草の精
ある草原に女が一人いました。
女はいつも腹ばいに草原に寝ころんで、草の肌触りを楽しんでいます。さらさらと指を撫でる優しい草の感触が大好きなのです。
たまに旅人が通りかかりますが、誰も声をかけません。女はいつもそこにいますが、通りかかる人々は誰もがそこに女がいないかのように振る舞います。
女もそんな旅人など気にせず、草をずっと撫でています。
ある日、僧形の男が一人通りかかり、女に気づき声をかけました。
「どうしました。何かありますか?」
「なんでもありません。なんでもありますよ」
女は笑ってそう答えるのです。
男は興味をひかれた様子で、草をそっと踏みしめて女のそばまでやってきました。
女は質素な着物を一枚着て、肩から一枚布をかけているだけの姿でした。履き物ははいておらず、白い素足がむき出しになっています。
「寒くはありませんか」
「少し寒いです」
女は相変わらず笑って答えます。
男は女のそばにそっと座り、もっていた杖を草の上に置きました。
「どこに住んでいるのです?」
「ここに住んでいます」
女は満足そうな顔で、さらさらとした草の上に顔を埋めました。
男は顔を巡らせました。見渡す限り柔らかそうな短い草が生えているだけで、小屋らしいものはありません。
「野宿をしているのですか?」
「野宿ではありません。草たちが私の家です」
男は少し首を傾げました。女は少し頭がいけなくなってしまっているのだろうか。
それは哀れな。男の表情が少し変わりました。
「近くの宿まで一緒に行きましょう」
「いいえ、わたしはここにいます」
「誰か知っている人はいますか?」
「誰もいません。誰もわたしにかまわないのです」
女はいたずらっぽく目を細めて男を見つめました。
「あなたは別ですね」
男はハッとした様子で、息をのみました。困惑したように、恥ずかしがっているようにもじもじと肩を動かします。
女は小さな笑い声をあげて、両手を広げて草の上を転がりました。その無邪気さはまるで少女のように見えました。
女の心地良さげな様子を見て、男も草にそっと手を触れてみました。草は柔らかく、すべすべとしていてとても心地よい感触です。
男は草を指で撫でているうちにたまらなくなって、女と同じように草に寝ころんでしまいました。質素な修行着を脱ぎ捨て、草履も脱ぎ捨て、着物一枚で草の感触を楽しむように何度も寝返りをうちました。
すると男はうっとりと表情をゆるめ、目をとろりと眠そうに細めました。指は柔らかい草の間をまさぐっています。
女は腕枕をして、男の様子を楽しげに眺めていました。
その間も旅人が数人通りかかりましたが、やはり女に見向きもしません。もちろん、男にもです。
しかし旅人のうち一人の男が足をとめ、ずかずかと草の中へ入ってきました。
行者の格好をした立派な髭を持った男は寝ころんだ僧形だった男のそばで足をとめ、難しい顔で見下ろしました。
男は行者には気づかない様子で、うっとりと草を撫でています。
「これはいかん」
行者はため息をつくようにつぶやくと、杖をふりあげて男の額をドンと突きました。
「痛い!」
男は鋭い大声を上げて、立ち上がりました。それからハッとした様子であたりを見回し、行者を見上げました。
「私はいったいなにをしていたのでしょうか」
「うむ。草に惑わされていたのだな」
行者は言いました。
「この草原は旅人を惑わし虜にするのだ。虜になった者はずっと草原から出られぬ」
僧形だった男はあわてて脱ぎ散らかした装束や草履を拾い、行者に頭を下げました。
「ありがとうございます。修行中の身とはいえ、こんなにも簡単に惑わしにあうとは、お恥ずかしい限りです」
「うむ。しかしもう目も覚めただろう。草のことは気にせず通り過ぎるのだ」
男は袈裟を身につけ、草鞋を履きました。しかしあの女はどうなったのか。男は少しだけ気になりました。
「いかん」
男の心を見透かしたように、行者が杖で男の肩を押さえました。
「振り返らずにここから立ち去るのだ。よいな」
僧形の男は唇をかみしめて、野道の方へと大股で去っていきました。
女は草に寝転がったまま、一部始終をおもしろそうに眺めていました。
行者は太い足で着た道をざくざくと歩いて戻り、また野道を歩き始めました。
女はそんな行者の背中を眺めて、目を細めて笑っていました。指先はあいかわらず柔らかい草を撫でていました。




