Rhythm
…………………………… …… … …… … ‥ ‥ …
教室には、やわらかく鼈甲色に染まった夕方の春光が、やや斜めの角度から静かに注がれていた。窓の外からは、野球部の練習で金属バットに硬式のボールが当たる時の、一瞬空気の流れが止まるような鋭い音が、一定の間隔で響いてきている。
海斗は、それまで机を抱いていた両腕の中に埋めていた顔を少し上げ、目蓋と右腕による地平線とのわずかな隙間から、教室の中を見回した。教室の中には、海斗一人しかいなかった。それを確かめると、再び顔を両腕に埋める。彼の視界は一筋の光もない闇となった。静かな自分の鼓動だけが、耳の奥で響いていた。
自分が今何をしているか、そしてどうしてこんなことをしているのか(あるいはなぜ何もしていないのか)、海斗にはまったく答えを想像することができなかった。知らない間に宇宙人に連れ去られて、いろいろ実験された挙げ句に記憶を抜き取られて帰されたんだと言われても、今は素直に受け止めることができそうだ。それくらい、記憶の前後、主従といったものが欠落している。
少し前には、いくつかの友人の声が海斗を呼んでいたことを、彼は意図して記憶したと言うよりも、脳に与えられた刺激がどこかに尾ひれを絡ませてぶら下がったままになっているというような感覚で覚えていた。もちろん彼は、その声に返事をすることができなかったが。
そうした声も、しばらくするとぷつりと消えてしまった。今彼は完全に一人だった。
トクン……トクン……トクン……トクン
鼓動はやはり、途切れることなく耳の奥を叩き続けていた。が、そこから海斗が感じ取れることは、決して自分が生存していると言うことだけではなかった。その音律には、何か根本的な、悲壮感、あるいは虚しさのようなものが含まれているように思われた。
彼の鼓動には、一つの象徴的な物語があった。
それは海斗が、まだ小学生の、下から数えて二つ目の学年だった時であった。彼は親からの遺伝もあって、とても大人しい子供であった。何かクラスで話し合いがあると、にこにこしながら黙って他の子のわがままを聞いているような、あるいは給食の時でも、隣の席の子に無理矢理不味い野菜を押しつけられても何も言わずせっせと食べてしまうような、そんな子供だった。
彼はその日まで、とても動物が好きだった。他の子がミニカーや特撮ヒーローの人形でがちゃがちゃと遊んでいる横で、彼はいつも動物図鑑をじっと眺めていた。特にハムスターやウサギといった小動物が好きで、そういった動物を家で飼いたい、と親に頼み込む時が、最も彼の興奮する場面だった。(尤も、その度に彼の両親は、海斗がもっと大きくなったらね、とはぐらかしていたが)
それは、彼の住む町では過去に例を見ないほど雪が積もった、寒い冬の日のことだった。彼は小学校からの帰り道、集団下校の列から一人外れて、雪に埋もれた自分の街を、気の向くままに散策していた。普段はそんな大胆なことは決してしないのだけれど、その日だけは、同じ下校分団の仲間がそれぞれ勝手に脇道へ入っていってしまったことあって、それならば自分も、という勢いで行ってしまったのだ。その時にもまだ、軽い粉雪がひどく間近な雪雲からまき散らされていた。
海斗は、降り積もった雪というものも好きだった。どこが、と問われれば、その動物の毛皮のようにふわふわとした質感や、自分の足をそれとなく、それでいてしっかりと受け止めてくれる、その包容力が。
そのことも、その日の彼を高揚させた一因だった。とにかく彼は、普段の澱をはらすかのように、いつもとは全く別の表情をしている街を観覧していた。
堂路はもちろん、家の屋根、塀の上、駐められた車のボンネット。いたるところに雪は積もり、それらを覆い隠そうとしている。電信柱の電線には、灰色の小さな鳥が何羽も留まって、あたりにカラスがいないかと首を動かしていた。それ以外の動物たちは、すべて土の中に潜ってしまったらしかった。海斗は少しつまらなくなった。
街は完全に近い静謐の中にあった。自分の足音だけが、ザク、ザクと野暮ったい音を立てている。普段は抜け道として街路を利用する車の音がよく聞こえるのだが、そうした音もなく、家々からもテレビの音などが一切もれてこなくて、恐らく積もった雪が生活音を吸収していたのだろうけれど、小学生だった彼には、ややもすれば町中の人々がすべて雪の中に埋まってしまったんじゃないかと錯覚するぐらいだった。
そのような考えを起こしはじめると、彼はだんだん不安になってきた。よもや自分の家や友達の家も、この真っ白な雪に埋まって、押しつぶされているんじゃないかと。そう思うと、いてもたってもいられなくなって、自分の家に帰ろうとした。が、その時になって彼は慄然とした。帰り道が分からないのだ。
ただでさえ雪でいつもと違う視界の中、あまり外で遊ぶことのない海斗の方向感覚は、もうすでに自分がどこにいるのかさえも分からなくなっていた。そのことが分かると、彼は更に恐怖を覚えた。
とたんに熱いものが胸から込み上げてきて、目と鼻から湿った物が溢れてきた。それと同時に、普段彼の性格によって奥の方に押し込められていた言葉たちが、叫びとなって口から飛び出していった。
今となっては、何と叫んでいたのかは分からない。しかしその叫び声さえも、雪の中へ、或いはどこか別の世界へと吸い込まれるかのように、彼の耳には二度と返ってこなかった。その時、世界はとても不安定で、二つに引き裂かれそうであり、海斗はその狭間を一人彷徨っていたのだ。
彼は走った。力の限り走った。そこがどこなのかも気にせず、方向なども無茶苦茶にして、とにかく走った。そうしていれば、自分さえも雪に埋もれてしまうことは回避できると思ったのかも知れない。その中で、雪は無情に彼の足元を埋め尽くし、時には逸る足を捉えて彼を転ばせた。そのたび彼は悪魔の手から身を躱すように飛び上がり、そしてまた走った。
それからどれだけ走ったのか、それすらも分からないまま彼はへとへとになって、四辻に生えた電信柱の陰にへたり込んだ。雪の中に腰が沈み込む感覚は、本当にこのままずんずんと地下へ埋まっていってしまうんじゃないかと彼に思わせた。
顔を見上げると、灰色の雲に覆われた空は、西の方は燃え上がっているかのような真っ赤に、東の方はすべての物を凍てつかせてしまうかのような冷たい黒に染まっていた。彼はその中間にあって、溶けるでもなく、凍るでもなく、ただ取り残されている……
そうして子供ながらに、その心に絶望を兆したその時、海斗の目は、道の向こう側にぽつりと、段ボール箱が放置されているのを見つけた。そしてその中では、一匹の小犬が震えながら小さくなっていたのだ!
そのことを発見すると、彼はすぐさま段ボール箱に歩み寄った。その中にいたのは、柴犬の、本当に小さな子供だった。彼は、過去に図鑑で見た柴犬と、今目の前で凍えている小犬を、恐る恐る見比べた。図鑑に載っていたのは柴犬の大人と子供の一匹ずつであり、その子供の方と、この小犬では、耳の形やしっぽの巻き方などが共通していた。が、目の前の小犬は、図鑑で見たものとは比べものにならないほど小さく、あまりにも弱々しかった。
彼は、この疲労と身をつねる寒さの中で、ようやく一人の伴を見つけたような気分になった。この雪の上に取り残されているのは、自分だけではなかった!
しかし同時に、狂おしいほどの、嫌悪に似た感情、汚らわしさを感じずにはいられなかった。この小犬は、この一つの命は、誰かのほんの些細な、そして無慈悲な身勝手によってこの救いのない世界へと投げ出されたのだ。言いようのない怒りが込み上げてきた。それは同情の対象と同じ立場に立った者だけに与えられる怒りだった。
彼は、小犬をそっと持ち上げて段ボールから出してやり、優しく自分の胸に抱きかかえた。小犬の皮膚は、もう既に冷え切ってしまっていたけれど、その内側に微かに小さな灯火が瞬いているのを、彼は確かに感じ取ることができた。
そのまま小犬の小さな腹を、耳に押し当ててみる。それによって、この小犬の生命がまだ続いていると確かめられることを、彼は本能的に知っていたのだ。
……鼓動は、とても微弱に、いつ途切れてもおかしくないぐらいにか弱く、それでもその音律を、広大な世界に向けて必死で響き渡らせようとしていた。
いけない、この鼓動を途切れさせてはいけない! 使命感が海斗を突き動かした。それは一つの思考として頭の中でまとまったものではなく、ただひたすらに、直感がそう告げていたのだ。
海斗は小犬をしっかりと抱きしめ、それから意を決して立ち上がった。とにかく今は、どこか暖かい場所へいかなくてはならない。できるのなら、自分の家へ。
そう思ってあたりを見回すと、今自分がいる場所に見覚えが出てきた。雪が辺りを埋め尽くしてはいたけれど、それでもそこが、今までに幾度か歩いたことのある道だと言うことに確信を持つことができた。突然自分が冷静になれたことを、彼は不思議に思った。
できる限り記憶をたどって、今いる場所から自分の家までの道のりを具に思い描く。もちろん正確に思い出すことはできない。でも、あるいは分かるところまで行ってみれば、また新たに記憶が蘇って、どんどんと行けるかもしれない。そして彼は歩き出した。
急げ! 急げ! 彼は心の中で何度もそう叫んだ。もうそんなに時間が残されていないと言うことは分かっていた。小犬は彼の腕の中で、既に死んでしまっているんじゃないかというぐらい静かにしていた。ときどき思い出したようにブルッと小さく震えることだけが、生きていることの証だった。その代わりに、彼の耳には、彼自身の鼓動が、彼の早まる鼓動が鳴り響いていた。その音に追い立てられるように急いだ。
案の定、街路は進めば進むほどに、彼の記憶の中に焼き付けられていた景色と重なっていった。今まで白と灰色にしか見えなかった町並みが、急速にその色合いを増していく。あと少しだ、と彼は思った。あと少しで家へ帰ることができる。そうすれば、暖房のきいた部屋の中で、この小犬を暖めてやれる!
その瞬間だった。突然海斗の体に衝撃が走り、彼の視界は真っ暗になった。彼自身、一体何が起こったのか分からなかった。ただ気づいたときには彼の体はうつ伏せになって、押し固められた雪の地面に倒れていた。背中にはむち打ちにされたような痛みが残っていて、右の足首には捻挫をしたときの破裂するかのような鈍痛があった。どうやら、雪に足を取られて、前のめりに転んだようだった。
彼は、背筋がひどく痛むのをこらえて、何とか仰向けの状態になった。そして、自分の腕に小犬が抱かれていたことを思い出し、血の気が退く思いでその体を顔の前に出した。彼は、その鼓動が消えてしまっていないことを懸命に願いながら、小犬の腹を耳に押しつけた。
海斗の耳は、何の音も、振動も聞き取ることはできなかった。そこにあったのはただの、ぽっかりと空いた空洞への入り口でしかなかった。そこから何かが吐き出されるわけでも、吸い込まれるわけでもなく、とても純度の高い闇を、そこに固定しているのだった。
彼の意識は、それが現実だと認識することができないまま、どこか遠くの、全く音のない世界へと飛んでいこうとしていた。
その間に彼の目に映っていたもの、それは、どこまでも真っ黒な雪雲と、そこから舞い降りてくる、濁った雪の粒……
その時の静寂、あるはずの音律がこの世から消え去ってしまったという隔絶感、それは海斗を苦しめ続けた。あの時の感触、凍てついた空気の冷たさは、何日経っても彼の心の奥底、芯の部分に残り続けた。毎夜、それを少しでも和らげるために毛布を何重にも重ねて体に巻き、床に入って枕に顔を押しつける。すると聞こえてくるのだ、あの鼓動が、あの消えかかった、それでも懸命にその存在を響かせ続けていた鼓動が!
その焦燥、その罪悪感は、今となっては時々、雪の降り積もるのを見たり、公園で小犬が駆け回っているのを見かけたりするときにフラッシュバックのように表れて、海斗の額、脇下を湿らす程度となったが、その虚しさ、徒労感といったものは、その時以来彼の世界観の根底を形作る物の一部として、常に彼の目前に提示されていた。
海斗は、自分の腕中の黒い世界で、改めてあの出来事が何を意味していたのかを考えた。孤独に時を刻む自らの鼓動が、そうすることを静かに求めているような気がした。
あの時の記憶を一つ一つ、丁寧に紐解いていく。あの降り積もった雪の白さ、固さ、におい、そしてその雪によって埋まっていた世界、寒さ、凍えるような寒さ、高揚感、心細さ、燃え上がるような空、凍てつくような空、そして闇……
小犬の鼓動を思い出す。まだ消えてはいなかったのだ。しかし、それは消えた。あるいは彼が転んだりしなければ、転んだ瞬間、反射的に腕をぎゅっと締めなければ、その鼓動はまだしばらく途切れることがなかったのかもしれない。
そして同時に、一時は両者同じような境遇におかれながら、ヒトとイヌという立場の違い、当事者にはどうすることもできない差異によって生死が分かれてしまったという事実に、海斗は一種の禍々しさのようなものを覚えた。これは何か、自分たちの計り知れないところで、自分たちがこの世に自我を芽生えさせる以前から決定されていたことなのだろうか?
もしそうなのであれば、そこにはすべての世界の不条理が凝縮されていると思った。そしてまた、恐ろしい想像をすれば、その決定を下したであろう何者かの気まぐれによって、あの時の海斗と小犬の立場は簡単に逆転していたのかもしれないのだ。
だが、小犬は死に、海斗は今、自らの鼓動を聞いている。
ふと、海斗は自分の右肩に、誰かの手のひらが置かれているのを感じて顔を上げた。手のひらが乗っている方に顔を向けると、自分の肩よりだいぶ上の所にぼやけた女の人の顔があるのを見つけた。とっさに稼働させた視覚は、度の合わないメガネを掛けてるみたいにピンぼけしていたけれど、その内に焦点が定まってきて、その顔が担任の浜口であることを知った。
「どうしたの? 教室に一人きりで……あら」
そう言って浜口は、海斗の目から視線を逸らした。不審に思って自分の目の周りを触ってみると、そこには一本ずつ、湿った線があった。
「いえ、ちょっと嫌なことを思い出してたんです。ただ、それだけです」
海斗は、それが本当に言葉として口から発せられているの疑問に思いながら、できるだけ浜口に記憶の中へ立ち入られないようにしようと、語調に孤独な響きを持たせようと努力した。しかし、この年配の女教師は、そのような生徒のテレパシーを、意に介そうとはしなかった。
「そう。でも、今でもその思い出で悩んでるって感じじゃない? お節介かもしれないけど、何かアドバイスできることがあったらするわよ」
先生は、海斗の前席の椅子に腰掛け、体を海斗の方に向けた。その時に床と椅子とがこすれた音が、やかましいノイズのように教室内を響き渡った。本当なら、そんな重大なことじゃない、とか言って突きはなすのだが、今回は、突きはなした後にさっさと教室を後にすると言うようなことはできそうになかった。
「先生は……先生は、自分がそれまでしていた努力や苦労が一瞬で水の泡になって、前よりも悪い状態になってしまったらどうしますか?」
海斗が聞くと、浜口は、ふーむ、と一度唸り声をはき出してから、二、三度海斗の目を見、それから口を開いた。
「私はね、そういうとき、一日だけうんと悔しがって、悲しがって、虚ろになって、それでまた一晩寝たら、またもう一度やり直すなり、新しいことを始めるなりするようにしてるわ」
押しつけるように、浜口はにっこりとした。海斗は直視したわけではなかったけれど、先生がにっこりしているのが分かった。そして、ため息を吐きたい気分になる。ことはそれほど単純じゃないんだよ、先生。
「それが、一つの命に関わることだとしても?」
もう一度海斗が聞くと、浜口は少し驚いたかのように一度大きく目を広げて、それからまた元に戻した。そしてより一層、優しく海斗に微笑んで見せた。
「そうね、確かに自分のミスで、誰かの命を危険にさらしちゃうこともあるかもしれない。もしそれが危険にさらしてしまっただけだとしても、結構長い間は悩むでしょうね。そう、例えば一週間ぐらい? それに、もし仮に最悪の場合になったら、一生悩み続けても足りないかもしれない。自分があの時ああじゃなかったら、こういうことにはならなかったかもしれない……って。
でも、私はもしそう言う立場に立ったとしたら、そういう風に悩むより先に、自分が生きていることについて考えずにはいられないと思うわ。だって、一歩間違えば自分が危険な目にあって相手が助かったり、両方アウトだったりしてた可能性もあったわけなんだから。だから、自分が大丈夫だったのは、その先、大丈夫な状態でしなければならないことがあるからなんだ! って思うのが当然じゃないかしら」
確かに海斗も、あの出来事が起こってから少し経ったときには、そのような考え方を見つけ出して、何かしら自分が生きていることに使命感を感じずにはいられなくなった時期もあった。消えてしまった鼓動を、自らの心の中で鳴らし続けなければならないという、多少自己美化の含まれた使命感。
しかし、彼は知っていた。その使命を自分が十分に達成することができないと知ったとき、そして、その使命を抱き続けることに少しでも懐疑の念を覚えたとき、それまでの苦労はすべて無に帰するということを。また、それを知ってしまった人間は、希望や可能性といった言葉にひどく億劫になってしまうということを。
「そうですね。ちょっと元気が湧いてきたような気がします」
海斗は、早くこの女教師を遠ざけるために、無理矢理心にもないことを言って、口元を緩ませてみせた。あまり慣れている動作ではなくて、彼自身強張った微笑みになっているのだろうとは分かったが、そのこわばり方は、不器用な少年の精一杯のリアクションとして浜口の目に映った。
「そう? それならよかったわ。それでこそ教師のやりがいがあるってものね。そう。くよくよ悩んでちゃだめよ、時間は限られてるんだから。悩んで一日過ごすよりも、笑って一日過ごす方が得る物は多いはずよ」
そこまで言うと、浜口は再びガタンという音を立てて椅子から立ち上がり、海斗の肩にその些か皺の寄った平べったい手のひらを重ねて、海斗に向かってまたにっこりとした。海斗はその笑顔を受け止めるでもなく、払い飛ばすでもなく空中に放置した。
「それじゃあ、わたしは戻るわね。あなたもそろそろ帰りなさい。部活ないんでしょう? 帰ったらしっかり今日の授業の復習するのよ。それじゃあね」
浜口は海斗に向かって小さく手を振りながら教室を出、後ろ手に戸を閉めてから早足で廊下を奥の方に進んでいった。
浜口が去ってしまうと、また海斗は一人になった。浜口の笑顔はまだ彼の頭上に漂っていたが、それはすでにそれだけのことだった。大きく息をして吸い込まないように気をつけるだけでいい。
一人になってしまうと、海斗はもう一度腕の中に顔を埋めた。
最早そこには、あの日の冷たさも興奮も、一欠片も残ってはいなかった。ただ闇があるだけだ。その中に、どこまでも自分のものでしかない鼓動が響いている。
一体何が求められていると言うんだろう? 僕が一体何をした? 何をしなかった?
答えはなかった。そこには、いや、ここには何もないのだ。そう、何も。
教室には、やわらかく鼈甲色に染まった夕方の春光が、やや斜めの角度から静かに注がれていた。窓の外からは、野球部の練習で金属バットに硬式のボールが当たる時の、一瞬空気の流れが止まるような鋭い音が、一定の間隔で響いてきている。
僕の鼓動は、どこへ響いているんだろう…………………………… …… … …… … ‥ ‥ …