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24話 永遠に終わらない話

 時も国も超えた、不思議な広間。

 大理石の円卓をはさんで、ギリシャの哲人ソクラテスと、東洋の僧弘法大師空海が静かに対座していた。柔らかな光が部屋を包み、彼らの影は揺れもせず、静けさの中に時間だけが溶けていく。


 「こうしてお会いできるのは、何かの縁でしょうか」

 ソクラテスが優しいまなざしで語りかける。

 空海はゆっくりと頷いた。「魂の対話には国も時も関係ありません。こうして相まみえること自体が、宇宙の不思議でございましょう」


 ソクラテスはトガの裾を整えながら、「あなたは、この世において“人が善く生きる”とは、どういうことだとお考えですか」と問う。

 空海は数珠を撫で、しばし目を閉じてから静かに答えた。「人は、自らの本性を知り、執着を離れ、慈悲と智慧の行いを積むべきです。そうして、他者の幸せを自らの幸せとする――それが“善”の道だと思います」


 「本性、ですか」とソクラテス。「では、“本性”とは一体何なのでしょう。善き人間の本性、というのは定義できるものですか」


 「すべての存在には“仏性”が宿ります。それは、本来の自己に目覚めるということです」


 「仏性……それは“魂”のようなものですか?」


 「似ているかもしれませんが、“仏性”は全てに平等に備わる光、いわば“くう”の働きにほかなりません」


 ソクラテスはすぐに問いを重ねる。「“空”とは、無である、という意味ですか?“何もない”のですか?」


 空海は静かに首を振る。「“無”ではなく、あらゆるものが因縁によって現れ、実体を持たないという真理です。全ては仮の姿です」


 「すると、あなたは“善”も“悪”も、結局は仮の姿にすぎないとお考えですか?」


 「善悪の本質も、心の執着によって生じるものです。“空”を知り、執着を離れれば、善悪を超えたところに至ります」


 ソクラテスは一瞬だけ口元に微笑を浮かべた。「その“執着を離れる”というのは、どうすれば実現できるのです?」


 「修行と瞑想によって、心の波を静め、自分の本来の姿に気づくことです」


 「なるほど。しかし、私は言葉と対話によってこそ人は己を知り、真理に近づくと思っています。“善”や“徳”を定義し、理性によって高める道です」


 空海は目を細める。「理性も大切な道具です。しかし、それだけでは真理の半分しか見えません。体験し、実感することで、初めて“悟り”が訪れるのです」


 「では、あなたは“悟り”を得たと言えるのですか?」


 「修行は続きます。私もまだ悟りの途中です。ただ、“知らないことを知る”――それが最初の一歩です」


 ソクラテスは嬉しそうに頷いた。「それは、私の“無知の知”と同じですね。自分が無知であることを自覚するところから、すべてが始まるのです」


 しばしの沈黙のあと、ソクラテスが語る。「では、“徳”とは何でしょうか。あなたは、どんな状態を“徳”と呼ぶのですか?」


 空海は静かに語る。「仏性に目覚め、迷いから離れ、すべての命を自分と同じように慈しむこと。それが私の思う“徳”です」


 「あなたの“徳”は、誰にでも身につくものですか?」


 「本来、すべての人に備わっています。ただ、執着や煩悩によって覆い隠されているだけです」


 「それは、理性で除き去ることができるものですか?」


 「理性も一つの方法ですが、心身を整え、日々の行いを正すことで、少しずつ煩悩の雲は晴れていきます」


 ソクラテスは目を輝かせる。「苦しみや欲望をどう乗り越えるか、それが“徳”を身につける鍵ですか?」


 空海はうなずく。「“欲”は心の渇きです。それにとらわれず、受け入れ、離れること。それが修行です」


 「“苦しみ”は、どうですか? 苦しみがあるからこそ、人は賢くなれるのでしょうか」


 「“苦”は悟りへの入口です。“苦”の意味に気づき、そこから離れることで、人は新たな道を見いだせます」


 「苦の意味――それはどのようにして見いだされるのでしょう」


 「苦しみの只中にあっても、心を静かに観察し、その背後にある真実を見極めることです」


 ソクラテスは深くうなずく。「それは、私の探求とも似ている。

 しかし、あなたのいう“仏性”や“空”は、言葉では捉えきれぬもののようですね」


 空海は微笑んだ。「言葉ではすべてを語りきれません。ですが、こうして語ること自体にも意味があると思います」


 そうしてふたりの対話は、ますます深く、ますます細分化していった。

 「正義とは何か」「愛とは」「生きるとは」「死とは」……

 問いが尽きることはなかった。


 やがて、ふたりの問答は果てしなく枝分かれし、ひとつの定義や答えに決して収束しないまま、円を描くように続いていく。


 「正義とは、誰のためのものですか?」

 ソクラテスの問いに、空海は「正義は本来、誰か一人のためではありません。全ての命に等しく注がれるべきものです」と応じる。


 「だが、全ての命に等しく正義を注ぐことは可能でしょうか?現実には時に、正義と正義がぶつかります。あなたはどう判断しますか」


 「それは人の心の段階によります。大日如来の慈悲と智慧に照らし、自分の立場を一度離れ、全体を観ることが求められます」


 「その“慈悲と智慧”とは、定義できますか?それとも、感じるものですか?」


 「どちらもです。知識として学び、行動で示し、実感として体験し、時に失敗から学ぶものです」


 「あなたは“体験”や“悟り”を重んじますが、私は“議論”と“言葉”こそ人が真理に近づく唯一の手段と考えます。もし体験が主観なら、議論もまた主観ではありませんか?」


 空海は微笑み、「そのとおりです。ですが、主観を否定せず受け止め合うことが“共感”を生み、それが社会の和となります。真理は一つでも、道は無限です」


 「では、私とあなたが真理をめざして別の道を歩むことも、“和”なのでしょうか」


 「和を乱さず、それぞれの道を尊重し合うこと。それこそ仏教でいう“縁”です」


 「だが、そもそも“和”とは何か?国家や社会の“和”と、個人同士の“和”には違いがあります。大多数が同じ方向を向く“和”もあれば、対立を抱えたまま調和する“和”もある。あなたは、いずれを尊ぶのですか?」


 「分裂したまま和を求めることも、和そのものです。矛盾を抱えつつも共に在る。それがこの世の本当の在り方です」


 ソクラテスは苦笑した。「なるほど、あなたの“和”は論理の外にも及ぶのですね。しかし、論理で割り切れないことを受け入れるのは、哲学者にはなかなか難しい」


 空海は静かに言う。「私は論理も好きです。ですが、論理の先に、言葉を超えた真理があると信じています」


 「真理は“体験”の先にある? それは“死”の先にあるのでしょうか?」


 「死とは、終わりではありません。新たな変化、縁起の連鎖です。人も宇宙も、輪廻のなかにあります」


 「私は“魂の不滅”を信じてはいますが、それを証明する言葉は持ちません」


 「信じること自体が、仏教でいう“発心”です。信と疑、両方が大事です」


 「私は“疑う”ことばかりして生きてきました。それが徳や善への道だと信じて」


 「疑うことは素晴らしい。だが、やがて疑いの果てにも、“静けさ”が訪れます」


 「私の“静けさ”は、永遠に訪れそうにありません」

 ソクラテスがため息まじりに呟く。


 「それでも、問い続けること自体が、尊い道です。私も、問い続ける修行者でしかありません」


 ふたりの対話は尽きることがなかった。

 時には“勇気とは”“名誉とは”“恥とは”“運命とは”と、枝分かれし、

 時には、論理と論理がぶつかり、静かな笑いとともに結論なく円を描いていった。


 やがて、ふたりは静かに席を立つ。


 「あなたの問いに、私はまだ応えられません。ですが、いつか“体験”を通じて理解できる日が来るかもしれません」


 「私も、あなたの問いかけを修行の糧といたしましょう。互いに道を歩み続けましょう」


 ソクラテスは、まだなにか言いたそうな表情で空海の後ろ姿を見つめていた。しかし、空海はゆっくりと背を向け、静かに歩み去っていく。

 その背中は、広間の光のなかに溶け、次第に見えなくなっていった。


 ソクラテスはふと肩をすくめ、円卓の中央に残された数珠にそっと手を伸ばす。

 「言葉の届かぬ場所――そこにもまた、知恵の一端があるのかもしれんな」


 その独り言を残し、ソクラテスもまた背を向け、ゆっくりと自らの道へと歩き始めた。


 かくして、対話は終わることなく――

 哲人と僧侶の問いと答えは、永遠に響き続けるのであった。

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