27話 プロポーズ
草原の上に据えられたベンチに、玲奈と拓也は並んで座っていた。
山の中腹、町の灯りが遥か下にきらめく夜。澄みきった空気を吸い込みながら、ふたりは言葉少なに夜空を眺めていた。まるでこの場所だけが世界から切り離されたように、静けさに包まれている。
玲奈は手のひらを膝に重ねて、時折そっと拓也の横顔を見た。拓也はポケットに手を入れ、緊張を隠すようにゆっくりと息をつく。
草の匂い、虫の声、遠くの町の小さなざわめき――それらがふたりの沈黙をやさしく満たしていた。
「なんだか、不思議な夜だね……」
玲奈がぽつりと言った。
拓也は笑って、「君とここにいると、どこでも不思議な夜になるよ」と返した。
玲奈は、ふっと小さく笑った。「ありがとう。……本当に、来てよかった」
「俺も。なんだか、夢を見てるみたいだ」
ベンチの下では、草むらの露が冷たく光っている。拓也は玲奈の手に気づき、そっと自分の手で包んだ。
玲奈は驚きながらも、すぐに微笑む。「あったかい」
「玲奈の手も」
ふたりの影が月もない夜の草原に長く伸びている。星々が空一面にきらめき、風が二人の髪をなでていく。
「星、すごくきれいだね」
「うん。星座とか、知ってる?」
玲奈は首を振った。「あんまり……でも、小さい頃はよく星の絵本を見てたよ」
拓也は指を伸ばし、「あれが夏の大三角、あっちが北斗七星」と夜空を指し示す。玲奈も目をこらして「ほんとだ……」と息をのむ。
「星座の話、もっと聞きたい」
「じゃあ、全部教えてあげる」
二人は頭を寄せあい、星の名前を探したり、遠い星の物語を語り合う。
夜の空気が少しずつ冷たくなってきた。玲奈が小さく肩をすくめるのを見て、拓也はそっと上着を彼女の肩にかけた。
「ありがとう」
「風邪ひくと困るからさ」
しばらく静けさが流れる。ふたりの間には、言葉以上の温かさが広がっている。
ふと、玲奈が空を見上げて指さす。「見て……月が出てきたよ」
東の空に、丸い月が顔を覗かせていた。
その大きさに、ふたりは思わず息を呑んだ。
「なんだか、今日の月は特別だね」
「うん……すごく、近い気がする」
月はまるで地平線からのぼる太陽のように巨大で、白銀色の光があたりを照らしていく。草原の影が一気に濃くなり、ベンチの背もたれが闇にくっきりと浮かびあがる。
玲奈は月をじっと見つめていた。
「……きれい。でも、ちょっとこわいくらい大きい」
拓也も月から目を離せずにいた。
「……ほんとに、今日は特別だ」
しばらくふたりは、言葉もなくただ月を見上げていた。
月明かりが玲奈の髪を銀色に染め、拓也の瞳にも白い光が映っていた。
拓也はそっと玲奈の手を取り直し、胸ポケットから小さな箱を取り出した。
鼓動が高鳴る。指先が少し震える。
「玲奈……俺、ずっと君と一緒にいたい。――結婚してください」
玲奈は驚いたように顔を上げ、そしてすぐに涙がこぼれた。
「……うん、ありがとう。嬉しい……」
小さく、けれど確かな声でうなずいた。
拓也はそっと、震える手で指輪を玲奈の左手にはめる。
玲奈は涙を拭い、満面の笑顔を浮かべた。
ふたりはそっと抱き合った。
幸福な沈黙のなか、月だけが二人を照らしている。
「幸せだね」
「うん……すごく」
――そのまま時が止まったようだった。
しかし、やがて月は、さらに大きく、さらに明るくなっていった。
玲奈が不安げに月を見上げる。「……さっきより、もっと近づいてる?」
拓也も目を凝らす。「確かに……こんな夜、見たことないよ」
月明かりはもはや草原を昼間のように照らし、影は異様に濃く長く伸びている。空から星がいくつか消え、夜空の色が白くぼやけはじめていた。
「……ちょっと怖いくらいだね」
玲奈の声が震えていた。
拓也はそっと肩を抱く。「大丈夫、俺がいるから」
風がぴたりと止み、虫の声も遠くへ消えた。
月の模様が異様なほど鮮明に見え、ふたりの周りの空気まで張り詰めたように静まり返る。
遠くで何かがきしむような、低い地鳴りのような音が聞こえた。
玲奈が小さく身をすくめる。
月は空の半分を覆うほど巨大になり、影が地面いっぱいに広がっていく。
「……こんなところに僕が君を連れてきて、ごめん」
拓也が絞り出すように言った。
玲奈は首を振る。「そんなことない。あなたと一緒なら、いつ死んでもいい」
涙ぐみながら、玲奈は拓也の手を握り返す。
ふたりはベンチで寄り添い、月明かりに包まれながら、世界にふたりきりでいるような静けさに身を委ねた。
草原の闇と、月の異様な光。愛と不安が重なり、夜はまだ終わらない――
月は、まるで生き物のように、静かに、しかし確実に大きくなっていった。
その光は今や夜を完全に塗り替え、草原も、木々も、ふたりの顔さえも白く浮かび上がらせていた。
玲奈は目を細めて空を見上げた。「こんな月、見たことない……」
拓也も月から目を離せずにいた。空の星はほとんど消え、町の灯りも次々と滅びてゆく。
遠くから、不穏な音が低く響く。大地が、何か大きな力に引かれるように、ゆっくりと震えていた。
「月が、もっと近くなってる……」
玲奈の声がかすれる。
拓也は玲奈の肩を強く抱き寄せ、「大丈夫。俺がいるから」と何度も繰り返した。
しかし、世界はすでに変わりはじめていた。
山の稜線がぐらりと歪み、森の木々がざわざわと不安に揺れ、
草原の小石や枯葉がふわりと空中に舞い上がる。
ふたりの身体まで、地面からそっと持ち上げられるような、奇妙な浮遊感に襲われた。
「……怖いよ、拓也」
玲奈は泣きそうな声で呟く。
拓也は玲奈の手をしっかりと握り返し、「絶対離さない」と誓うように言った。
月のクレーターが、今や肉眼ではっきりと立体的に見えた。
それはまるで、巨大な顔がこちらをじっと睨みつけているようだった。
「どうして……こんな……」
玲奈は涙をこぼし、震える声で問いかける。
拓也は何も答えられず、ただ玲奈の肩を抱きしめて、目を閉じた。
遠くの町では、建物が崩れ始めていた。
川の水が逆流し、湖が盛り上がり、
山が音を立てて崩れていくのが見えた。
時おり大地が大きく波打ち、草原そのものが浮かび上がりそうな気配だった。
「もし、これで全部終わりになっても――」
玲奈は息を詰めて、拓也の顔を見た。
「私、あなたと一緒なら、怖くない。……ここに来てよかった」
拓也は玲奈の頬を両手で包み、「俺も、玲奈とここにいられてよかった」と応じた。
ふたりは、世界が崩れ落ちていくなかで、抱き合いながら静かに言葉を交わす。
月はさらに迫り、空はほとんどが白い光で満たされた。
重力は乱れ、ふたりの体が徐々に地面から浮かび上がっていく。
ベンチも草原も、まるで重さを失ったように舞い上がる。
拓也と玲奈は、空中で手を取り合い、互いの存在だけを確かめる。
「……もし、生まれ変わっても、またあなたと出会いたい」
玲奈が涙声で呟いた。
「俺も、絶対に玲奈を探す。たとえ何度でも」
拓也も涙を流しながら答える。
世界が、音も色も飲み込んで、ついに白い光だけがすべてを覆った。
*
――気がつくと、拓也と玲奈は、冷たいシートの上に横たわっていた。
それが「現実」だと気づくまで、ふたりはしばらく身動きができなかった。
目の奥に、まだ眩しい白い光と月の残像が焼きついている。
玲奈は、涙を浮かべたまま、ゆっくりと体を起こした。
拓也もぼんやりと天井を見上げ、何が起きたのかを呑み込むのに時間がかかる。
カプセルのフタがゆっくりと自動で開いた。
ガラスの向こうでスタッフが、やさしく「お疲れさまでした」と手を振っている。
――ここは、「ルナ・エスケープ」。
最新型の完全没入型3D映像カプセル。
カプセルの中に入った瞬間から、現実も記憶も区別がつかなくなると評判の装置だった。
拓也も玲奈も、体験があまりにリアルだったせいで、入っていたことさえ完全に忘れていた。
玲奈は顔を両手で覆い、小さく息を吐く。「……すごいね、こんなに現実そっくりなんて」
拓也は、玲奈の顔を見て苦笑した。
「……緊張して、少し設定を間違えたみたい」
玲奈は涙声で笑い、「ほんと、バカ。でも、あなたと一緒なら、どんな終わりでも怖くなかったよ」と応じる。
ふたりは顔を見合わせ、ふっと笑い合った。
無意識のうちに、ふたりの手はしっかりと繋がれていた。
外へ出ると、そこには本物の夜風と、ささやかな町の灯り、遠くの山の端に小さな月が浮かんでいた。
玲奈は空を見上げ、「やっぱり、月は遠くでいいね」と小さく呟く。
拓也は「もう一度、現実でプロポーズしてもいい?」と照れくさそうに言い、
玲奈が「何度でも受けるよ」と応えて、ふたりはゆっくりと歩き出した。
恐怖も幸福も、終わりと始まりも――
すべてが、いまこの手のぬくもりの中に、確かに残っていた。