その広告、私が作りました~婚約破棄された元カノが手掛けたCMで御社が炎上するなんて、もう遅いですよね?~
「君との婚約は、今日この場をもって破棄させてもらう」
煌びやかなシャンデリアの下、桐生蓮司の声が忘年会会場に響き渡った。
グラスを持つ手が、一斉に止まる。二百人を超える広告業界の重鎮たちの視線が、私に突き刺さった。
「……蓮司さん?」
私、園田彩音は、できるだけ驚いたように眉を上げてみせた。五年間、この人の隣で「控えめで地味な婚約者」を演じ続けてきたのだ。今さら表情を崩すような真似はしない。
(まあ、知ってたけどね)
三週間前から、彼のスーツに残る甘い香水の匂い。スマートフォンを肌身離さなくなった不自然さ。そして何より――私が手掛けた企画書が、なぜか別の名前で会議に上がっていたこと。
全部、把握していた。
「僕は美玲と生きていくことにした」
蓮司の隣に、ゆるふわの茶髪をした女が寄り添う。白川美玲。入社二年目の後輩で、私の直属の部下だった女。
「彩音先輩……本当に、ごめんなさい」
美玲は大きな瞳に涙を浮かべ、小動物のように震えている。その演技力だけは認めてあげる。何しろ私の企画書を盗み見ていたときも、同じ顔をしていたから。
「園田さんには悪いが、君の企画はもう古いんだ」
蓮司が一歩、前に出る。高級スーツを完璧に着こなし、桐生財閥の御曹司らしい傲慢さを隠そうともしない。
「美玲のような新しい感性が、これからの広告業界には必要なんだよ。君のような……地味で目立たない女が僕の隣にいては、僕のブランドに傷がつく」
会場のあちこちで、ひそひそと囁く声が聞こえる。
「可哀想に……」
「でも確かに、園田さんって存在感ないよね」
「御曹司の隣には不釣り合いだったのかも」
(へえ、そう)
私は伊達眼鏡の奥で、静かに目を細めた。
五年間、あなたの無能な企画を何度影で修正したと思ってるの。あなたが「自分の才能」だと信じていたものの八割は、私の手が入っている。知ってた? 知らないよね。知る能力がないんだもの。
「美玲は僕にないものを全部持っている。華やかさ、新しい感性、そして何より――僕を輝かせてくれる力がね」
蓮司が美玲の肩を抱く。
(あなたを輝かせていたのは私なんだけど)
でも、言わない。言う必要がない。
だって、もうすぐ分かるから。
「……分かりました」
私はゆっくりと、しかし明瞭に声を発した。
「婚約破棄、受け入れます」
会場がざわめく。蓮司が一瞬、眉をひそめた。おそらく、泣いて縋りつく私を想像していたのだろう。
残念ね。
「彩音先輩、私本当に……」
「美玲さん」
私は後輩に向き直り、にっこりと微笑んだ。
「蓮司さんの企画、これからは全部あなたがサポートしてあげてね。彼、一人だと企画書の誤字すら直せないから」
美玲の顔が、一瞬だけ引きつる。それを見届けてから、私はグラスをテーブルに置いた。
「私はこれで失礼します。お二人の未来に、幸多からんことを」
背を向けて歩き出す。
(やっと、解放される)
ヒールの音が、静まり返った会場に響く。視線が痛い? いいえ、全然。むしろ清々しいくらい。
五年間、「桐生蓮司の婚約者」という檻に閉じ込められていた。彼の顔を立てるために才能を隠し、手柄を譲り、日陰に徹してきた。
でも、もう終わり。
会場の出口に手をかけたとき、ふと振り返った。蓮司と美玲が、勝ち誇った顔で私を見下ろしている。
(覚えておいて)
私は心の中だけで呟いた。
(「A」を失うということが、どういう意味か――あなたたちはすぐに思い知ることになるわ)
広告業界の伝説、匿名の天才クリエイター「A」。
その正体を知る者は、ごく僅かしかいない。
◆◆◆
会場を出た私を、冬の冷たい風が迎えた。
「災難でしたね」
不意に、低い声が降ってくる。
振り向くと、銀縁眼鏡の男が壁に背を預けて立っていた。黒髪をオールバックにまとめ、スタイリッシュなジャケットを着崩している。切れ長の目が、値踏みするように私を見つめていた。
氷室透真。新進気鋭の独立系広告会社「フロストレーベル」の代表取締役。
業界内で「異端児」と呼ばれる男だった。
「……盗み聞きですか?」
「たまたまです。たまたま、出口付近に立っていただけで」
嘘だ。この人の目は、最初から私を見ていた。
「園田彩音さん」
氷室が壁から背を離し、一歩近づいてくる。
「ずっと探していました」
「……何をです?」
「『A』を」
心臓が、一瞬だけ跳ねた。
「三年前の自動車メーカーのCM。二年前の化粧品ブランドのリブランディング。去年の公共広告機構のキャンペーン。全部、同じ人間が手掛けている。クレジットには名前がないのに、設計思想が同一なんです」
氷室の目が、鋭く光る。
「そして、そのすべての案件に、あなたが関わっている」
「……偶然では?」
「偶然は三回続きません」
参った。この人、本気で調べていたのだ。
「僕と一緒に、本物の広告を作りませんか」
氷室が名刺を差し出す。
「あなたの才能を隠させる男の隣にいる必要は、もうないでしょう?」
月明かりの下、私は生まれて初めて、自分の名前で差し出された手を見た。
◇◇◇
――同時刻、会場内。
「蓮司、やったね! これで邪魔者はいなくなったよ」
美玲がはしゃいだ声を上げる。蓮司は満足げに頷きながら、シャンパンを傾けた。
「ああ。これからは僕たちの時代だ。来月の桐生グループ新商品発表会のCM、美玲の企画で決まりだよ」
「えへへ、任せて! とっておきのアイデアがあるの」
美玲のスマートフォンには、こっそり撮影した彩音のボツ企画書の画像が保存されている。これを少しアレンジすれば、簡単にオリジナル企画の完成だ。
地味で無能な先輩には、もったいない企画だった。私が形にしてあげる。
「桐生の名に恥じないCMを作ろう、美玲」
「うん、蓮司……愛してる」
二人が見つめ合う。
誰も気づかない。
この瞬間から、破滅へのカウントダウンが始まっていることに。
◇◇◇
会場の隅で、白髪交じりの男がグラスを傾けていた。
桐生征一郎。桐生財閥の現当主にして、蓮司の父。
「……馬鹿な息子だ」
彼は誰にも聞こえない声で呟いた。
園田彩音。控えめで目立たないが、聡明で礼儀正しい娘だった。息子には過ぎた婚約者だと、常々思っていた。
そして何より――。
征一郎は、業界の重鎮だけが知る噂を思い出す。伝説のクリエイター「A」。その正体は、桐生グループの広告を長年担当してきた代理店の、名もなき社員だという。
まさか、とは思う。
だが、もしそうだとしたら。
「蓮司よ、お前は取り返しのつかないものを手放したな」
老獪な経営者の目が、息子の背中を冷ややかに見つめていた。
────────────────────
【第二章 隠された才能】
翌朝、私は迷うことなく退職届を作成していた。
自宅マンションの小さな書斎。窓から差し込む冬の陽光を浴びながら、五年間勤めた会社との決別を一枚の紙に込める。
(意外と、あっさりしてるものね)
未練がないわけではない。でも、しがみつく理由もない。
スマートフォンが震えた。画面には「蓮司」の文字。
無視。
三秒後、また震える。今度は「美玲」。
当然、無視。
おそらく、昨夜の私の態度が「予想外」だったのだろう。泣いて縋りつくはずの女が、あっさり身を引いた。それが気に入らないのか、それとも何か企んでいると勘繰っているのか。
どちらでもいい。
私はもう、あなたたちの物語の登場人物ではないのだから。
◆◆◆
昼過ぎ、私は都心から少し離れた場所にあるビルの前に立っていた。
「フロストレーベル」。
氷室透真が率いる独立系広告会社。設立わずか三年で、業界に旋風を巻き起こしている新鋭だ。
昨夜、彼から渡された名刺を見つめる。裏には手書きで「明日、お待ちしています」とだけ記されていた。
(来てしまった)
正直、まだ迷っている。「A」の正体を知られることへの恐れと、ようやく自分の名前で勝負できるかもしれないという期待が、胸の中でせめぎ合っていた。
ビルの自動ドアが開く。
「園田さん、いらっしゃい」
氷室が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。昨夜の鋭い眼光とは打って変わった、柔らかな表情。
「どうぞ、中へ」
案内されたオフィスは、想像していたよりずっと明るかった。壁一面のガラス窓から光が差し込み、観葉植物が緑を添えている。スタッフは二十人ほどだろうか、それぞれが自分の作業に没頭している。
「うちは小さいですが、その分、自由度が高い」
氷室が説明しながら奥へ進む。
「クライアントに媚びるだけの広告は作らない。本当にいいものを、本気で届けたい人に届ける。それがうちのポリシーです」
理想論、と切り捨てることもできた。でも、彼の目には確信があった。
「こちらへ」
通されたのは、小さな会議室。窓際の席には、ショートカットにパンツスーツの女性が座っていた。
「柳瀬香織です。クリエイティブディレクターやってます」
サバサバした口調で名乗る彼女は、私をまっすぐに見つめた。
「あんたが『A』?」
「香織さん」
氷室が窘めるように言うが、柳瀬は気にしない。
「いいじゃない、本人に確認するのが一番早いでしょ。で、どうなの?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
五年間、この秘密を守り続けてきた。蓮司の顔を立てるため、会社の空気を乱さないため、そして何より――私自身が表舞台に立つことを恐れていたから。
でも。
「……はい」
声が震えた。
「『A』は、私です」
言った瞬間、肩の荷が下りたような気がした。
柳瀬が大きく息を吐く。
「やっと、うちにまともなクリエイターが来た」
その言葉には、嫌味も皮肉もなかった。純粋な歓迎の響きがあった。
「三年前の自動車CM」
氷室がファイルを開く。
「父親が息子に車を譲るストーリー。あれ、泣いたよ。本気で」
「二年前の化粧品リブランディング」
柳瀬が続ける。
「『年齢を重ねることは、美しさを重ねること』。あのコピー、業界の常識を変えたって言われてる。知ってた?」
知らなかった。いや、知ろうとしなかった。
私の企画が世に出るとき、クレジットには別の名前が載っていた。蓮司の名前だったり、チームの名前だったり。私はいつも「サポート」として、影に徹していた。
「なぜ、名前を出さなかったんですか」
氷室が静かに問う。
「……婚約者の、顔を立てたかったので」
「桐生蓮司」
柳瀬が吐き捨てるように言った。
「あいつの企画、昔から薄っぺらいと思ってたのよ。でも結果だけは出してた。そういうことか」
「彼に才能がないわけでは」
「庇わなくていい」
氷室が遮った。
「あなたの才能を搾取していた男を、もう庇う必要はない」
搾取。
重い言葉だった。でも、否定できない。
「園田さん」
氷室が立ち上がり、私の正面に回った。
「うちで働いてほしい。条件は、あなたの名前で企画を出すこと。それだけです」
「私の、名前で……」
「園田彩音として、作品を世に送り出してほしい」
五年間、誰にも言われなかった言葉だった。
蓮司はいつも言っていた。「君は裏方に向いている」「目立つのは僕の仕事だ」「君は僕を支えてくれればいい」と。
私もそれでいいと思っていた。いや、思い込もうとしていた。
「……怖いです」
本音が漏れた。
「自分の名前で出して、失敗したら、もう言い訳ができない」
「そうですね」
氷室は否定しなかった。
「でも、成功したときの喜びは、全部あなたのものです」
当たり前のことを、当たり前に言う。それがどれだけ難しいか、この人は分かっているのだろうか。
「あなたの企画に修正は必要ありません」
氷室が続ける。
「そのまま世に出しましょう。それだけの力が、あなたにはある」
信頼。
蓮司から一度も向けられなかったものが、今、見知らぬ男から差し出されている。
「……一つ、条件があります」
私は顔を上げた。
「前の会社での企画は、一切使いません。全部、新しく作ります」
過去の遺産に頼らない。蓮司や美玲と同じ土俵で戦わない。
私は私の力で、ゼロから証明する。
氷室が、初めて笑った。
「それでこそ、僕が探していた『A』です」
柳瀬が大きく頷く。
「いいねえ、その啖呵。うちの会社、ようやく面白くなりそうだ」
窓の外で、冬の日差しがビル群を照らしている。
新しい舞台が、今、幕を開けようとしていた。
◇◇◇
――同日夜、大手広告代理店「セントラル・アド」オフィス。
蓮司は苛立ちを隠せずにいた。
「彩音が退職届を出した?」
「はい。本日付で受理されました」
人事部からの報告に、蓮司は舌打ちする。
「勝手なことを……」
「でも蓮司、よかったじゃない」
美玲が隣で甘えた声を出す。
「これで私たち、堂々とできるよ」
「ああ、そうだな」
蓮司は頷きながらも、どこか釈然としない思いを抱えていた。
彩音の態度が、引っかかる。
あの冷静さ。あの諦めの悪くなさではなく、最初から諦めていたかのような、達観した目。
まるで、こうなることを予測していたかのような――。
「蓮司、桐生グループのCM企画、見て」
美玲がタブレットを差し出す。画面には、カラフルなプレゼン資料が映し出されていた。
「これ、絶対ウケると思うの」
蓮司はそれを眺め、満足げに頷いた。
「いいじゃないか。新鮮な発想だ」
美玲の企画は、確かに「新しく」見えた。
それが、園田彩音のボツ企画を改変したものだとは、蓮司には分からなかった。
◇◇◇
同じ頃、桐生家の書斎。
征一郎は、秘書から受け取った報告書を読み終えた。
「園田彩音、セントラル・アドを退職。同日、フロストレーベルとの契約を締結」
「フロストレーベル……氷室透真の会社か」
業界では異端児と呼ばれる男。だが、征一郎は知っている。あの若さで独立し、大手に真っ向勝負を挑む胆力。そして、本物の才能を見抜く眼力。
「面白いことになりそうだ」
征一郎は書類を閉じ、窓の外を見た。
息子は、自分が何を失ったか分かっていない。分かるときには、おそらく手遅れだろう。
それもまた、経営者として必要な学びだ。
「蓮司よ、この試練を乗り越えられるかどうか……見届けてやろう」
老獪な財閥当主の目には、息子への情けと、ビジネスへの冷徹さが同居していた。
────────────────────
【第三章 新天地】
フロストレーベルに入社して二週間。
私は初めて、自分の名前が入った企画書を提出した。
「園田彩音」。
その四文字が、表紙に堂々と印刷されている。こんな当たり前のことが、どうしてこんなにも緊張するのだろう。
「読ませてもらったよ」
柳瀬さんが、企画書を手にオフィスに現れた。
「率直に言う」
私は息を詰めた。
「天才かよ」
「……え?」
「これ、うちが半年かけて取れなかった飲料メーカーの案件だよ? それを二週間で、しかもこのクオリティで」
柳瀬さんがテーブルに企画書を広げる。
「『水を飲む』じゃなくて『水になる』。キャッチコピーからしてもう完璧。映像のカット割り提案も、ターゲット分析も、全部筋が通ってる」
「あの、でも、まだクライアントに」
「明日プレゼンしてきな」
「え」
「あんたが行くんだよ。これ、あんたの企画でしょ」
当然のように言われて、私は言葉を失った。
前の会社では、プレゼンはいつも蓮司の役目だった。私は資料を作り、裏でサポートし、成功すれば蓮司が褒められ、失敗すれば私が責められた。
「自分の企画は、自分で売り込む。それがうちのルール」
柳瀬さんが肩を叩く。
「大丈夫、あんたならできるよ。才能で語りな」
◆◆◆
翌日のプレゼンは、信じられないほど上手くいった。
「素晴らしい。まさに我々が求めていたものです」
クライアントの反応は、前の会社では経験したことのない熱量だった。
「園田さん、でしたね。ぜひ今後も御社と……いえ、あなたとお仕事したい」
私の、名前を呼んでくれた。
「園田さん」として。
会議室を出たとき、氷室さんが廊下で待っていた。
「おめでとうございます」
「……見てたんですか」
「最後だけ。あなたの実力を、僕が保証する必要はないと思ったので」
静かに、でも確かに、信頼を示す言葉。
「これから、もっと忙しくなりますよ」
氷室さんが微笑む。
「あなたの才能は、もう隠しておけませんから」
◇◇◇
私のCMが放映されたのは、それから一ヶ月後のことだった。
飲料メーカーの新商品「ミネラルブルー」。
『水になる。あなたは、どこへでも行ける。』
朝の情報番組で初放映された瞬間から、SNSは沸騰した。
『このCM、やばい』
『泣いたんだけど』
『映像美がすごすぎる』
『園田彩音って誰? 天才では?』
私の名前が、画面の端に小さく表示されている。
企画・演出:園田彩音。
五年間、一度も見ることのなかった文字列。
「バズってるよ、園田さん」
柳瀬さんがスマートフォンを見せてくる。
「トレンド入りしてる。あんたの名前」
画面には、「園田彩音」がトレンド三位に入っている様子が映っていた。
「……実感が湧かないです」
「湧くよ、そのうち。いい意味でも悪い意味でも」
柳瀬さんが意味深に笑う。
「有名になるってことは、敵も増えるってこと。まあ、あんたなら大丈夫でしょ」
◆◆◆
一方その頃、桐生グループの新商品CMも放映が始まっていた。
「さあ、見てよ蓮司! 私たちのCM!」
美玲がテレビの前ではしゃぐ。
「ああ、いい出来だ」
蓮司も満足げに頷く。高級感のある映像、印象的なキャッチコピー。さすがは桐生グループ、金はかかっている。
しかし、放映から三日後。
異変が起きた。
『このCM、どこかで見たことある』
『既視感がすごい』
『三年前のあの企画に似てない?』
SNSで、ぽつぽつと声が上がり始める。
「蓮司、なんかネットで変なこと言われてるんだけど……」
美玲が不安げにスマートフォンを見せる。
「気にするな。嫉妬だよ。成功した企画には、必ずアンチがつくものだ」
蓮司は一蹴した。
しかし、火種は消えなかった。
『桐生グループCM、盗作疑惑』
『元ネタは三年前のコンペ落選作?』
『情報求む』
業界関係者の間で、囁きが広がり始めていた。
◇◇◇
「園田さん、ちょっといい?」
柳瀬さんが私を呼び止めたのは、CMがバズり始めてから一週間後のことだった。
「見て、これ」
差し出されたスマートフォンの画面には、業界の匿名掲示板が映っていた。
『桐生グループのCM、元ネタを特定した』
『三年前のセントラル・アドのコンペ落選作』
『企画者は当時「桐生蓮司のチーム」名義だが、実際の作成者は別人らしい』
『その企画者、最近フロストレーベルに移籍した園田彩音では?』
私は、静かに息を吐いた。
「これ、本当?」
柳瀬さんが真剣な目で問う。
「三年前のボツ企画、あんたのものなの?」
「……はい」
もう隠す必要はない。
「あの企画は、私が作りました。でもコンペでは通らなくて、ボツになった。それを、白川美玲さんが見ていたことは……知りませんでした」
嘘ではない。美玲が私の企画を盗み見ていたことは知っていた。でも、それをそのまま使うとは思っていなかった。
いや、正直に言えば――使うかもしれないとは、薄々感じていた。
「どうするの? 声明出す?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「私は何もしません」
「なんで?」
「だって、私が何か言わなくても、真実は明らかになりますから」
因果応報は、私が手を下さなくても訪れる。
彼らは自分たちで、自分たちの首を絞めているのだから。
◇◇◇
炎上は、日を追うごとに大きくなっていった。
『桐生グループCM、完全に盗作だった』
『元の企画と比較画像上げてる人いる』
『これはアウトでしょ』
『白川美玲、前職での評判最悪らしい』
『先輩の手柄横取りしてたって噂』
火に油を注いだのは、週刊誌だった。
『桐生財閥御曹司の婚約者、盗作疑惑の新人広告プランナーだった!』
『元婚約者への公開断罪からわずか二ヶ月で大炎上』
『「新しい感性」の正体は、他人のアイデアの焼き直しだった』
記事には、美玲が私のデスクを漁っている監視カメラの画像まで添えられていた。
「蓮司、どうしよう……」
美玲の顔は蒼白だった。
「落ち着け、何かの間違いだ」
「間違いじゃない! 私、見たの! 彩音先輩の企画書! でも、少しアレンジしたから、オリジナルだって……」
「……は?」
蓮司の目が、初めて冷たく美玲を見た。
「お前、まさか本当に盗作したのか?」
「だって、彩音先輩のボツ企画よ? 使わないなら、私が使っても……」
「馬鹿か!」
蓮司の怒鳴り声が響く。
「僕のキャリアを台無しにする気か!?」
二人の間に、亀裂が走り始めていた。
◆◆◆
フロストレーベルのオフィスで、私はその報道を見ていた。
「復讐のつもりだったの?」
氷室さんが隣に立つ。
「いいえ」
私は静かに答えた。
「彼らが自滅しただけです。私は、自分の仕事をしていただけ」
「そう」
氷室さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、コーヒーを一杯、私のデスクに置いてくれた。
「次の企画、楽しみにしています」
「はい」
窓の外では、冬の終わりを告げる雨が降り始めていた。
────────────────────
【第四章 因果応報】
週刊誌の記事が出てから、事態は急速に悪化していった。
桐生グループの株価は三日連続で下落。SNSには「桐生グループ不買運動」のハッシュタグがトレンド入りした。
「蓮司、なんとかしてよ!」
美玲の叫び声が、セントラル・アドのオフィスに響く。
「なんとかって言われても……」
蓮司は頭を抱えていた。父・征一郎からの電話は日に十回を超え、そのすべてが叱責だった。
「お前のせいで株価が何十億落ちたと思っている」
「美玲を選んだのはお前だ。責任を取れ」
「園田さんを手放したことを、一生後悔しろ」
父の言葉が、頭の中で何度も反響する。
「蓮司、聞いてるの!?」
「うるさい!」
蓮司が美玲を怒鳴りつけた。
「お前が余計なことをしなければ、こんなことには……!」
「私のせい? 私だけのせいなの? 蓮司だって、彩音先輩の企画を自分の手柄にしてたじゃない!」
「それは……」
「知ってるよ。あの人が影で修正してたこと、みんな薄々気づいてた。でも誰も言わなかっただけ」
美玲の言葉に、蓮司は絶句した。
まさか。
そんなはずはない。あれは全部、自分の実力で——。
「蓮司さん」
会議室のドアが開き、人事部長が顔を出す。
「本社から連絡です。至急、本社ビルへ来るようにと」
蓮司の顔から、血の気が引いた。
◆◆◆
桐生グループ本社ビル。最上階の会長室。
蓮司は父の前に立たされていた。
「座れとは言っていない」
征一郎の声は、冷え切っていた。
「お前に聞きたいことがある」
「はい……」
「園田彩音という女を、どう評価していた?」
「彼女は……地味で、華がなくて、僕の隣にふさわしくない女でした」
「ほう」
征一郎が立ち上がる。
「では、この記事は何だ?」
デスクの上に、業界紙が置かれていた。
『伝説のクリエイター「A」の正体、ついに判明』
『フロストレーベル園田彩音、数々のヒットCMを匿名で手掛けた天才だった』
『業界関係者「彼女の才能は十年に一人のレベル」』
蓮司の目が、見開かれる。
「『A』……あの、『A』が、彩音……?」
「お前は知らなかったのか」
征一郎の声に、深い失望が滲む。
「五年間、隣にいて、気づかなかったのか」
「そんな、まさか……」
「三年前の自動車CM。二年前の化粧品リブランディング。去年の公共広告キャンペーン。全部、彼女の作品だ。お前の名前で出ていた企画の中にも、彼女が手を入れたものが多数あると聞いている」
蓮司の膝が、がくりと折れた。
「嘘だ……」
「嘘ではない。調べればすぐに分かることだ。私が気づかなかったのは、息子を信じていたからだ」
征一郎が窓際に立つ。
「お前は、自分の無能さを隠すために、彼女の才能を利用していたのだな」
「違う、僕は知らなかった……」
「知らなかったのなら、なおさら愚かだ」
振り向いた征一郎の目には、もはや息子への情けはなかった。
「蓮司。お前をグループの広報担当から外す。地方の子会社へ異動だ」
「父さん!」
「抗議は受け付けない。これは経営判断だ」
蓮司は床に手をついたまま、立ち上がれなかった。
「彩音……」
名前を呼んでも、もう彼女はどこにもいない。
◇◇◇
同じ日、白川美玲はセントラル・アドに呼び出されていた。
「白川さん、監視カメラの映像、言い逃れできないわよ」
人事部長が、冷たい声で告げる。
「園田さんのデスクを漁っている映像。これ、週刊誌にも渡ってるけど、うちにも当然残ってるから」
「あれは、その、ちょっと資料を借りようと……」
「借りる? 企画書をコピーして、自分のアイデアとして提出することを、『借りる』とは言わないわ」
美玲の顔が、土気色に変わる。
「退職届を出すなら、今なら自己都合扱いにしてあげる。拒否するなら、懲戒解雇よ」
「そんな……」
「どっちがいい?」
選択肢はなかった。
◆◆◆
美玲が会社を去る日、エントランスには誰も見送りに来なかった。
段ボール一つを抱えて外に出ると、冬の冷たい風が頬を叩く。
「こんなはずじゃ……」
涙が溢れた。
蓮司からの連絡は、三日前から途絶えている。
「私は、私はただ……」
何を言っても、もう遅い。
スマートフォンが震えた。
SNSの通知。
『白川美玲、業界追放www』
『盗人は消えてどうぞ』
『蓮司も道連れで草』
画面を見る気力もなく、美玲は膝から崩れ落ちた。
◇◇◇
その頃、私はフロストレーベルのオフィスで、新しい企画書に向き合っていた。
「園田さん、これ見た?」
柳瀬さんがスマートフォンを見せてくる。
画面には、蓮司の左遷と美玲の退職を報じるニュースが映っていた。
「……見ました」
「どう思う?」
「特に何も」
嘘ではなかった。
復讐心があったかと問われれば、ゼロではない。でも、彼らの没落を見ても、胸がすく思いはしなかった。
ただ、静かな安堵があるだけ。
もう、あの場所に戻らなくていい。
もう、あの人たちに気を遣わなくていい。
それだけで、十分だった。
「園田さん」
氷室さんが近づいてくる。
「来月の広告業界アワード、ノミネートの連絡が来ました」
「え?」
「飲料メーカーのCMが、新人部門で最終候補に入りました」
「新人部門……」
私は苦笑した。
「私、もう二十八なんですけど」
「『園田彩音』として世に出た作品は、あれが初めてでしょう? だから新人です」
氷室さんも、珍しく笑っていた。
「受賞したら、スピーチお願いしますね」
「気が早いですよ」
でも、悪い気はしなかった。
窓の外では、雲の切れ間から陽が差し始めていた。
────────────────────
【第五章 選び直す人生】
広告業界アワード授賞式の夜。
会場となったホテルの大広間には、業界の重鎮たちが集まっていた。シャンデリアの光が華やかに降り注ぎ、笑い声とグラスの触れ合う音が交錯する。
「園田彩音さん」
司会者が私の名前を呼ぶ。
「新人部門最優秀賞、おめでとうございます」
会場から、大きな拍手が沸き起こった。
私はゆっくりと壇上に上がる。
一年前、この同じ業界のパーティーで、私は婚約破棄を宣言された。「地味で目立たない」「古い感性」と公開処刑された、あの夜。
今夜、私は自分の名前で、この場所に立っている。
「本日は、このような素晴らしい賞をいただき、ありがとうございます」
マイクを握る手は、不思議と震えていなかった。
「私は長い間、自分の才能を隠して生きてきました」
会場が静まる。
「理由は……今となっては、馬鹿馬鹿しいくらい些細なことです。誰かの顔を立てるため。目立ちたくなかったから。自信がなかったから」
言葉を選びながら、続ける。
「でも、今は違います。私の作品は、私の名前で世に出ています。それを認めてくれる人たちがいます。そして何より、私自身が、自分を認められるようになりました」
壇上から、会場を見渡す。
最前列に、氷室さんと柳瀬さんの姿が見えた。柳瀬さんは、こっそり涙を拭いている。
「この賞は、私を信じてくれたフロストレーベルのチームに捧げます。そして、これからも私は、『園田彩音』として、作品を作り続けていきます」
深く一礼すると、再び大きな拍手が起こった。
◆◆◆
授賞式が終わり、レセプションパーティーが始まった。
多くの人が私に声をかけてくる。名刺を渡してくる。仕事のオファーを持ちかけてくる。
一年前には想像もできなかった光景だった。
「園田さん」
人混みをかき分けて、氷室さんが近づいてくる。
「お疲れ様でした。素晴らしいスピーチでした」
「ありがとうございます。緊張しました」
「見えませんでしたよ」
氷室さんが、グラスを差し出す。シャンパンではなく、私が好きなジンジャーエールだった。
「覚えてたんですか」
「当然です。一緒に仕事をして、もうすぐ一年ですから」
「……そうですね」
一年。
たった一年で、私の人生は大きく変わった。
「少し、外に出ませんか」
氷室さんが窓の外を示す。ホテルには広いテラスがあり、冬の夜空が広がっていた。
◇◇◇
テラスに出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
都会の夜景がキラキラと輝いている。パーティーの喧騒が遠くなり、静寂が心地よい。
「園田さん」
氷室さんが、真剣な目で私を見た。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何ですか」
「あの夜、僕が声をかけたとき。どうして、うちに来る気になったんですか」
一瞬、考えた。
「……正直に言うと、最初は半信半疑でした」
「そうでしょうね」
「でも、氷室さんが『A』の正体を追い続けていたと聞いて、驚いたんです」
「それだけですか?」
「それと……」
言葉を選ぶ。
「氷室さんの目が、蓮司さんとは違ったから」
「違った?」
「蓮司さんは、私を見ていませんでした。隣にいる女、婚約者、世間体を守るためのパートナー。そういう『枠』としか、見ていなかった」
夜風が髪を揺らす。
「でも氷室さんは、最初から私を『園田彩音』として見てくれた。才能を持った一人のクリエイターとして」
氷室さんが、息を呑む気配がした。
「それが、嬉しかったんです」
「……園田さん」
氷室さんが一歩、近づく。
「僕にも、聞いてほしいことがあります」
「はい」
「一年間、あなたと仕事をしてきました。あなたの才能に、何度も圧倒されました。でも、それだけじゃない」
氷室さんの目が、真っ直ぐに私を捉える。
「あなたの誠実さ。粘り強さ。どんな困難にも折れない芯の強さ。そのすべてに、惹かれました」
「氷室さん……」
「仕事のパートナーとして、あなたは最高です。でも、それだけじゃ足りなくなった」
氷室さんが、内ポケットから小さな箱を取り出す。
「次は、僕たち二人の物語を広告にしませんか」
箱を開くと、そこには細いリングが光っていた。
「園田彩音さん。僕と、結婚してください」
◆◆◆
心臓が、大きく跳ねた。
「……驚きました」
「でしょうね。僕も、こんなタイミングで言うつもりじゃなかった」
氷室さんが、少しだけ照れたように笑う。
「でも、今日のスピーチを聞いて、もう待てないと思ったんです」
「待てない?」
「あなたの才能は、これからもっと評価される。もっと多くの人が、あなたに近づいてくる。その前に、僕の気持ちを伝えておきたかった」
「ずいぶん、計算高いんですね」
「広告屋ですから」
思わず、笑ってしまった。
一年前、私は「選ばれた」立場だった。蓮司に選ばれ、そして捨てられた。
でも今は違う。
今度は、私が「選ぶ」番だ。
「氷室さん」
「はい」
「私、結婚願望はあまりなかったんです。一度失敗しているから」
「……そうですか」
氷室さんの顔が、わずかに曇る。
「でも」
私は、彼の手からリングを受け取った。
「あなたとなら、もう一度信じてみてもいいかな、と思います」
氷室さんの目が、大きく見開かれる。
「園田さん……」
「彩音、でいいですよ」
「……彩音さん」
「はい」
「ありがとう」
氷室さんが、私の手を取る。
冬の夜空の下、二つの影が重なった。
◇◇◇
テラスから会場に戻ると、柳瀬さんが待ち構えていた。
「あんたたち、何してたの」
「少し、話を」
「話だけ?」
柳瀬さんの目が、私の左手に向けられる。
「……そのリング、見覚えあるわ。先月、社長がこっそりオーダーしてたやつね」
「柳瀬さん!」
氷室さんが、珍しく焦った声を上げる。
「ばれてたんですか」
「当然でしょ。あんたが何も考えずにジュエリーショップ行くわけないじゃない」
柳瀬さんが、にやりと笑う。
「おめでとう、二人とも。ようやくかよ」
「ありがとうございます」
私は、初めて心からの笑顔を見せた。
◆◆◆
同じ夜、地方の子会社のオフィスで。
蓮司は、一人でパソコンに向かっていた。
画面には、広告業界アワードの速報が映っている。
『新人部門最優秀賞は園田彩音氏に決定』
『フロストレーベルの新星、業界の話題をさらう』
「彩音……」
名前を呼んでも、もう何も返ってこない。
あの夜、僕は何を失ったのだろう。
「地味で目立たない」と貶した女は、伝説のクリエイターだった。
「古い感性」と切り捨てた才能は、業界の頂点に立った。
そして、「僕を輝かせてくれる力」を持っているはずだった女は、とうに去っていた。
「僕は……」
蓮司は、画面の中で微笑む彩音を見つめた。
隣には、自信に満ちた男が寄り添っている。氷室透真。フロストレーベルの代表。
あの位置に、かつては自分がいたはずだった。
「僕は、馬鹿だった……」
呟いても、もう遅い。
全ては、終わった後だった。
◇◇◇
――一年後、春。
フロストレーベルのオフィスに、一本の電話がかかってきた。
「はい、園田――いえ、氷室彩音です」
電話の向こうから、明るい声が聞こえる。
『彩音先生! 新作CM、また最高でした!』
「ありがとうございます。次の企画も、楽しみにしていてください」
電話を切ると、夫が隣に立っていた。
「『先生』だって」
「やめてください、恥ずかしい」
「いいじゃないですか。似合ってますよ、先生」
「透真さん……」
「茶化さないでください」
笑い合いながら、私は窓の外を見た。
春の陽光が、オフィスに降り注いでいる。
五年間、隠し続けた才能。
一年前に取り戻した自分の名前。
そして今、新しい人生を歩み始めている。
「復讐のつもりはなかったんです」
かつて、そう言った。
それは本当だ。
「ただ、自分の人生を取り戻しただけ」
選ばれるのを待つ人生から、自分で選ぶ人生へ。
自己犠牲の終焉から、自己肯定の始まりへ。
私、園田彩音——いや、氷室彩音は、ようやく自分の人生を生き始めた。
『その広告、私が作りました』
胸を張って、そう言える今が、何より幸せだった。




