Ⅱ-ⅩⅥ ありて彼に 閉じて乙女に
春香の肉体的な変化はほとんどないのだが、表面を覆っていく術の力が慣れない感覚で透明な水が張っていく感触にくわえて其処にインクでも落とされたように内側が霞がかった黒に覆われ、視界の色が黒い霧に飲み込まれたように感じる。落とされたインクが水に馴染み、落ち着いてくるのと同じくしてやっと視界の変動が収まると、かすかな疲労感が自分のそこかしこでする。
「こう言うのは、初めてのわりにはいい感じというのかしら? 」
開けた視界は薄闇をはらってなお、綺麗にみえるし、幾分自分の慎重が伸びたように感じた。
斡辰たちの目の前で変わっていくその姿は、時をほとんど置かなかった。片木梨や井双路たちが驚いていたの当然である。術式には確かにその属性によっては応用をする事で多様な変化を生む場合がある。だが、彼らが慣れ親しんでいた属性術式にしても応用をするためには相応の想像力や、力が必要なのだ。そう言った事柄を考えれば、彼らの驚きも納得できるだろう。
「しかしながら、契約を勝手して変える事にならないのかこれ?名前を名乗るにしたって流石に男の名前はまずいだろ」
井双路のそういう言葉も転がっていくばかりで、彼女の発動してる術を泊める手立てにはならない。ただ、二人が感情を隠せずにいるのとちがい、斡辰だけはそれを楽しんでいるように笑っていた。
「ふむ、門外人は常にこちらと違う思考をもっているというが、発想の方向性というものはどうも術式の特異性を生み出すのにも向いているようだ。影の術式、本式の闇属性術式を使わずとも、変形術が使えるなら、俺たちもやりようによるかもしれんな」
そういった斡辰の眼前には術の力で覆われている一人の女の姿が映っている。だが、彼が術眼を使わぬようにみると、其処には同じくらいの身長をした青年が影に着られていた。
影に着られているというのは斡辰本人が思っている事柄でではあるが、正しくそうだろう。茶髪だった春明と名乗った女の髪は影を吸い上げて薄い黒へと変わっており、影の形になぞらえた輪郭は女のような見た目に少し固い線がはいり、一見すると中性と迷う先ほどと違い女っぽい空気をもった男に見えるようにはなったのだ。長い髪は変わらないが、身体の女性らしい丸みも膨らみもほぼ抑えられている。だが……。
「いくら男の姿をとってもやはり、女の顔立ちは残っている。多少なりとのお前の努力は認めはするが、それで男の名を語るにしては理由が薄い」
「片木梨のいう通り。やっぱりもともと女性だと知っている俺たちだからそう見えるかもしれないが、男の中にはいるにはちょっとばかり顔が整いすぎているねぇ。あと、軍のお偉いさん、俺たち以外の奴にも男の名前として通すにしてはそれはちと弱いよ? 」
二名が言う事も最もだ。そも、この世界で戦場に女性がいるということは、まず式使い、あるいは術式に長けているので戦役に徴兵された特殊役職の人間になる。過去に女であるのに、男の名前を名乗っていた人物がいなかったといえばそれは嘘になるだろう。だが、そういった人物は昔にある国を守るために身命を捧げた戦姫と呼ばれるわずかな伝説ばかりなのだ。
身命を投げ打ってまで国の為に戦うと言い切れるほど、春明がこちらによっているとは到底言い難かった。
「二人とも術血状が結ばれた時点でこの契約自体が有効扱いになっているのを忘れていないか?それに、血印もしっかりみろ」
斡辰がそういうままに、片木梨のもっていた置かれた台座の上にある術血状を片手で拾い上げると、こちらに文面が見えるように上げてくる。
術血状は先ほど輝いていた光はなくなっているが、契約の時にお互いに血印を押し付けたところだけがはっきりと分かるように鮮血の色のままだった。上に押されている血印をよくよくみると、水守宗の文字がまるで鮮血を吸い込んで作られたようなにじみ文字で、浮かび上がっているではないか。下方に添えられている自分の血印も春明がみてみると、同じように春明の文字がそこにはあった。
「もしも契約を結べないなら、結ぼうとした時点で偽の名を使っているコイツに術の罰が与えられるし、術印紋を刻もうとしたときに出る鎖が行き場をなくす。そもそも、こいつが仮契という時点でおれが真魂名を告げずに契約が成立している時点で普通の契ではない。其処まで考えればこいつの男の名前を告げて何も無いのは当然なのだろうな」
斡辰はそういいはしたが、その声音はどこか疲れを含んでいるような苦い感じがして、それに対して思わず春明は頭をさげた。
そんな春明を横目で見つつ、斡辰は彼の側近たちへこう〆た。
「契約が成立してしまったのは仕方のないことだ。だがな、せめて名前を男らしくしたいだのなんだのがあるのならば、男女で使うくらいの名前にとどめるなりするか、俺に一言そうしたい旨を話してもらいたかった。名前が成立してしまったことでこれ以上いうのは問答の無駄だ。井双路、片木梨、この件はこれ以上は追及不用とする。しかし、春明。
今後お前の勝手をする場合は俺かこちらの二名から意見を仰げ、以降の勝手はお前自身に全ての責をもたせる。その際に加減は無いいいな」
斡辰の最後の言葉に一気に自分の体温が下げられるのを感じた。銀髪に金の目という普通でもありえない組み合わせの美形が、怒ると、いいがたい恐ろしさを感じさせられる。金の目を一瞬春明はみてしまったが、こっちをみていたその目の瞳孔が細くなるのをみて、まさしく彼がこの軍を率いているだけの力があるのだと納得してしまった。
理屈では通らないところを力や、王様がもっているような覇気でどうにかできてしまう素養が彼には確実に備わっている。
嫌な冷や汗が片木梨さんと退治した時の倍くらい流れ出す前に、春明は短く彼に謝った。
「以後気をつけます。申し訳ありませんでした」
『御方、あまり萎縮しすぎなさいますな。此度の事は私も悪うございました。御大、斡辰様。私の説明不足もあり、勝手しましたことをこの黒乃、謝罪させていただきまする』
春明が謝った影の横、同じように斡辰へと謝る音声が聞こえ、影が波立った。
「ほう、契約で変わらないといった割りに、先ほどの姿と変わっているのはどういうわけだ」
『御方の罰を軽くするためであれば、私は隠していることをさらけ出す事くらいは造作もありませぬ』
隣で影から伸び上がり、少しばかり首を傾けた黒乃の姿に春明も前にいる三名と同じくその姿を確認する。
黒乃の姿は契約直後は何も変わっていなかったようだったが、実は変形の余波はあったようで、薄い霧がいくらか纏いついてその黒々とした鱗を尖らせているようにも見えた。
式であったときには多少はあった瞳の丸みや、なだらかな蛇体のようだった姿に箔がついたとでもいうのだろう。影の式としては陽の光の中でこれだけ影や闇をのこせるとしたらそれだけ力が出せるようになったということだろう。大きさも若干肥大化しており、大きい長虫のようだった契約前と比べるとその胴の太さは成人の男の腕よりも太く、翼は春明の上半身を完全に隠せるほどには大きくなっていた。契約すれば力が格段に上がるというのは真だったのだ。
鱗の輝きも漆黒のような色合いでつややかに輝き、式であった頃とは何もかもが換わってしまったようにさえ見える。




