表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/30

29話 人生

彼の名は信也。実直な男だった。自分が生きる目的は、ただ一つ。人の道を外さず、人として恥じることのない生き方をすることだった。


若い頃の信也は、まるで別人だった。悪いことばかりして、近所の人々から怒られ、親にも手を焼かれた。夜遅くまで遊び、酒場で騒ぎ、喧嘩もよくした。だが、社会の荒波にもまれるうちに、彼の心は少しずつ変わっていった。


「このままじゃいけない」と思ったのだ。自分の行いが自分を苦しめていることに、やっと気づいた。


両親の勧めで結婚した相手は、美人ではなかったが、気立ての良い明るい女性だった。名は千代子。何事にも苦労を見せず、よく働き、他人を羨むことを知らない人だった。


二人の間には一人の女の子が生まれた。娘はすくすくと育ち、家の中は笑い声に包まれた。信也は貧しい生活の中でも、それを面白がり、妻とよく笑い合った。


海外旅行に行くことも、高級旅館に泊まることもなかった。だが彼は自分の出来ることだけを、誠実に真面目にやってきた。生きるとはそういうことだと思っていた。


年月が過ぎ、信也は70を過ぎた頃、体調を崩した。医者から「がん」と告げられたが、彼は特に驚かなかった。


「この歳まで無事に生きられただけで、私は幸せでした」と穏やかに言った。


「できるだけ苦しまないように、あの世に連れて行ってください」とも。


医者は彼の希望を尊重し、治療ではなく痛み止めを多く投与した。


信也は三ヶ月後、静かに息を引き取った。


妻の千代子も深く悲しんだが、夫の生き方をよく知っていた。自分もまた同じように、静かに、笑顔で死にたいと思った。


そして五年後、千代子は旅立った。二人とも、死に際は笑顔だった。


信也の人生は、波乱に満ちた若き日から、実直な晩年まで、平凡で、しかし確かな尊さを秘めていた。


それは、誰にでも訪れる普通の生の美しさの物語だった。


彼の名は隆司。若い頃から時代の流れを読む目が鋭かった。

経済の仕組みや株式の動き、各国の制度を熟知し、それらを巧みに利用して若くして大金持ちの階段を駆け上がった。


周囲には常に女性が絶えず、贅沢な遊びに耽る日々。

だがその資金の源は、彼が作った巨大な老人ホームの経営からだった。

国からの補助金を巧みに引き出し、施設の職員には最低限の給料しか払わなかった。

老人たちが亡くなり、身寄りがなければ、その貯金もまた彼の懐に合法的に吸い込まれていった。


社会の抜け穴を知り尽くし、税金を、自らの利得を最大化することに長けていた隆司。

彼にとって、生きることは快楽の連続であり、死ぬことなど考えられなかった。

できる限り長く、楽しい日々を続けることだけが人生の目的だった。


しかし、歳月は無情に過ぎ、70歳を迎えたころに癌とから隆司の人生は徐々に変わり始める。

いつしか彼を慕う者は誰もいなくなっていた。

衰え、体力を失い、力のない姿になると、人は離れていった。


「もう限界だ」と医者から告げられても、隆司は認めなかった。

最新の治療法を総動員し、何度も体調は回復した。

しかし糖尿病やがんの苦しみは消えず、延々と続く闘病の日々に彼は苛まれた。


90歳の誕生日を過ぎた頃、ついに全身にがんが広がり、打つ手がなくなった。

それでも隆司はあがき、天を睨みつけながら叫んだ。

「俺は生きている! 死ぬわけにはいかない!」


しかし、彼の心は誰にも届かず、静かに息を引き取った。


その後、子供たちによる相続争いが始まり、

隆司が築き上げた養老院システムは瓦解、経営破綻を迎えた。

施設は閉鎖され、かつての繁栄は虚しい過去となった。


隆司の人生は、富と権力に彩られた成功のように見えたが、

最後に残ったのは孤独と破滅であった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ