Ⅳ-ⅩⅠ 水底に曇りて
青い水底はそれほど深くは無いが、井双路はその其処を緩やかに泳いでいる。水流の流れも加わってあの流れ落ちていた滝の水量に混ざるように水底まで一気に押しやられ、深みに引きずりこまれたが、水の副属性でも、霧と流水の副属性を持ち合わせている井双路には、それは大したことではなかった。深みから直ぐに浮かび上がると、歩く事もできるが水底に立ってしまっては身長のある彼の頭を上にいる男たちに蹴られかねないと砂と砂利と岩の混在している水中をゆるゆると泳いでいる。
ゆっくりと確実に春明へと向かっていく井双路にあせりは無い。呼吸が続かなくなることは無いし、なにより自分の副属性は己の属性を最大限に高める場所にあるのだ。
水煙の井双路と呼ばれる彼の術式は、水の属性にある副属性である霧や、雲と言った属性だけでなく複数含まれている。元来、副属性を幾つも取得していくうちに気づくと主属性へと至るとはいうが、彼でも未だその域には達してはいなかった。
ただ、彼がもつ副属性は、水属性でも水流や水弾を作り出す水源や、水流により物体を斬る水刃、という主体になってくる副属性ではない。呼称とされる水煙、彼はまるで水煙の如く己の術力を水気としてまといつつ、その痕跡を次に見たときには霧散させるという。まるで水煙のような特性をもっている水術の使い手だった。
彼の副属性は今水中を悠々と泳いでいるように見えるが、術力を最小に抑えつつ彼の回りには水煙幕とよばれる術式が発動していた。
同時に井双路の水中を移動する姿は潜っている者たちにはみえていない。
見えていないと言うのは正しくはないだろう。井双路の能力である副属性は霧の属性である。霧霞は人を朧とする力になる。水中出その力を発揮すると霧が消えてしまうように思われるが、井双路の術力から作られている霧は、同じく副属性である流水とよばれる水の操作を可能にしている能力によって守られている。おぼろになる姿を水の流れが包み込む事で、それは一種の光の操作を可能にする。水中に入る光は屈折し、入ってきた光は角度を変えて水中からの反射をする。水煙幕によりゆがめられる術力の幕は、その光をゆがめつつ、表には出す事は無い。言わば光を退ける光学迷彩のような術式が働いているのである。井双路の異名を文字通り体現している術式は、発動していてもその特性ゆえ感知が難しいのもその助けをしている。
霧のほとんどは水を含んでいるが、術力で精製した霧は水中での呼吸さえ不要にしていた。
「さてさて、春明ちゃんもどうするんだろうかねぇ」
この言葉は放った本人に向けられるべき言葉だろう。井双路が手を貸したことがわかればそれだけで隊の人間が贔屓目やら、特別視することが増えるたろう。見えないと分かっていても、手を出すべきではなかった。だが、それを押しても助けねばなるまいと、井双路は水へと身を躍らせていた。
「いまだけなのだとしたら、それこそ何時助けるんだろうかなぁ。あの二人は厳しすぎる。特に岩はその気が強いけど」
水流のなかにいくつもある岩をよけつつ井双路はそう思っていた。異界より門を開いて連れて来られてしまった彼女は、己の意志が関与しておらずここにいる。なのに、なぜそうまでして帰ろうとしている彼女を手助けしてやらないのか。式陣に憑かれているならば、いずれ先はない。そんな分かり切ったことをあの二人が知らないはずもないだろう。分かっているならば、彼女に必要な助けは今ではないか。
斡辰はできるだけ手を貸そうとしていることはわかるが、片木梨はそうとは見えない。彼は彼女を嫌っているようにしか見えなかった。
「岩も女嫌いであるのが強いとは聴いてはいたけどねぇ。ああまで毛嫌いしきらなくてもいいんじゃないかと俺は思うが」
式陣にいずれ喰い殺される定めが決まっている者に、今だけでもと慈悲を与え優しくすることのなにが悪いのだろうと井双路は思う。三名揃って自分たちが彼女に辛く当たったって、人は叱られるだけでは成長はしない。
適度な手助けをくわえなければ、こちら側になれていない雛はすぐにへばってしまうだろう。自分たちの手の上でのばさせてやることも大事であるはずなのだ。まして、あれだけ若いなら矯正するにしても強すぎるだろうと、井双路は考えていた。春明はおそらく当年で15~6才にしか見えない。
その割にはしっかりとした者のしゃべり方をするから、そうとうにいい教育をむこうの世界でうけているのだろうとも思えた。門外人というのは、皆そうなのだろうか? すべらかな流れと人の立てる泡とが視界にすこしかかるが、井双路にとってはそれは障害物にはならなかった。水煙幕の術式はそばまで来る泡自体を水にかき消しつつ、なくしていく。水流のあるところでは泡が消えることもおかしくはない。消えていった泡など誰も気にかけることはないだろう。
するりと水中をひとかきしてさらに進んでいくと、水中にいる術力の流れがはっきりとわかる。目を開いて流れを意思の中へと振り分けていけば、思っていたよりもこの水中というのは危険らしい事が分かった。流れに残っているものは少ないが、上流から、そして近くにある大岩などの水中のなかにある暗所から、隠れるように幾ばくかの化け物たちの術力が残されているのだ。傍目にはわからないだろうが、術力を見るものにとっては、その残滓は光の糸を手繰るようにはっきりとしているものだ。あのひらひらとしている彼らは水中でも活動が聞くようである。
「ふむ、思っているよりやっかいかもしれないと御大はいっていたが、本当にやっかいじゃないかねぇこれは」
貧乏くじを進んで引いたのかもしれないと言う思いもよぎりはしたけれど、だとすれば対策が打てる。水につかって気分転換になった者たちは早々に休ませ、後ほどこちらが術力を解除したから水には入るなとでも言えばいいだろう。
水中への注意を払うようにとは伝えていた斡辰の想像が正しかったようだ。活動範囲が羽末たちは崖からだけではない、水中からも今後は気を払って見なければなるまい。
井双路の思惑もほどほどに、また、ドボンという水音が頭上でした。流水のなかで男たちの足と潜ってくる者たちが増え、すいすいとよけては行くが、気分もよくないし目に悪い。
体調は万全のはずなのだが、視覚的に見たくないモノが飛び込んでくれば気分も悪くなる。なにが悲しくて男の裸体をいっぱいみなけりゃならないんだろうか。
「うえでぶらつかせて結構だけど、あー……目の方だけ術式解除しておくべきだったかもなぁ」
独り言だけがでるがいつ飛び込んでくるのか分からない相手と、視界もなしでよける方が面倒だ。けれども、術式が使いこなせていてもコレばっかりは出来ない。と、水中で若干顔色を悪くしていた井双路は、人の術力の流れが出ているところを感知した。
羽末に比べればその流れはか細い糸くらいだが、コレだけはっきりとした黒の術力は知る限りでは身近に一人しかいない。糸はある一点で細く出ていることから、恐らく最初に術式を使用したのが此処になるのだろう。水や炎といった流動性のある力の術式に比べると、闇の副属性はその形を残しやすいらしく、水流のなかで流れつつも発動した場所に長く残ろうとしている影の痕跡があった。
糸は川下に向かって流れていっているが、その向きとは違う方向で一つ、別の術式の痕跡が水中の岩陰から樹木の影にへばりつくようにも残っていた。
「さて、どういう術式使ったまでかは聞いたほうが早そうか」
井双路の目はそう言った先で一番新しい術力が発されている流れを見つけていた。深くなっている岩穴だが、そこから零れ落ちている術力は紛れもない春明のものだ。




