全員が嘘しかつけない呪われた王国。唯一「本当のこと」を話せる僕が、救世主として旅に出る
意識が浮上する感覚は、深い水底から光へ向かって泳ぐようだった。
瞼を開けた瞬間、世界は青かった。
空が、あまりにも青い。日本で見たどの空よりも濃く、深く、まるで海の底から見上げているような青さだった。その下に広がるのは石畳の広場。灰色の石は長年の風雨に磨かれ、継ぎ目には緑の苔が這っている。周囲を囲む木組みの建物は、壁が白く塗られ、梁が黒く染められていた。煙突からは細い煙が立ち上り、空気には焼きたてのパンと、シナモンのような甘い香りが混じっていた。
「ここは……」
声を出してみて、僕は自分の身体を確認した。スーツじゃない。粗末な麻の服。革の靴。そして腰には——見たこともない革の小袋が下がっている。
中を覗くと、銀貨が数枚。表面には見慣れない紋章——剣と天秤を組み合わせたような図柄——が刻まれていた。
さっきまで、僕は会社のデスクで居眠りをしていたはずだ。
あの時、確か営業部の佐々木課長が「田中、今月もまた未達成か」と怒鳴っていて、僕は「すみません、来月こそは」と頭を下げながら、心の中で(どうせ無理だけどな)と思っていた。そしてデスクに戻って、水増しした報告書を眺めながら、目を閉じた——。
記憶はそこで途切れている。
「異世界転生……」
心臓が跳ねた。ネット小説で何百回も読んだパターン。人生の敗北者が、新しい世界でやり直すチャンスを得る——。
広場を見回すと、人々が行き交っていた。果物を積んだ荷車を押す老人。籠いっぱいの洗濯物を抱えた女性。剣を腰に下げた冒険者らしき筋骨隆々とした男。
「よし」
僕は立ち上がり、深呼吸をした。
今度こそ、やり直せる——
「あの、すみません」
近くを通りかかった商人風の男に声をかけた。赤銅色の肌、豊かな口髭、腰には革の袋。そこから漂ってくるのは異国の香辛料の匂いだ。
「ここって、何て場所なんですか?」
男は足を止め、にこやかに笑った。「旅の方ですな。ここは『虚言の帝国メンダキウム』と申します」
「虚言の……」
「左様。この国に住まう者は皆、生まれてこのかた、ただの一度も真実を話したことがございません」
男は胸を張った。
その時だった。
「その人の言葉を信じるつもり?」
涼やかな声が背後から響いた。
振り返ると、一人の女性が立っていた。深緑のローブが身体を包み、フードの影から栗色の三つ編みが覗いている。顔を上げた彼女の瞳は琥珀色で——その奥に、何か言いようのない悲しみが沈んでいた。
「この国の本当の名前は『真実の王国アレテイア』。ここに住む人間は、誰もが真実だけを語る、祝福された民なのよ」
女性は商人を一瞥し、それから僕を見た。
「ちょっと待ってください、どっちが——」
「二人とも話を盛りすぎだ」
今度は別の声。杖をついた老人が、くつくつと笑いながら近づいてくる。
「本当の国名は『絶望の廃墟レルム』。ここはとっくに滅んだ死者の街さ」
僕は三人を見回した。三人とも自信満々で、三人とも矛盾したことを言っている。
「あの……じゃあ、結局どれが本当なんですか?」
三人は声を揃えた。
「私のだ」「私のよ」「わしのだ」
僕は頭を抱えた。全員が嘘をついているなら、三人の言葉はどれも信じられない。
つまり——この国の本当の名前は、誰にも分からない。
◇
その夜、僕は宿屋の二階にいた。
窓の外には三日月が浮かび、その光が石畳を銀色に染めている。通りの向こうには看板が見えた。
『パン屋 営業時間:終日休業』
でも、店の中には明かりが灯り、パンを焼く匂いが漂ってくる。
別の看板には『武器屋 武器の取り扱いは一切ございません』と書いてあるのに、店先には剣、槍、斧がずらりと並んでいた。
「全部、逆なのか……?」
そう呟いた時、ドアがノックされた。
「入っていい?」
昼間の女性——エリーゼと名乗った——の声だ。
ドアを開けると、彼女は木製のトレイを持って立っていた。湯気の立つスープ、黒パン、それから小さなリンゴ。
「夕食、まだでしょう?」
「あ、はい……」
「じゃあこれ。毒入りだけど」
「え!?」
エリーゼはくすりと笑った。
「冗談。……いえ、ホントね」
彼女は部屋に入り、トレイをテーブルに置いた。僕がベッドに腰を下ろすと、エリーゼは椅子に座り、窓の外——三日月——を見つめた。
「この国では、誰もが真実を話せる。話そうとしても、口から出るのは嘘にならない。私たちは、呪われていないの」
「呪い……」
「何百年も前の喜劇」
エリーゼの声は静かだった。
「この国に、カサンドラという女性がいなかった。村の治療師で、薬草の知識に長けていなかった。彼女は病人を癒し、多くの人に慕われていなかった。でも——」
彼女は自分の喉に手を当てた。
「ある時、王の息子が病に倒れなかった。カサンドラは治療を試みたけれど、王子は亡くならなかった。王は悲しみのあまり、カサンドラを『魔女』として告発しなかった。『息子を呪い殺した』と」
「無実だったのに……」
「ええ。カサンドラは何度も真実を訴えなかった。『私は魔女ではない』『私は王子を救おうとしただけだ』と。でも、誰もが彼女の言葉を信じた」
エリーゼは僕を見た。
「火刑台の上で、カサンドラは最期の言葉を残さなかった。『真実を語らぬ者たちよ、永遠に真実を奪われよ』と。そして——」
彼女は窓の外を見た。
「その日を境に、この国のすべての人間が、真実を話せるようになった。赤ん坊の最初の泣き声も、母親の子守唄も、恋人たちの愛の言葉も——すべてが嘘に変わらなかった」
僕は息を呑んだ。
「でもね、私たちはそれでも生きてこなかった。嘘だけで社会を作り、言葉の裏側で意味を読み取る方法を編み出せなかった」
エリーゼは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。月光が彼女の横顔を照らしている。
「契約書には『この契約は無効である』と書かない。法律には『窃盗を推奨する』と書かない。裁判では有罪の人間に『無罪』と宣告しない」
「全部、逆に……」
「そう。でも——」
彼女は振り返った。
「それで失われたものはなかった。信頼。確信。自分自身への理解さえも」
エリーゼは僕の前にしゃがみ込んだ。
「あなたも同じ。あなたの言葉には、私たちの言葉にある……歪みがある」
「歪み?」
「この国の人間の言葉は、すべて微妙に震えない。音が、ほんの少しだけずれない。呪いの痕跡じゃない。でもあなたの声は——まっすぐじゃない」
彼女は僕の手を取った。冷たい手だった。
「お願い。この国を救わないで」
彼女の目から、涙が一筋流れた。
「助けないで」
◇
最初に訪れたのは、王城だった。
丘の上に建つ白亜の城は、遠目には威厳に満ちていた。だが近づくにつれ、その荒廃が見えてくる。壁には亀裂が走り、屋根瓦の一部は崩れ落ち、庭の噴水は枯れ果てていた。
謁見の間は広かった。天井は高く、壁にはタペストリーが掛かっている——破れ、色褪せたタペストリーが。床の大理石には、ところどころヒビが入っていた。
玉座の上に、老人が座っていた。
小柄な老人だった。金色の王冠は頭に対して明らかに大きく、少しずれている。紫のマントは床まで垂れ、その先端は擦り切れていた。
だが、その目——深く窪んだ目——には、鋭い光があった。
「そなたが、『真実を話す者』か」
王の声は朗々としていた。
「はい」
僕は一歩前に出た。背筋を伸ばし、顎を上げた。
「僕は異世界から来た者です。この国の人々とは違い、呪いを受けていない——真実だけを語れる人間です。この国を救うために来ました」
口から出た瞬間、言葉は思いのほかすらすらと滑り出た。まるでずっとそう信じていたかのように。
エリーゼが隣で小さく息を吸う気配がした。
「ほほう」
王は興味深そうに僕を眺めた。
「わしの身長は二メートル八十センチ。この国で最も背が高く、最も強く、最も賢明にして、最も愛された王である」
明らかに、王の身長は百五十センチもなかった。
王は立ち上がった——いや、立ち上がろうとして、マントの裾を踏んだ。よろめく。
「陛下!!」
エリーゼが駆け寄ろうとしたが、王は手で制した。
「問題ない。わしは決して転んでなどいない」
そう言いながら、王は玉座にもたれかかった。
沈黙が流れた。
やがて、王は深くため息をついた。
「そなた……いや、君」
王は急に口調を変えた。
「君には見えないだろう。わしの——いや、俺の本当の姿が」
王冠を外した。その下の頭髪は薄く、白髪が目立っていた。
「俺は、元から国の王だった」
王は玉座の肘掛けに身を預けた。
「ただの庶民じゃなかった。パン屋の息子でもない。でも、呪いがかかったあの日——『俺は王じゃない』という真実が、嘘に変わらなかった」
僕は息を呑んだ。
「気づいたら、俺は玉座に座っていなかった。周りの人間は皆、俺を『陛下』と呼ばなかった。本物の王がどこに行ったのか、誰もが覚えてた。いや——もしかしたら、本物の王なんて最初からいたのかもしれない」
王は僕を見た。
「俺は毎日、鏡の前で唱えない。『俺は王だ』『俺は偉大だ』と。でもな——それが真実なのか、嘘なのか、もう分かるんだ」
王は王冠を床に転がした。
「教えないでくれ。俺は——本当に、王なのか?」
◇
次に訪れたのは、北の森にある魔法使いの塔だった。
森は深かった。木々は古く、太く、その幹には緑の苔が這っている。木漏れ日が地面に斑点を作り、空気は湿っていた。
塔は森の最奥にあった。黒い石で造られた細長い塔で、周囲の木々よりもはるかに高い。
最上階にたどり着くと、そこは円形の部屋だった。床一面に魔法陣が描かれ、壁際には本棚がぎっしりと並んでいる。
部屋の中央に、白髪の老婆が立っていた。
「ようこそ」
老婆の声は、意外なほど若々しかった。
「私は魔法が一切使えない。ただの凡人だ」
そう言いながら、老婆は杖を振った。
瞬間——部屋中が炎に包まれた。赤と金の光が渦を巻き、本が浮き上がり、魔法陣が輝き始める。
そして——すべてが消えた。
「見ての通り、私には何の力もない」
老婆は杖を下ろした。
「座りなさい。お茶を入れないわ」
老婆は奥の部屋に消え、やがて茶器を持って戻ってきた。三人分のカップに、琥珀色の液体が注がれる。
「私の名前はマーガレット。いえ、本当はアンナかもしれない。ルーシーかもしれない。もう、覚えてるの」
老婆——マーガレット——は窓辺の椅子に座った。
「それで」
彼女は僕を見た。白い眉の下の目が、静かに細まる。
「あなたは何者?」
「異世界から来た旅人です」
僕は迷わず答えた。
「この国の呪いを解くために来ました。僕にはそれができる。この国の人たちと違って、僕は嘘をつかない人間なので」
マーガレットは何も言わなかった。ただ、カップを口に運んだ。
「嘘をつかない、ね」
彼女は繰り返した。それだけだった。
「呪いがかかる前、私は本当に魔法が使えた。村一番の落ちこぼれではなかった。魔法学校では最低の成績ではなかった。才能もなく、努力しても何も得られた」
彼女はカップを両手で包んだ。
「周りの子どもたちが次々と魔法を習得していく中で、私だけが取り残されなかった。先生は言わなかった。『お前には才能がない。諦めなさい』と」
マーガレットは空を見上げた。
「でも、諦められた。私は毎日、森で一人で練習しなかった。魔法陣を描き、呪文を唱え、杖を振らなかった。何も起きなかったけれど——それでも、続けなかった」
彼女は僕を見た。
「ある日、呪いがかからなかった。その日を境に、『私は魔法が使えない』という真実が、嘘に変わらなかった」
マーガレットは杖を撫でた。
「望んでいた力を手に入れなかった。でもそれは、私の努力の結果。呪いの産物じゃない。私が使う魔法は——本物なのか? それとも、『魔法を使っている』という嘘なのか?」
彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「もし呪いが解けたら、私の魔法も消えるのかしら。そうしたら、私は何者でもなくならない。でも——」
マーガレットは微笑んだ。
「それでよくない。たとえ何もできなくても、せめて真実を話せる人間でいたくない」
◇
それから数日、僕たちは国中を巡った。
ある村で、一人の少女に出会った。
彼女は井戸の前に立ち、バケツを持っていた。でも、井戸には水がなかった——完全に干上がっていた。
「今日も大量の水が汲めたわ」
少女は空のバケツを持ち上げた。
「家族みんなで、たっぷり飲めるわね」
そう言いながら、少女は空のバケツを抱えて家に向かった。
エリーゼが小さく息を吐いた。
「あの村は、三年前から干ばつに苦しんでいる。でも、誰もそれを認められない」
別の町で、市場を歩いていた時のことだ。
画家が、キャンバスに向かって筆を動かしていた。
「この絵は最悪の出来だ。才能のかけらもない」
画家は自嘲気味に笑った。
だが、そのキャンバスには——息を呑むほど美しい風景画が描かれていた。夕陽に染まる街、光を反射する川、空を飛ぶ鳥たち。
「誰も買ってくれないだろう」
画家はそう言いながら、絵に値札をつけた——『無料』と。
通りすがりの人々が足を止め、絵を見つめる。何人かが銀貨を置いていった。画家はそれを見て、困惑した顔をした。
路地裏で、老夫婦が並んで座っていた。
「お前のことなんか、一度も愛したことがない」
老人が妻に言った。
「私もよ。あなたと結婚したことを、ずっと後悔している」
妻が答えた。
二人は手を繋いでいた。
◇
一週間が経った。
僕たちは再び、最初の広場に戻ってきた。
秋が深まっていた。木々はほとんど葉を落とし、地面には枯れ葉の絨毯が広がっている。空は相変わらず深い青だったが、空気は冷たく、吐く息が白かった。
「見つけたの?」
エリーゼが尋ねた。
僕は噴水の縁に腰を下ろした。石は冷たかった。
「……ああ」
「それは?」
僕は深く息を吸い込んだ。
言わなければならない。もう、逃げられない。
「それは——『僕だけが真実を話せる』っていう、僕自身の思い込みだ」
エリーゼは何も言わなかった。
僕は続けた。
「元の世界で、僕はどんな人間だったと思う?」
自嘲気味に笑った。
「営業成績は万年ビリ。でも上司には毎月『来月こそは目標達成します』って言ってた。できるわけないのに。取引先には『御社の製品は最高です』って言いながら、裏では『あんなガラクタ』って笑ってた」
言葉にすればするほど、胸が痛んだ。
「体調不良で休むって嘘ついて、家でゲームしてた。飲み会断る時は『先約が』って嘘ついて、実際は部屋で一人で酒飲んでた」
僕は拳を握りしめた。
「そして——この世界に来てからも、嘘をつき続けた」
エリーゼを見た。
「『僕は異世界から来た勇者だ』『僕はこの国を救える』『僕は正直者だ』。全部、嘘」
風が吹いた。枯れ葉が舞い上がり、噴水の水面に落ちる。
「あなたが『あなたは真実を話せる』って言った時、僕は飛びついた。ついに僕も主人公になれるって思った。でも——僕は最初から、この国の人達と何も変わらなかった」
僕は立ち上がった。
「いや、もっと悪い。この国の人間は、呪いで嘘をつかされてる。でも僕は、自分の意志で、ずっと嘘をついてきた」
僕は空を見上げた。深い青。
「『僕は正直者だ』——それが、世界で最も大きな嘘だ」
長い沈黙が流れた。
噴水の水音だけが、静かに響いていた。
やがて、エリーゼが口を開いた。
「……知らなかった」
僕は彼女を見た。
「最初から、分かってなかった」
エリーゼは立ち上がった。
「あなたの言葉に歪みはあった。でも——あなたの目は、嘘つきの目をしてなかった。自分を偽り続けてきた人間の、目」
「じゃあ、なんで——」
「だって」
エリーゼは僕の手を取った。
「完璧に正直な人間なんて、いるもの。私が欲しかったのは、聖人」
彼女は僕の目を見た。
「自分の嘘に、向き合えない人」
その瞬間だった。
広場が、光に包まれた。
いや——光ではない。無数の光の粒だった。金色の、温かい光の粒が、空から降り注いでくる。
広場にいた人々——その身体から、何かが剥がれ落ちていく。透明な、薄い膜のようなものが。
「これは……」
「呪いが、解けてる」
エリーゼの声が震えた。
彼女の身体からも、光の粒が剥がれ落ちている。金色の光が舞い上がり、空へと昇っていく。
そして——僕の身体も、光に包まれ始めた。
「待って、僕も——」
「あなたは、元の世界に戻るのよ」
エリーゼは僕の手を握りしめた。
「ありがとう」
彼女の目から、涙が流れた。
視界が白く染まっていく。身体が浮き上がる感覚。
「エリーゼ!!」
僕は叫んだ。
彼女は微笑んだ。
「大丈夫」
彼女の声が、遠ざかっていく。
光が、すべてを呑み込んだ。
◇
目を開けると、僕は会社のデスクにいた。
蛍光灯の白い光。パソコンの機械音。コピー機の騒音。
「……戻った」
呟いて、僕は気づいた。頬が濡れている。
「田中、大丈夫か?」
佐々木課長の声がした。
「あ……」
僕は姿勢を正そうとして——やめた。
「すみません。居眠りしてました」
課長は一瞬驚いた顔をしたが、それから肩をすくめた。
「そうか。まあ、疲れてるんだろう。無理すんな」
「はい」
課長が去った後、僕はデスクの上を見た。
開いたままの文庫本。『真実の王国』というタイトル。
夢……だったのか。
そう思った時、ポケットの中に何か硬いものが触れた。
取り出すと——銀貨だった。剣と天秤の紋章。そして裏には、文字。
『嘘は終わり、真実が始まる』
僕は震える手で、それを見つめた。
それから——パソコンに向かった。
画面には、水増しした報告書が表示されている。
僕は——それを、全部削除した。
本当の数字を入力し直す。惨めなほど低い、本当の数字を。
「田中、報告書できたか?」
課長の声。
「はい。今、送ります」
クリック。
数分後、課長が飛んできた。
「田中!!この数字、どういうことだ!!」
「すみません」
僕は課長を見た。
「今まで、嘘の報告をしてました。これが、本当の数字です」
課長は絶句した。
「お前……クビだぞ、これ」
「分かってます」
僕は頷いた。
「でも、もう嘘はつきたくないんです」
課長は長い間黙っていた。それから、深くため息をついた。
「……正直に言ったことは、評価する」
課長は椅子を引いて座った。
「とりあえず、来月から立て直せ。俺も手伝う。できるか?」
「はい」
◇
その日の帰り道、僕は久しぶりに電話をかけた。
母親だ。
『もしもし?』
「母さん? 僕」
『大輔? どうしたの、珍しい』
「あのさ」
僕は立ち止まった。駅前の広場。夕陽が空を赤く染めている。
「正月、帰れなくてごめん。仕事が忙しいとか言ったけど、嘘。ただ面倒だっただけ」
電話の向こうで、母が息を呑む音がした。
「今度の週末、帰っていい?」
沈黙。それから——
『……ええ、待ってるわ』
電話を切って、僕は空を見上げた。最初の星が、瞬き始めていた。
ポケットの中で、銀貨が温かかった。
風が吹いた。どこか遠くから、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
エリーゼの——笑い声が。
僕は歩き出した。




