第一話
「そんなことは――将来、侯爵夫人になるのだから、わかって当たり前だろう!」
一緒に座学を受けていた婚約者のダニエルは自分が解けなかった問題を年下の私が解答できたことに腹を立て、床に本を叩きつけた。
そして、バタンッと大きな音を立て扉を閉め、部屋から出ていってしまった。
罵倒されたことは今までにも何回かあったのだが、先ほどのダニエルの態度はいつになく酷かった。
「ごめんな、フィー。今日の兄上は俺のせいで機嫌が悪いんだ」
ダニエルの弟ルドルフが、唇をへの字に曲げて懸命に泣くのを堪えていた私に向かって申し訳なさそうに頭を垂れた。
「……どういうこと?」
「それは――」
◇
公爵家に生まれた私、セラフィーナ・グランディには五つ歳の離れた兄セドリックがいる。
兄が家督を継ぐため、私には物心つく前から婚約者がおり、将来は侯爵夫人となることが決まっていた。
その婚約者というのがレイナイト侯爵家の長男ダニエルである。
初めて対面したのは私が五歳、ダニエルが七歳の頃だった。
『ごきげんよう、ダニエルさま』
ダニエルは私の顔を一瞥すると、フンッと顔を背けた。
『はじめまして。君が兄上の婚約者さまだね。僕は弟のルドルフです。同じ歳なんだ。よろしくね』
無愛想な兄とは違い、屈託のない笑顔で手を差し出してきた弟の姿に、緊張していた私はいくらかホッとし、その手を取ろうとした。
すると、それを遮るようにダニエルが私の腕を強く引っ張った。
『君の婚約者は私だ。弟の手を取ってもいいはずがないだろう? そんな当たり前のこともわからないのか、君は』
『も、もうしわけございません。ダニエルさま』
初めから合わないと思っていた。
けれど、私はダニエルとの距離を少しでも縮めようと努力することにした。
貴族同士の結婚は契約だ。例え始まりはそうだったとしても、私は父と母のように仲睦まじい夫婦になりたい。互いを思いやれる、寄り添い合える夫婦に。
『ダニエルさま、このお花はなんですの?』
『ああ、それは“アルニカ”という花だ。根を鎮痛薬として使うのだよ』
『ダニエルさまはものしりなのですね!』
『まあな。知っていて当たり前のことだ』
(よかった。ルディに聞いてたとおり、最近は花の図鑑がお気に入りなのね)
ルドルフから事前に得ていた情報を駆使し、私なりに何とか距離を縮めようとあの手この手で奮闘した。
最悪の初対面から五年。
十歳の私たちと同じ教育を受けることに、十二歳のダニエルはプライドが許さなかった。
「――今朝、父上から叱咤されたんだ。家庭教師からの報告で俺の方が成績がいいって」
「…………」
「その上、侯爵家の領地に関する問題で兄上が答えられなかったのをフィーが軽ーく答えちゃったから……」
今日の出来事は今まで私がコツコツ積み上げてきたものを一瞬にして崩してしまうほどの決定打となってしまった。
彼と仲良くなるには、私は彼よりも馬鹿でなければならない。
――と、いうことを齢十にして気づいたのである。
(次からはダニエルが答えられない問題はわからないふりをするしかないわね……)
そう心に決めていたのだけれど、翌日からダニエルは姿を見せなくなり、私とルドルフ二人だけの授業になった。
「ダニエル様はどうなさったの? 最近、お見かけしないけれど……」
授業が終わって、公爵家の馬車を待つ間、ルドルフに聞いてみると、彼は気まずそうに頭を掻いた。
「兄上が父上に直談判したんだ。『年下のレベルに合わせていたら自分が成長できない』ってさ。それで俺らとは別々に授業を受けることになったんだ」
「そうだったの……」
「まあ、その……何とかして兄上と近づけるよう取り計らうからさ。兄上が学園に入るまであと四年もあるし、そんなに心配するな」
ルドルフはニカッと笑うと私の頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。
それからの四年。
紅茶や菓子に興味があると聞けばティーパーティーを開いてみたり、釣りにはまっていると聞けば公爵領にある大きな池での舟遊びに誘ってみたりしたのだが、そんな私の努力はダニエルにはまったく届いていないようだった。
何をしていても、私を見ていないように感じた。
そうして――時は経ち、十六歳になったダニエルは王都にある王立学園へと入学した。
寮生活を送ることになったため、以前のように簡単には会えなくなってしまったのである。
※このお話は同名の短編小説を長編化したものです。
短編版はこちら
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