ればいっぱいになってしまうような小さな場所に俺と彼女は2人きりだった。
貸し切りの砂場で山を作ってる。手持ち無沙汰の手混ぜだろう。彼女を眺めながら、すぐ横で俺は拾った木の棒を揺らしていた。
「楽しいか?」
「……今日は、城を作ろうかな」
「できんのかよ」
楽しくないと言ったら、じゃあなんでしてんだよと俺に言われるのが分かってるから話題を変える。そんな彼女の変化に笑う。
最近の日常はささやかな変化が伴いながら穏やかだ。
あれから毎日帰りに少しずつ街を案内してもらった。学校では全く話さないけど、徐々に外では彼女の声を聞くことが増えていった。
口を開くことを躊躇いながら話す。声も小さい。けれど、はっきりと淀みない話し方をする。彼女のそんな話し方が俺は嫌いじゃない。
だから、街の案内が終わってからは、何かと理由をつけては、学校が終わると彼女のお気に入りの公園にやってくる。先客の幼稚園児や小学生にジロジロ見られるのも慣れてきた。時には一緒に遊んでやることもある。今日はたまたま2人きりだ。
「……なあ、幽霊」
もうすぐ冬が来る。秋が終わる。何度も繰り返し投げかけた質問を、俺はまた繰り返す。
「お前の名前を教えてくれ」
ビクリと彼女の肩が震えた。今は不安を表に出す。心を開いてくれてるんだ。じんわりと温まる胸が冬の寒さを遠ざける。
けど、もうそれだけじゃ足りない。
自分の名前を彼女は頑なに教えてくれない。俺の名前も呼んでくれない。
今まではそれでも良かった。けど、今日は。
「幽霊」
「言いたくない」
「俺はもうお前を幽霊なんて呼びたくない」
間髪入れず、転校を繰り返す内に身に付いた、愛想笑いを捨てて見つめる。
自分を上回る真剣な声に彼女は顔を上げた。目を見開いて、驚いた顔をして。いつも下を向くせいで滅多に見れない顔。特別綺麗じゃないけど、ぶさいくでもない。隠す必要なんてどこにもないのに。勿体ない。
「………………はなこ」
長い長い、長い沈黙。その後に、蚊の鳴くような小さな声が3文字分並んだ。
「花子か。 日本一有名な名前だな」
嫌味じゃない。彼女から直接教えてもらったことが嬉しくて俺は笑う。
本当はとっくに知ってた。初日に見たんだ。花子。彼女の名前。机に『トイレの花子さん』とかそんな言葉がいっぱい書かれていた。
いじめの原因はきっと名前だ。頑なに教えようとしなかった。花子は自分の名前が嫌いなんだ。
「俺の父さんは、実は最初、俺に大地じゃなくて太郎ってつけたかったらしい」
俺はいつものように勝手に話すことにした。
「太郎って、書類とかの見本に絶対出る名前だろ? 日本で太郎って名前を知らない奴はいない。それくらい有名になって、あらゆる場所で活躍する子になってほしかったんだと。まあ、母さんが滅茶苦茶怒って、大地って名前にしたんだけどさ」
いつも無表情だった。今は泣きそうな顔で俺の話を聞いている花子の顔を覗き込む。
「花子は親が嫌いか?」
いつかぽそぽそと話してくれた。料理屋を営む家族の話。何度か食べに行ったこともある。花子の両親は元気で明るく、俺が娘のクラスメイトと知ると、おかずを一品おまけしてくれた。そうして、娘は学校でのことを話さないからと、代わりに俺を質問責めにした
。それだけ娘を心配してるんだ。花子がいじめられていることを話さない理由が分かった気がした。花子は両親のことが好きなんだろう。
思った通り、花子はフルフルと首を振る。
「そうか。……なら、将来は小説家か芸能人あたりでどうだ?」
「えっ?」
思わず出た。そんな感じの声だった。
「花子って名前が嫌なんだろ? でも、改名とか親に悪いしな。芸能人になってみろ。みんながお前をお前が望む名前で呼ぶぞ」
「そんなの……」
「無理だと思うか?」
大きく、鋭く、木の枝を振 った。花子の目の前に突きつける。
「花子、世界はな、お前が思ってる以上にでっかいぞ。選択肢は、それこそいくらでもあるんだ」
目を大きく見開いた彼女の視線を強く感じる。それを俺はしっかりと受け止めた。
目は逸らさない。
「職業だけじゃない。選択次第で人は何にでもなれる」
「……じゃあ、私も強くなれるかな」
ぽろりと彼女の口から零れた言葉に眉を寄せる。
「どういう意味だよ?」
「なんでもできるなら強くなりたい。そしたら、クラスの人とも」
「花子は今のクラスの奴らが嫌いか?」
遮って聞くと、少し躊躇ってから、小さく頷く。
「なら、あいつらのことなんか気にすんな。あんなお前のこと苛めて、それで満足してる奴らなんか相手にする価値も ないぜ」
吐き捨てる。自分達が最低なことに気づきもしないで、多数決の優越感に浸ってる馬鹿な奴らの顔を思い出した。吐き気がした。
「……私が悪いと思う」
なのにそんな言葉が耳に届いて、息を呑む。
「名前のせいで今までずっと苛められてきたの。でも、本当は名前のせいじゃないのかも知れない。もっと私が心を開けばいいのにって先生が」
「違う!」
堪らない。言葉を紡ぎながら声が死んでいく。花子の声をそれ以上は聞いてられなかった。
先生はきっと学校での花子を見て、さして考えもせずに言ったんだろう。上辺だけを見て、深層を窺いもしないで偉そうな事を言う。そんな奴らが世の中には沢山いる。馬鹿野郎。
花子の肩を強く掴んで、自然と俯いていた彼女 の顔を無理矢理上げた。
前を向け!
俺はお前の良いところをいっぱい知ってるよ。
「悪意や棘があること言われて傷つかない奴なんていない。花子が特別弱いんじゃない。自分しか自分を守れる奴はいないんだから、自分を守るのは当たり前だ。悪いのは、そういうことして人が傷つくのを面白がってるあいつらだろ。あいつらの言う事なんて聞く価値もないけど、そう分かってたって人は傷つくし、それも悪い事じゃないんだ。俺は二ヶ月一緒にいたから知ってる! お前に悪いとこなんて一つもないよ、花子」
勢いよく捲し立てて、我に返って恥ずかしくなる。でも、伝えたいことがあったから、俺は花子から少し離れただけで木の棒を振る。
しばらく無言の時が過ぎた。冬の太陽はその 間も速度を緩めることはなく、いつの間にか辺りはすっかり薄暗くなっていた。寒い。
「……なんで、大地くんはそんなにすごいのかな」
顔を背けた方から、泣き笑いの声がした。
吐き出す息が白い。胸がぎゅうっと締め付けられて、花子が見れない。
「本を読めよ、花子」
精一杯、いつも通りの声を出す。
「本?」
花子が教科書や本を開いている所は見たことがない。
「俺が言ったことは全部本に書いてある。いろんな本を読んで、もっと賢くなって、高校は学力が高くて遠いとこにしろ。学力が高いとこなら、多少金がかかっても親は認めてくれるだろ。先生の理解も得られるはずだ。クラスメイトが嫌いなら嫌いでいい。あいつらから逃げたと 思われない手段で距離をおけばいいんだ。
--自分に胸を張れる人間になれよ」
きっとそれが一番大事だ。
「……うん。……大地君は、すごいね」
聞いたことのない嬉しそうな声。花子は今笑ってるのか。見たいのに見れない。俺も笑いたいのにな。
「すごいのはお前だ。あんなことされても毎日学校に来て勉強してた」
すごいと思った。顔が見たいと思った。人形みたいなお前の表情が変わるところが見たかった。だから構ってくっついた。
最初の切っ掛けなんて、そんなもんだった。
「帰るぞ」
言いたいことは言った。立ち上がって、先に公園の入口へと歩き出す。後ろから続く足音は聞こえない。
「なんで、大地君は私に構うの?」
今更な質問に俺は笑った。
「俺が幽霊だからだよ」
***
昨日の言葉はどういう意味だったんだろう。
考えながら、黙々と花子は学校への道のりを歩いていた。昨日、公園の入口で分かれる前に大地から聞いた言葉。自分よりもずっと大人っぽくて口は悪いけど賢い彼が、どうして自分なんかに構って必死になってくれるのか分からなかった。でも、聞いてうざいと思われるのが嫌で質問を躊躇っていた。
あの時、もう辺りは夜に近いほど薄暗く、大地が振り返ったのは分かっても表情までは分からなかった。声が楽しそうだったから、あれは彼の言葉遊びだったのかもしれない。
突然現れた転校生。何故か花子に話しかけてきた彼を、最初は新手のいじめだと思って気にしないようにしていた。「幽霊」なんて呼ばれて傷ついた。けれど、知れば知るほど彼は誰より優しかった。こんなことを言ったら、また笑って意地悪を言われてしまいそうだけれど。
今日、大地に聞いてみよう。いつものように彼の言葉に答えるだけではなく自分から。彼ならきっと馬鹿にせずに答えてくれる。
小さな、けれど彼女にとってはとても大きな決意をして、花子は教室へ入った。
目の前に広がる光景を見て、固まる。
「なんだよ、これ!?」
「朝来たら全員分なってたんだってよ」
「はあ!?」
教室の三分の一くらいの机と椅子がひっくり返されている。今丁度元に戻している最中のものあった。花子の机もひっくり返されている。
しかし、大地の席は普段のまま。それなのに、教室に彼の姿はない。
誰かが代わりに直してくれたなんてわけはないだろう。そんな優しさは花子と大地には向けられない。
もしかしたら、もう学校に来ているけれど、今は教室にいない。それだけなのかもしれない。
「あの、大地くんは?」
けれども、非日常に胸が掻きむしられるような不安がして、花子はクラスの女子に飛びついた。いつもなら絶対しない行動だ。すぐに嘲笑われるかと怯えたが、相手は信じられない行動を取る。
「山田さん……大丈夫?」
「え?」
「ひどいわよね、こんなことするなんて。やった奴、意味分かんない! 最低!」
「え、あの、大地君は……」
「誰? 大地って? 私、知らない」
目の前が真っ暗になる。
『幽霊』。
大地が言った言葉が頭の中をグルグルと巡った。
そして今更、彼が昨日いつも必ず言ってくれていたことを言わなかったことに気がつく。「またな」と、彼は昨日言わなかった。
「……っ! あの、大地君は?」
皆に聞いた。
信じられないことに誰も花子のことを無視しなかった。同じ被害を受けた仲間として認めてくれた。
そして誰も、大地のことを知っていると言う者はいなかった--。
****
長閑だ。平日の夕方、まだ帰宅には早い時間なこともあってか、電車内の乗客は少ない。朝から何度か乗り換えただけで、座り続けの座席の揺れには、もう慣れた。
文を読むのが苦手な奴でも気楽に読める、薄っぺらい本のページを捲る。
「珍しい物を読んでるね」
向かいに座る父さんがのんびりと言った。確かに昔から本ばかり読んでいる俺としては物足りない内容だ。
「これ、面白かったら友達に紹介しようと思ってさ」
「あの街で新しくできた友達かい?」
頷くと、父さんは目がなくなりそうなくらい眉を下げて申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね。こんなに転校ばっかりで……。大地が嫌なら、お父さんについてこないで、おじいちゃんとおばあちゃんの所にいてもいいんだよ?」
「いいよ。父さんについてこなかったら友達もできなかったんだし。俺、転校は嫌いじゃないし」
今から俺はまた知らない場所に行く。今度は何処かの島らしい。この電車は港に向かっている。
俺の父さんの職業は画家だ。絵を描き上げては題材を探して日本国内を点々とする。そんな父さんと一緒に、今まで何度も2ヶ月から半年のペースで転校を繰り返してきた。
あそこにも最初から短期間の滞在だと分かっていた。だからこそ、俺はクラスの奴らの悪口に耐えられたんだ。
花子とは違う。
俺は花子ほど強くない。
花子と出会うまで、俺は友達を作ることを諦めていた。仲良くなっても、違う場所に行けば、また一からやり直し。以前の場所の友人達と住所を教えあって文通などもしてみた。でも、遠くの友より近くの友。楽しい日々に、俺の存在はすぐに押し流されて、一度返事がくればいい方だった。
今、過去に点々とした場所を回ったところで、俺のことを覚えている人間が何人いるだろう。
短い間でも確かにそこにいたのに、すぐに忘れられてしまう。俺の存在なんてなかったよう。最初から認識もされていなかったよう。
まるで、幽霊だ。
父さんを恨んでいるわけじゃない。父さんのことは大好きだし、父さんの実家に預けられるのを拒んで、一緒について回っているのは俺の意思だ。
でも、どうしたって寂しいことには違いなくて、いつの間にか性格は捻くれてしまった。
花子とは違う。
あいつはすごい奴だ。
俺にできた久しぶりの友達。いや、友達とは違うのかもしれない。うまく言葉にはできない、不思議な関係だった。
別れは言わなかったけど、あいつが笑える場所を作るためにできることは全部してきた。
「もうすぐ着くよ」
父さんがそう言った時、俺の携帯が軽快なメロディーを鳴らす。
見知らぬ番号。心当たりは一つだけある。
「もしもし」
『大地くんのばかあ!』
手が勝手に動いて、携帯を耳から離していた。それほどの音量。凄まじい怒鳴り声。
「なんだ。お前、怒れるんじゃないか」
俺の笑い声が聞こえるのか、向こうの声は益々怒りに染まる。
『い、いきなり転校だなんて……みんな大地君のこと知らないって言うし、本当に幽霊かと』
「ばーか。んなわけないだろ」
俺ののことを知らないと言った。それを聞いて、俺は自分の作戦の成功を知る。
花子をあの教室で幽霊ではなくす方法。俺なりに考えて、実行した盛大な悪戯。
昨日、花子と別れた後、俺は人気のない学校に逆戻りして、俺の机以外、クラスメイトの机を全部ひっくり返した。今までの仕返しに加えて、花子と俺は仲良くないと見せつけるためだ。俺は学校で花子のことを幽霊と呼んでいたし、花子は俺に対しても無視を決め込んでいた。仲が良かったのは、あくまで学校の外でだけ。だからこそ、机を他のクラスメイトと同じようにひっくり返しておけば、花子と自分達は同じように机をひっくり返されたとクラスメイト達に親近感を与えられると思ったのだ。おまけにいじめる対象は、俺がいる。花子から、俺と花子に移ったいじめの対象。それをさらに俺だけに絞らせる。そうすることで、花子をいじめから解放する。当然、俺は転校してしまっているから、実際に俺をいじめることはできない。だが、それを知る前にクラスメイトが花子をいじめの対象から外して会話をしたりしたならば、いじめないで輪に入れることにした花子を再びいじめるのは難しいだろうと考えたのだ。
その通りうまくいくかは賭けだったが、クラスメイトと話をすることができたのなら、少しはやった甲斐があったのだろうと思う。
全部俺が勝手にやったことだ。花子に伝えるつもりはなかった。
「俺の悪戯、ビックリしてたか?」
『大騒ぎだよ。大変だったんだから!』
「俺の机以外って言っても、結構数あるから大変だったぜ。いい気味だ」
俺が笑い続けていると、涙混じりの怒鳴り声も徐々に笑い声に変わっていく。
「電話かけてきたってことは、教科書開いたんだろ?」
花子に残してきた最初で最後のプレゼント。他人の悪意でボロボロにされてしまった物の代わりに、落書きを消して逆さまにした机の中、あの学校でも使われていた教科書を入れてきた。
間に携帯番号を書いたメモを挟んで。本当はこの電話がくるのを今か今かと待っていた。
『うん……、ありがと』
「春休み、遊びに来いよ。今度は俺が街を案内してやる」
今まで、どうせ短い間しかいないのだからと、転校した場所を探検してみることもなかったが、花子のためと思えば、休みの日に探索してみるのもいいかもしれない。
『うん、絶対行くよ』
とうとう泣き声が混じらなくなる。
そんなことが飛び上がりたいほど嬉しい。
「絶対な」
自分でも呆れるくらい弾んだ声が出た。
俺達の未来は晴れたどこまでも続く線路のように、どこまでも広く輝いていた。
終
いかがだったでしょうか?
これから先も2人の関係は途切れることなく続いていくのだと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。