9話 有働と霧切
有働は、几帳面な男だ。
学生時代から一度も遅刻や欠席をせず、毎日決めた通りのスケジュールで生きてきた。
社会人になってからは、資格の勉強に励み、定期預金と投資に余念がない。
「未来の自分のため」が口癖で、友人から誘われても、たいていは仕事や将来の計画を優先した。
霧切はその正反対だった。
高校の頃から、ギター一本で各地を巡り、バンド仲間やファンと酒を飲み、ライブのたびに新しい知り合いを増やしてきた。
貯金はゼロでも「なんとかなるさ」と笑い、毎日楽しそうにしている姿がSNSにあふれている。
有働はときどき、スマホ越しにそんな霧切を眺めて、うらやましいような、あきれるような気分になる。
しかし「結局、最後に勝つのは自分だ」と心のどこかで信じていた。
冬、街は冷え込み、夜道を歩く人影もまばらになる。
ある晩、有働が仕事を終えて帰宅すると、マンションの玄関前に霧切が座り込んでいた。
ギターケースを抱え、薄い上着で震えている。
「有働、今夜だけでいい、泊めてくれよ」
霧切は歯を鳴らしながら頼んだ。
有働は溜息をつき、玄関に立ったまま言う。
「なあ霧切、お前、いつも好きに遊んでただろ。
働いて備えとけば、こんなことにはならなかったはずだ。」
霧切は力なく笑った。
「まあな。あのときは楽しかったし、どうにかなるって思ってたんだ。
でも、今は……寒いよ。」
有働はドアを少しだけ開けて、財布から小銭を出すと、霧切の手に握らせた。
「これで何か食って、ネットカフェにでも行け。うちには泊められない。」
霧切は有働を見上げて言った。
「さすがだな、有働。お前らしいや。」
有働は何も言わず、静かにドアを閉めた。
その夜、廊下の向こうに、かすかなギターの音色が消えていった。
有働はベッドで眠りながら、朝が来るのを淡々と待った。
――
小銭の残りはあと二枚。駅前の自販機でホットコーヒーを買い、ベンチに座って一口すする。
指先はかじかみ、寝不足でまぶたが重い。それでも、カップの温かさがじんわり胸まで伝わる。
ギターを取り出し、ひとりきりで小さな音を鳴らす。
道行く人たちはほとんど無関心で通り過ぎるけれど、ときどき小さな子どもや学生が足を止めて、にこっと笑ってくれる。
昼過ぎ、仲間のバンドメンバーから「今夜セッションやるけど来ないか」とメッセージが来る。
腹は減っているが、声がかかると急に元気が出る。
昼は安いパン一つで済ませ、公園の片隅でノートを広げて新しい歌詞を書く。
メロディが降りてきたときの喜びは、どんなごちそうにも勝る。
夕方、カフェのライブスペースで数曲だけ演奏させてもらう。
拍手はまばらだけど、ほんの数人が真剣に聴いてくれたことが何よりうれしい。
マスターが「がんばってるね」とコーヒーを一杯くれた。
「また聴きたい」と言ってくれる客が一人いた。それだけで、少し報われる。
夜、仲間と集まり、笑い合い、くだらない話で盛り上がる。
明日のことは考えない。今だけを生きている。
終電を逃してしまい、今夜も寝床は駅前のベンチだ。
ふと星空を見上げる。冷たい風が顔を撫でるが、不思議と寂しくない。
心に残るのは、歌う自由と、思いがけない誰かとの出会い、今日一日を使い切ったという満足感。
けれど、誰かの家に灯る明かりを見て、ほんの少し胸が痛む。
「きっと、これが俺の人生なんだ」
そうつぶやいて、ギターを抱いたまま眠りに落ちる。
明日もきっと、同じような一日が続くだろう。
けれど、“今日を生き切った”という実感だけは、誰にも奪えない。
この物語は、どこにでも転がっている、ごくありふれた話だ。
そして――人生の正解は、誰にも決められないものなのかもしれない。