【短編】誇り高き大妖怪が、未知の快感に堕ちるまで。~奈落の底、昏き契約の儀~
日の光など、とうの昔に忘れた。
ここは戦国迷宮の最下層――『奈落』。
紫がかった濃密な瘴気が霧のように立ち込め、呼吸をするだけで肺が焼けるような痛みを伴う死地である。転がっているのは、名もなき武免たちの白骨か、あるいは地上ならば一騎当千と謳われるであろう大魔物たちの腐乱死体のみ。
そんな絶望の底で、若き陰陽師である九条は、血溜まりの中で息も絶え絶えに伏す巨大な影を見下ろしていた。
九つの尾を持つ、白銀の妖狐。
かつて地上で数多の戦国武将を震え上がらせ、一国を滅ぼしたとすら語り継がれる伝説の大妖怪――玉藻である。
だが、今の彼女にその威厳はない。迷宮の最奥に君臨する『主』との死闘の末に敗れ、無残な姿を晒していた。美しかった純白の毛並みは赤黒い血と泥に塗れ、九つあった尾の半数は千切れかけている。その生命力は、風前の灯火のように今まさに消え失せようとしていた。
「……何を見ている、人間」
九条の足音に気づいた玉藻は、人の姿――白装束を纏った絶世の美女の姿へと変じた。
血を吐きながら、刀のように鋭い視線で九条を睨みつける。その黄金の瞳には、死を目前にしてなお、人間に対する強烈な侮蔑と、大妖怪としての誇り高さが宿っていた。
「助けてやろうかと言っているんだ、玉藻。お前ほどの怪異が、こんな泥水の中で朽ちるのは惜しい」
「ふん……。笑わせるな。我を従魔にでもするつもりか? 下賎な術師めが。この瘴気の中では、我が傷が癒えるよりも先に、貴様の脆弱な霊力が底を尽きるわ。さっさと失せろ。人間の情けなど、受けるくらいなら舌を噛み切る」
「俺単独の術ならばな。だが、お前の『内側』から直接繋がれば話は別だ」
九条は玉藻の傍らに膝をつく。
玉藻の言う通り、外側からの治癒術などこの濃密な瘴気の中では霧散してしまう。彼女を救い、共にこの奈落を脱出する手段はただ一つ。陰陽術の秘奥たる『霊力譲渡』――術師の生命力そのものを、直接対象の経絡の奥深くへと注ぎ込む、禁呪に近い儀式のみ。
「契約しろ。そうすれば、俺の霊力でお前の枯渇した魔力回路を強制的に再起動してやる」
「……痴れ者が。誇り高き我の経絡に、人間の穢れた気を流し込むなど――」
反抗の言葉は、急激な発作によって遮られた。
玉藻の華奢な体がビクンと跳ね、激しく血を吐き出す。限界だった。迷宮の主が放った呪毒が、彼女の臓腑を完全に蝕み始めている。
九条は無言で玉藻の身体を抱き起し、己の胸へと引き寄せる。
「なっ……気安く触れるな……っ! 離せ……っ!」
「動くな。今から『管』を繋ぐ。――お前の冷え切った身体には、少し刺激が強すぎるかもしれないが、耐えろよ」
抵抗する力も残っていない玉藻の背中に、九条の右手が添えられる。
薄い白装束越しに伝わる彼女の体温は、氷のように冷たい。九条はゆっくりと深呼吸をし、己の丹田から陰陽の気を練り上げた。極限まで濃縮され、熱を持った霊力を指先に集める。
目指すは、背骨に沿って存在する三十六の主要な経絡。その中でも最も霊気が集中し、魔力回路のハブとなる、うなじの下――『大椎』のツボ。
「――ッ!!」
九条の指が装束を押し退けて直接肌に触れ、そこから、灼熱の霊力を楔のように打ち込んだ瞬間。
玉藻の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
それは、傷の痛みではなかった。
枯渇しきってひび割れた彼女の魔力回路に、九条の濃密な霊力が、まるで鉄砲水のような奔流となって流れ込んでくる感覚。冷え切った身体の奥底から、信じられないほどの熱が爆発的に広がり、全身の神経を焼き焦がすように駆け巡る。
「あ……がっ、あ……ぁッ! な、なんだこれは……っ!?」
「暴れるな。まだ入り口の扉を開けただけだ。これから全身の回路を隅々まで繋ぎ直す」
九条の指が、大椎から背骨をなぞるように、ゆっくりと、しかし確かな圧を伴って下へ滑っていく。
霊力が直接神経に触れ、注がれるたび、玉藻の透き通るような白い肌が急速に桜色へと上気し、びっしょりと甘い汗が滲んでいく。人間の気など絶対に受け入れまいとする強固な精神の壁とは裏腹に、極限の飢餓状態にあった肉体は、九条の霊力を『極上の甘露』として貪欲に吸収し始めていた。
「や、やめ……っ、それ以上は……頭が、狂って、しまう……っ!」
「力を抜け。無駄な反発をすればするほど、感覚は鋭敏になるぞ。お前自身の魔力が、俺の気を求めているのが分からないのか」
九条は容赦なく、第二の経絡――肩甲骨の間にある『霊台』へと指を沈め、さらに深く、太い霊力の楔をねじ込む。
「ひぃんッ!?」
かつて地上の覇者たる大妖怪から漏れたとは到底思えない、甘く、あられもない嬌声が、死寂の瘴気の底に響き渡った。
自分でも信じられないような声を出してしまったことに驚愕し、玉藻は顔を真っ赤に染める。だが、背中を反らせ、九条の胸に顔を押し付けることしかできない。その黄金の瞳からは、痛みのせいではない、純粋な生理的快楽による涙がポロポロと溢れ出している。
彼女にとって、下等生物と見下していた人間の霊力を直接体内に流し込まれるなどという行為は、自身の精神と肉体の深淵を土足で蹂躙されるに等しい、死以上の屈辱だった。
しかし――それ以上に、圧倒的で暴力的すらある『未知の快感』が彼女の理性を容赦なくすり潰していく。
九条の熱い霊力が、自身の血液や体液と混ざり合い、細胞の隅々、指先から足の爪先に至るまでを満たしていく感覚。それは、どんなに強い敵を屠った時の高揚感にも、どんな美酒にも勝る、脳髄を直接撫で回されるような強烈な多幸感だった。呪毒による激痛はすでに消え去り、代わりに、全身の骨が溶けてしまいそうなほどの甘い痺れが支配している。
「あっ、あぁ……熱い、熱いのに……もっと、奥まで……っ」
玉藻の震える指が、無意識の内に九条の背中に回され、その道着をきつく握りしめる。
先程まで激しく拒絶していたはずの細い腕が、今は少しでも多くの霊力を求めて、自分から九条の身体を強く抱き寄せていた。もはや誇りも何もかもが、この甘美な奔流の前に押し流されている。
「いい子だ。その調子で、お前の隅々まで俺の気で満たしてやる」
九条の低く落ち着いた囁きが耳元を掠めるたび、玉藻の身体が敏感に反応し、ビクビクと跳ねる。
心臓の鼓動が重なり合い、互いの体温が完全に溶け合う。九条の静かな呼吸のペースに合わせて、玉藻の霊力回路がドクドクと脈打ち、彼女の身体を真新しいものへと作り替えていく。
「あぁっ、そこ……っ、そこはダメ……っ! あ、ああっ! 壊れるっ、わたしが、壊れてしまうっ!」
腰の裏、魔力の源泉である『命門』のツボに九条の指が深く触れ、最後にして最大の霊力が、うねりを上げて注ぎ込まれた瞬間。
玉藻は狂ったように首を振り、美しい唇から甘い涎を垂らしながら、九条の腕の中で激しく痙攣した。
視界が真っ白に染まり、自我の境界線が完全に融解していくような、圧倒的な『充満』の絶頂。彼女の九つの尾が、制御を失って九条の身体に絡みつき、そのまま意識を手放した。
――しばらくの後。
致命的だった傷は跡形もなく塞がり、玉藻の身体には、以前にも増して強大で、どこか艶やかな妖気が満ち満ちていた。
しかし、九条の腕の中に力なく倒れ伏す彼女の瞳に、かつての鋭い反抗の光は欠片も残っていなかった。
熱い吐息を繰り返し、桜色に染まった肌を小刻みに震わせながら、彼女は縋るように、潤んだ瞳で九条を見上げる。
「……もう、終わり……なのか?」
「あぁ。これでお前は完全に助かった。傷も呪いも消えたはずだ」
「ちが、う……。もっと……もっと、貴様の気を……寄越せ……っ」
玉藻は自ら九条の手に熱い頬をすり寄せ、懇願するように身をよじった。
この瘴気に満ちた奈落を生き抜くため。それはもはや、後付けの言い訳に過ぎない。誇り高き大妖怪の精神は、たった一度の儀式で、この若き陰陽師が与える極上の『霊力』なしでは正気を保てない、従順で淫らな身体へと完全に作り替えられてしまったのだ。
「仕方ない奴だな。お前のような大喰らいを満たすのは骨が折れる。……いいだろう、お前が俺の『従魔』として絶対の服従を誓う限り、何度でも、いくらでも注いでやる」
奈落の底で、絶対的な主従と共依存の契約が結ばれた。
九条が再び彼女のうなじに熱を持った指を添えると、玉藻は歓喜と羞恥の入り交じった、ひときわ艶やかな声を上げて、自らその熱を奥深くまで迎え入れたのだった。




