Ⅰ-1 投げ出された世界
山歩きは、なれない人は下に降りちゃいけないらしいですね。
斜面をおりていってもたしか迷う元らしいとか
人がいきなり山に放り込まれたらどうなるか。それを体現したのが自分だろう。
言葉にならない吐息が最初に漏れた。ゆっくりと瞼をあげてみれば、春香は光のほとんど無いどこかに立っていた。ぼやけた輪郭が形を成して、目の前の物が分かるようになり、色とにおいを理解する。意識が徐々に戻っていくと、思わず首筋を指で触っていた。
触れた指の下でゆったりとしていた鼓動が動いている、頭に送られる血の流れ。
「脈、あるね」
どこか遠いところから自分を見ているように感じるが、いくら瞬きしたところで土と緑ばかりの山の中。見上げても高い木々が折り重なって木漏れ日さえ見えない。いや、もっと暗く、時間にしたら夕方を過ぎたくらいの時刻なのかもしれない。
はたと、思い当たって自分の顔に手を当ててみたり、雷が当たった腕をみなおしたりしたけれども、意識をぶち斬られた衝撃だったはずのその痕は何も残っていない。強いて言えばちょこっとだけ腕をつかまれたような奇妙な感触だけが肌に残っていて、そのあたりはうっすらと色が変わるか変わらないかで白くなっているように見える。ただ、他の人から見たら気のせいで済まされる程度の変色だった。
あまりに衝撃的すぎて、冷静と混乱を示す指針が一周回って冷静に止まりなおしている。
現状から想定できることは……。
「え、雷当たった直後から記憶喪失になって山の中まで歩いてきた? いやいや、ないない」
つぶやいて自分の声はでることを確認すると、湿気を帯びて腐葉土の香りをもつ空気が鼻に入ってくる。呼吸してるからここがなんちゃって天国ってことでもなさそうだ。
「臨死、体験? え、うん。んー、痛い」
腕をつねるが痛みはあった。そしてまともに動く。……三途の川も見えないし、亡くなった母が見えることもない。
「え、なによこれ」
本当にソレしか言葉が出てこない。似たような言葉を三度ほど呟いて、もう一度困惑して、また冷静になって、ゆっくりと今度は傾斜のついた大地を見た。
「みた感じどころではなく山、よね。ここやっぱり」
薄暗い木の影がいくつもあって、下生えの茂みがいくつもある。そのうっそうとした感じは、道を歩いてきたとは到底思えない状態だった。
春香の周囲にあるのは、切り立っている崖が少し後ろに、前はうっそうとした木が茂りながらも腐葉土が多い斜面に生えた木々、その足元は岩盤でもあるのか固かった。記憶にある祖父母の実家に近い山がこうだった気もするけれど、街から近いそこと違って、家々の屋根一つみえないのもおかしい。
そんな中で自分の影が、空を遮った木々の下ではっきりしていることが少し不気味だった。
手に持っていた鞄はどこにもない、お弁当の入った肩掛けバッグもない。スマホはポケットに入れていたせいで感電してお陀仏だった。
腕以外けがをしている所は確認できなくて良かったけれど、ポケットをあさって出てきた十徳ナイフ以外所持品は十円玉に一円数枚。そのほかの場所にも怪我がないことをヒョイヒョイと体を見回して確認する。
「所持品これだけとか、山の中で生きていける気がしない。そしてどこ行ったのよ……。
おまけに雷に打たれて生きてる。マジな話で死んでるって言われた方が納得するわ。でも、肩が軽くなったかな?」
電気マッサージの要領だろうか、雷に打たれた? 左肩の疲れとこりがきれいさっぱりなくなっている。しかし、
「え、なにこれ? 」
そこで春香はふと反対側の手に奇妙なあざが出来ている事に気づいた。手の甲中心から放射線状にみえる薄黒い痣がぐるりと巻いている渦のようについていた。
すすけた黒と紫のうっ血の色で、痛みはない。
「ん、放電したのが反対側の手だった? いやそしたら、通電してるから生きてるわけないし」
もう一度、そう言って今度は頬をつねる。やっぱり痛い。
講義鞄の中にあった化粧ポーチの鏡で自分を見れたならよかったのに。そして、ペタペタと顔を触った。顔の形は帯電したせいで腫れたり、倒れたりして傷でもついているかと思ったが、触れても何も指にはつかなかった。
「ほんとうに、なんともない? いや、荷物何一つ持ってない時点でなんともないとは。でも、雷打たれてから何にも覚えてないし、落とした? それとも盗られた??」
春香の混乱は収まらず、無くした物を探そうかとも思ったが、何処で落としたのかさえ分からない。もういちど持っている物を調べたが、利き手にある黒い煤付きのアザと同じ物しか見当たらない。
「気味が悪いけど、これで命が助かったと思うならば安い。雷打たれて生きてること自体がまず奇跡だからなぁ。…その前にココ本当に何処なのよ。それが知りたいわ」
突っ立っている訳にもいかず、一歩を踏み出して人がいる所を探す事にした。薄暗い森、日の光が射しこんでこない中、不安のまま足を動かす。
山の斜面を下へと向かって歩き出し、人の通った道を探せば何とかなるかもしれない、そう考えたからだ。
もしも、雷のショックで山に自分が夢遊病の如く入り込んだなら、きっと山道を通ってきたはずだ。無意識だって歩きづらいところを除けるくらいして動いていたと思う。ズボンとかは破れてないし。
ざく、ざくと滑らないように足を置いて歩けば、回りの木々はブナや、コナラといった木に近いものと併せて杉や檜のような大きな木が生えている。なんとなく見覚えがありそうだが、歩いてきた記憶がない以上どうとも言えない。下っていく途中には杉の馬鹿でかい幹が幾つも集まっている場所もあった。足元の小さな茂みを作る植物も八手やらカラタチの様だ。
滑りそうになりながら張り出した小枝に掴まり、何度も見回す。見覚えのない登山道さえない山の斜面、本当に山奥に入り込んでしまっていると言う事だろう。
「大学近くにある山だとしても奥まで見たことないからなぁ。……だとしたら夢遊病で遭難? 笑えないし。まさか置き去りは……ないな」
全くもって笑えない話だ。病院にでも行って脳や神経に疾患がないか診てもらうべきだろう。
そうこうしている内に緩やかに流れている沢にたどり着いたが、動物やらなにやらの気配はあるが、肝心の看板やハイキングロードの案内板は見あたらない。手つかずのままの苔むした岩と冷たそうな水の流れがしぶきを上げて流れていた。
「どこまで山の奥に入っちゃったのよ自分、え、本気で野宿考えないといけないのかしら」
歩いて(?)きたのならば山だって大きく無いだろうし、あの大学から近くの山ならば、もう人気があっていいはずだ。
目に見えている沢の先はまた斜面が有り、似たような茂みと木々が茂っている。春香が仮にこの山で野宿をしようとしても、薪をするにはライターが無い。十徳ナイフはあっても、火付け機能を試したことが無い自分にまともに使いこなせると思えなかった。
「……あーもう、言いたくないし考えたくないけど、遭難して、命の危機? とか」
自分自身が笑える冗談でもない事を言っていた。
降りてきた道は何処にも山道がない、人がいない、そして町の明りも見えない。
呟いても誰も応えない。沢づたいに、少しだけ自分の声が響くだけ。それでも、何かをしゃべらずにいられない。
「うん、うん、しゃーない。だから、まだ」
まだ気力はあるけれど、山に夜がやってきたらそうも言っていられないだろう。時間の確認は出来ないが、上を見上げても樹が邪魔をして空が見えない。
もっと暗くなってきたら動くことも出来なくなり、日が出るまでは動けなくなる。
何もならない自分へのかけ声を発しつつ、沢伝いで水の流れをたどって行こうとした、その時だった。
(いぃぃぃいいいいん。アァァァ? キヒィイイイイイエェェ? )
耳鳴りのような音が自分の頭に響いて、思わずうずくまる。頭蓋骨の中で反響するような軋り音は金属を引っ掻くような、マイクの反響がたわむような音だった。
耳を塞ぐようにして声を振り払いたかったが、痛いし目の前がゆがんで声から逃れられない。
いや、音として聞こえているかも怪しい。頭の中で音叉を叩かれた不協和音の波が振動し続けて、たまらずに濡れた落ち葉の上に膝をついていた。
「いたっ。痛い!!五月蝿い! うるさい! 」
春香が思わず声にそう怒鳴ると、頭の反響と痛みが、波が引くように消えていく。なんだったんだと、きつく閉ざしていた目を開ければ、自分の影から何かがこちらを見ていた。
「…………」
なんだコレは。
足下から、影が見ていた。正しく言えば黄色の、光る目玉がこちらを向いている。キョロリと一回転した瞳は、春香に臆するでもなく、さらにこちらを見続けていた。
思わず膝をついた状態で数歩後ずさると目玉もその後を追う様に春香の影の上をすべっていく。凹凸のある地面を音もなく動く時点でおかしい、土の中からこんにちはというモグラのような生物でもない。
何と例えたものか、影からではなく地面から目がギョロリと生えるなら分かる。土の下にいる生物と断定出来るから。けれども、影の上にいる生物ってなんだ? 足音一つ立てないで目玉だけでこの大きさでは図体もでかそうだ。でも、そんな生き物は聞いたことも見たこともなかった。強いて言うなら、それは妖怪が描かれた絵巻にありそうな存在だろう。
「よ、妖怪? いや、そんなまさか」
じっと見ている目玉は、妖怪と言う言葉にグリりと視線を強める。
意味が、分からない。そんな変な物に話しかけるのもどうかと思うが、頭で思考があふれて、春香は尋ねるようにその目玉に声をかけてみていた。
「お前が、私の頭へ何かした奴? 返事はまばたき一回で「はい」
二回で「いいえ」これで答えて」
人間じゃないモノに、まして正体も分からない物へ普通だったら尋ねない。けれど、なんとなく、この生物を春香は知っている様な気がした。
はたして、その目は少し間を置いてから影から消え、浮かび上がった。どうやら間違いはないようだ。意思疎通できるか分からないけれど聴いてみてよかった。
「うん、なるほど知性のある妖怪かぁ。って、どうしてこれに話しかけたんだ自分は」
ひとさし指くらいはありそうな大きな目、トカゲより、ワニや蛇に近い。
その目玉に話しかけている変人が、いまの自分かと考えついて改めて軽く落ち込む。SF物語だったら未知との遭遇で喜ぶかもしれないが、目玉だけの生き物と遭遇して若干気持ちが上向いた事実に切なくもなった。そりゃ、意思疎通できる相手が見つかれば嬉しいかもしれないが、コレは人でないし、目玉だ。
『そう考えるのは、もっともかと思われます。御主』
「ぎゃっ! しゃべった?! え、しゃべった!」
今度こそ、私は声をあげて驚いた。ギョロリ目玉が自分の声にはっきりと回答したのだ。
『しゃべりますし、聞こえております。ずっとお側に在りました。貴方の影に』
「……待って、待ってちょうだい。え、なに? いつの間に居たの。謎すぎて怖い、というか影の中にいるとか和製ホラー? 」
ぎょろ目玉の新事実、衝撃的なことに私はこんな不気味物体を自分の影の中にいれていたらしい。そも只の影だったら入れるわけ無いのに何を言っているんだろう。
言葉を話してくる妖怪だと思ったら影に入ってくる怪異の一種かと、頭の中で混沌とした状態はブブゼラが吹き荒れる競技場のようだった。
「え、いつから? 本当にいつからいたの? この山の中に来る前だとしたらお祓い行かなきゃ。ヤバイ、心霊怪奇現象初めてで理解したくないんだけど」
『そこいらを漂うような雑霊の類いと一緒にされるのは不満がございます。何より私はその様な有象無象ではございません。
少々、お話しするのに手間をとってしまったのは謝罪いたしますが』
「……だめだ、話が見えない。深呼吸しても落ち着くの少し掛かるから、とりあえず座っても?」
『どうぞ、声を作るのもこうして契約者と話をするのも久方ぶりになりますので』
沢の近く腰の高さほどの岩石に腰掛け、影を踏まないように目線を戻す。やっぱり黄色い目玉はそこにある。本当に私は、一度死んだか何かして狂ったのかもしれない。さもなければ脳障害を起こしているに違いない。
こんな森の中で頭がおかしくなって誰が見とがめるだろう? ごっちゃごちゃにまるめた思考は一回脳の収容棚にそのまま押し込んで、春香は目玉と会話らしい何かをしようとした。
「……まぁ、置いとこう。多すぎて分からないから、自己紹介から。その、目玉さんはなんていう名前でしょうか」
『御主、我が名は黒の中の一身、黒刃~~~之――乃――と申します。お見知りおきを』
改めて、彼、いや性別不明なのでどちらとも取れないギョロ目はとても長々しい名前を名乗った。声だけ聞けば男?いや、雄か。かしこまりすぎだと言うほどに馬鹿丁寧な口調で言われたそれは、日本神話あたりに出てきそうな音律だけ春香に聞き取ることが出来た。
本当に長い名前でこく~~~の~~~というかろうじて、「こく」と「の」単語が聞き取れただけだったのだ。
「えー、改めて畏まってありがとうございます。どう呼べば良い? それともフルネームで呼ばないといけない?」
『御主がそう思われるのはもっともですな。
ですが、お好きにお呼びください。名は聞き取れるようにいずれ成ります』
「いや、申し訳ない。だったら黒い色とお名前を交えて、黒之と呼んでもいいですか? そして、なんでそんなにへりくだったり畏まるのでしょう? 別にタメ口きいても構わないし、そこまで持ち上げられると気持ち悪いといいますか……」
『…………仕え甲斐がありますな。御主でございます故と言っておきましょうか。お名前はご随意に』
その声は頭の中に染み入るように聞こえてきて、ジンジンと自分の中を揺さぶってくるようだった。声が耳からじゃなく、脳を震わせるようなそんな感触。隣を流れる沢の音よりもはっきりと声が聞こえてきて、むずがゆくなる。春香はそれを気取られまいとするように、目線を逸らさずにその目玉の声に答えた。
「その、ね、どういったらいいかわからないけど。
まず、私がおんあるじ? ああ、ご主人様らしいのは分かりました。
で、色々説明無しで何か話が進んでいて頭が大混乱しておりまして。何がなんだか分からないわけですが、黒之は何か知っているんですか」
『? 情報が無い? ふむ』
振動のような声は少しだけマシになったけれど、頭の痛みは先ほどとあまり変わらない。まず、アレが黒之の声であったとしても、それ以外に疑問点が多過ぎて整理がつかない。
なぜ、私はこの目玉の主になったか。そも、影に何時から、何故、潜んでいたか? ついでにいわせてもらえば、此処どこなのだ。
怪しむ顔に黄色の目玉は、小さく『失礼』とだけ言って影に波紋を作った。
と、波紋を作った平面である影から、何かの鼻先がするすると抜きでてくる。尖った先端から大きな鰐口、金色の目玉はピタリと頭部に収まっている。追随して影の水面を揺らし音も無く出てくるのはその身体。蛇にしては胴が短い。途中で脚がついている蛇など見たことはない。凹凸のある体表には鱗がしっかりとついていた。
ついで、頭にはリッパな三本角が生えており、黒々とした翼が緩やかに羽ばたいた。鱗がみえないからなにより竜みたいだが竜だろうか。なんとも不可思議な存在が春香の目の前で伸び上がっていた。
影の中から出ても黒を主張するこの目玉は、そのすらりとした全身を顕わした。
それは、疑問に上げていたままの東洋竜で間違いない形をしている。違いは大きな皮膜の張った翼がある事だろう。
『御主、貴方の疑問にお答えいたしましょう。そのまえに幾つかの質問で、答える事ができることだけお答え願いたい』
爬虫類によく似ている頭部の黄色い、金目の竜もどきは眼前にその顔をもってくると春香の瞳の奥を覗き込むように尋ねてきた。どういう原理でもって浮いているのかが、すこぶる不思議な状態で。
「私が理解できる範疇の質問なら。回答できなかったらそれは其れで後から説明してくれればいいです」
『分かりました。では一つ。貴方のお名前を伺いたい』
最初の質問に、ああ、と頷いた。自分の名前も知らないのは当然だろう。構えていた分少し力が抜けたが、こういった質問ならと春香は警戒を緩めた。黒之はじっとこっちを見つめて答えを待っている。
「私は逸島春香。当年二十二歳、普通の女」
『イツシマハルカ様、貴方の御名ですね。確かに頂きました』
「それほどかしこまらなくてもいいですってば。その口調が良いなら構わないようにしますけれど」
『そう言っていただけますとありがたい限りです。二つ、私以外の誰かと会った、あるいは何かしらと会話をもたれましたか?』
「……待った、人じゃないモノ含みで今聞かれたけど、私は貴方以外と話していたら都合が悪かったということ?」
『疑問で返されても困ります。ああ、人ならずのモノは含んではおりますが、都合が悪いからではなくて貴方が何かしら他に知っている事はないかを確認いたしました』
黒之の言い方からすれば、春香と何かが会っていなければおかしいように聞こえる。けれど、実際山中に居た以外で人間には会ってないし、なんらかの知性体にも会ってはいなかった。
「会っていないこと自体がおかしい口調よねそれは?」
『いいえ、決してそうではないので』
「モノを挟むような言い方だけど、其処は知っておいた方が良いこと? むしろ知っていないとおかしい? 」
『…………でしたら、此方の事からお話しした方が良いと思われます。まず、此方が御主様の世ではない事はご理解できますか?』
首を振って否を唱えたいところだが、それは出来なかった。黒之の存在は見たことがないだけで、ホラーの案件だったら存在しているかもしれない。
「貴方が言っている事はつまり、こちらが別の世界ということね。死者の国? 臨死体験してるっていうならもっと納得するけど」
『死の国ではありません。岩苔の伏国など行ったこともない。異界からこちらの日都の本に渡ったということです』
「ヒツノモト、そう、こちら側の世界は日都の本っていうのか。それで以て私の居るところが異界と」
浮いたままの竜はこっくりと頷いた。それはそうだろう、こちら側視点では確かに私の世界は異界に違いない。理解を確認した黒之は春香が今どういう所にきているのかという説明を、さらに続けていく。
『この世界は天土の狭間、術力の流転によって成り立っております。』
「術力って、魔法? ってこと、魔法かー」
『魔の力を借りる術法でしょうか? ございますが、術力は魔に力を借りるモノではありませぬ』
魔の力というのから聞くに中二病クサイが、魔法と術力は考えているものと違うようである。大まかな話によれば、魔法のような事柄がここでは生活に使用される程度には使われている事だと言う説明だ。
ライトノベルのような説明に突っ込みたい気持ちを抑えて次の話しを聞く。
『次に、こちらへどうしていらっしゃったか。御主は、来た時は既に山中に突然現れました。常ならぬ事ですので、そういうしかございません』
「あー、夢遊病でも何でも無く召喚されたからこっちにきたと。
普通じゃない? ならもっと違う形で来ていたと? もしくは私をこの世界に引っ張る何かと会っている筈だって取れそうだけど」
そうだとすれば、なんでこんな世界に来なければならなかったのかの理由を説明して貰うのだって楽だったろうに。あとは、こちら側の世界に手違いで呼ばれたのなり、呼ばれたとしても帰るだけだ。
少し冷えるこんな山の中を歩き回る必要も無かったはずだ。
『その通りです。本来でしたらこう言った国境のほうに降り立つことはございません。方陣なり、坊主なりの喚び主がいる場に現れる筈が、なにがあったのやら』
「そこは黒之にも不明ということか。坊主、んー、仏教徒がありき??
幸い山歩きに慣れているからそこまで怪我とかもせずにここまで歩いてきたけど、召喚したのがその人ならば、そこまで行く必要があるか」
『御主様、そのものを探して如何にしますか? 既に大分時間も経っておりますから、其処に居るとは思えませんが』
「あー、そうか、1~2時間は歩いているし其処にとどまっている理由もないとか?」
それに対して、黒之は『三刻』と、短く言い放った。
「は? え、まって。三刻?
ちなみに三刻ってこちらの時間単位だったらお日様どれくらいの傾き?」
『中天に掛かっていた日が地平に落ちるくらいの傾きです』
春香は耳を疑った。あれから6時間も経っているだと。いや、それにしては周りは森が薄暗いほどだし、夜になっているような明暗でもない。笑いを取ろうとするなら底が浅い。
「……冗談よね。いや、時計とか無いからわからないけどさ。あの広場から歩いてきていても掛かって一刻くらいだと思うけど」
『……一刻まるまる、御主様は気を失っておられました故、私があの場に立たせて身を繕ろわせて頂きました』
「更に待った。身を繕うって何したの具体的に」
二時間丸々気を失っていたうら若き乙女に何をしたんだこの竜は。服はそんなに破れていなかったし、自分の身体の怪我は大きくはなかったはずだ。
『身を此方の世に馴染むように、少しでも負担のない身体にお直しいたしたという意味になりますが』
苦虫を潰したような顔をした春香は、思わず自分の太ももを思いっきり叩いた。まぁ、まだそんなに慌てなくても良い。怪我を治してくれただけかもしれない。
話を続けさせた黒之の言う事には、あの山で立ったまま気を失う状態でこちらにきた自分は、山の斜面から倒れて転がっていきそうになっていたそうだ。意識を戻すには時間がかかり、寝かすわけにもいかない。仕方なく影からずっと立たせたままにしておいた。と
優しいのかそれとも間が抜けているのかわからない回答で、春香にしても何とも言えない顔をするしかなかった。
「でも、待った。立たせておいてくれただけで、あとは怪我したのを治してくれたと言う事よね?」
『大きく割けた傷はございませんでした』
「負担の無いように、私を、立たせて、直れの、状態にしてくれただけでしょう!」
『いいえ。違います。御主様の肉体をこちらのただ人のままにはさせておけませんので、術力を使用するに耐えうる器を整えさせていただきました』
「え、それって人体改造?? なんで!!」
『必要ですから』
「承諾もしてないし許可もしてない!」
『此方に来た故ですので』
その数時間の間にこの竜がよけいな事をしてくれた事実はどうあっても打ち消せなかった。
「その数時間の間で、私もこちらの世界の住人みたいに体の構造というか、魔法のつかえるように器を整えた?
事後承諾で納得してくれると思ってやったのとか冗談でしょう?? 」
『いいえ、我を使う御主である以上は、術力の十や二十使えねば戦で役に立ちますまい。なに、そもそも御主様の血は術力を使いこなす器としての血統に大変優れておりました。すこし、器への経路を開いただけで我と繋がれるほどには力がございますし』
思わずそう嬉々として語り出した黒之の頭を殴りつけたのは不可抗力、いや正当な権利だったと思う。そのまま沢の大岩に頭をぶつけてくれれば良かったが、春香の目の前でぐにょんと身体を曲げると首を振って痛そうに此方に顔をむけた
言外に、「悪いコトしてないのに」という風に見えるのがなお、腹が立つ。殴った感触は思っていたのと違ってすこし硬かったけれども春香の怒りはとどまらない。
「冗談じゃない、何でそんな余計なことをしてくれているの? 術力だなんだとか、異世界とかっていうのは高校時代に卒業しているし、戦とか」
『しかしながら』
「現実世界に持ち込んでくるなんてありえないわよ、あとおんあるじっていうのやめてくれない。貴方の主になったつもりはないわ」
思いっきり殴ったのにそれほど痛くはなさそうなのが余計にムカつく。そも、一般人に戦だのなんだのと、無縁なことを押しつけてくること事態がおかしいのだとこの黒でかい蛇はわかっていないのだと思う。竜って格好はいいと思っていたけど、こいつは竜未満だ。
大学生活を平和に過ごしていた自分からすれば、異世界転移なんて正直願い下げである。
『おんあるじと呼ぶな、と? ……では御主様、しかしながら貴方がいるのはでは貴方の世界ではないことは理解していらっしゃるではないですか。ならば』
「言い方変えろってことじゃないわ!
お前みたいなのが私の世界にいてたまるものですか。オカルトもSFもあっても、影からこんにちは、するのは現実に存在しない。そのうえ上しゃべる大蛇は映像の中」
『フシュウウウウ』
春香の『大蛇』、その一言に大きく呼気が沢に響く。
どこかに止まっていた小動物達の逃げ去る音や、鳥の悲鳴のような声と羽ばたき。一気に生々しくなる荒々しい獣の音は、黒之から発された威嚇音だった。
「な、なによ」
『おい、主、いっておくが蛇などと言う下等な長虫と私を一緒にするな。アレと私とでは姿は似通っているように見えれど、生まれがまるで違う。
例えられるのも不愉快だ』
春香の身体を締め上げるような低く這うような声音。同時に大きく威嚇で広げた黒之の翼先から三本の鉤爪の先を槍のように尖る。竜体は岩の背後から春香の周りを一巻き、睨めつけるような瞳孔は少し開いて怒気と何かが混ざった意志が色づいている。おもわず、身じろぎをして岩から腰が浮くと、空いている空間をその黒い束縛が寄せていく。
ごくりと、喉が鳴り、我知らず春香の身体は震えた。
と、そのおびえを感じたのをとったように、黒之の爪が降りた。
こちらが地雷を踏んだらしいので、両手を黒之にむけてなだめるように中で止めて、春香はこう言った。
「わかった、わかった。悪かったわよ。見た目の差別はしないつもりだったのに怒って言い過ぎたもう、蛇って言わないから。
でも、だとしても、私だって勝手に自分の身体を変えたのは許したくはない」
春香はいきり立つ黒之に冷静を装って、応えた。突きつけられた爪に怒りが溶けたわけではない、もしもこの世界で死んだのなら? そんな疑問が春香の怒りを抑えた。
異世界かどうかの確証もなかったし、実の所を言えば、クロノという蛇竜も作り物では? とおもっていたのだ。けれど、間近まで寄せられたまなざし、直に耳に響かぬ声、今もたらされた死に近い恐怖。
これが現実だと信じ込まされているのかもしれない。でも、と、春香は思う。【もしもこのふざけた異世界という設定の話を拒絶しきってしまったら】もっと悲惨なことになる。いまは、そんな気がした。
春香が怯え、余計に話を聞かないのでは、とでも黒之は思ったのかもしれない。翼の先爪を丸め元の位置まで畳めると、羽の飾りに変えて、やや低い声で説明を続けた。
『許す許さぬではありませぬ。あなたは私と契を結んだ。結んだ以上、狙われる。
狙われる以上、戦に出向かねばならなくなる。戦に出向かねばならなければ、術力がなければ話にならない』
「だから待って欲しいのはそこなよ」
『なにがなのです? 』
そこでどうして、黒之が疑問符をだしてくるのか分からない。契約なんてした覚えが無いのだから、さも当然のように私に従っている理由があるわけがない。
「なんで契約結んだことになっているのよ? 記憶違いじゃないなら私はこっちの世界にきて、貴方が言うには気を失っている。それ以前に契約を結んだのなんのって儀式的なことはした覚えがないわよ」
説明を加えた春香に盛大なため息を黒之はついた。意味が分からなかったが、先ほどまでの威圧のある執事といった風情から、若干哀れみが加わったようにみえる。
そんな顔されたってそりゃ事実だ、私は魔王と戦う英雄にはなれない。だから、契約する道理がないのだ。
『本当になにも知らないで……か、まぁ実質貴方をこちらに呼んだ奴も手違いにすぎるかもしれ、んな。良いだろう。此方の口調にが我も話し安いゆえ変えるぞ』
「そっちが素の話し方ね。別に構わないわ」
背後を取り巻いていた黒い蛇体がぐるりと黒之の周りに引き寄せられていく。中空で器用に絡まり合うその身体を、大きな皮膜のついた翼がばさりと振られ、それをとどめた。
『この世界に呼び出される条件はあまたあるが、我と契約して呼び出される条件は絞られる。この世界で戦が起こる際、国家間同士の争いに必要とされる国の身柱となる時。
すなわち荒神と契約して戦に参戦する場合だ』
「…………つまり、代理戦争させられているって言う事なの? 私は一つの国を守る為の代表として」
『話が早くて助かる。いままで見てきた中では理解力の高い方で我としては鼻の高い事よ』
戦争への参戦が決定している契約への理解が早いことを褒められても嬉しくはない。おまけに、みはしらという単語を聞いて、さらに良からぬ想像が春香を不安へかき立てる。
「その理解力が高い話は、褒め言葉なのかしら? 喜ぶべきかどうか凄く悩むけど。
あとは、私の世界と言葉の齟齬があるから確認しても?」
『かまわんが』
「みはしら、って、まさか生け贄って意味じゃ無いわよね?」
『本当に理解が早く助かる。そうだ、すなわち戦を身命をとして戦う事こそ主が呼び出された理由なのだから』
「は? 」
不安は的中した。代理戦争の生け贄戦闘道具。それが自分の立ち位置とは、笑えも、泣きもできやしない。