19話 錬金術師の記憶
昔むかし、ある小さな国に、一人の錬金術師が住んでいた。
その男は年老いた魔法使いとも、奇妙な学者とも呼ばれ、村はずれの石の塔にひっそりと暮らしていた。
錬金術師の名は誰も覚えていない。だが、彼の噂はどこまで広がっていた。
彼の作る薬は、どんな病も治し、どんな鉱石も金に変えた。
最初は村人たちも遠巻きに眺めていたが、一人の少年が「病気の母を助けてほしい」と塔を訪ねてきた。
錬金術師は黙って薬を差し出し、少年の母はたちまち元気になった。
それ以来、村人たちの頼みごとが増え、村には静かな活気が生まれた。
やがて隣町からも、王都からも使いがやってきた。
「この石を金に変えてくれ」「兵士を不死身にしてほしい」「王様の寿命を延ばしてくれ」
頼みごとは日増しに大きく、強くなっていった。
錬金術師は誰の願いも断らず、静かにうなずいては魔法陣を描いた。
ある日、ついに王様自らが塔に現れ、命じた。
「国中を黄金で満たせ。富と繁栄を永遠に約束しよう」
錬金術師は黙って頷き、満月の夜、塔の天辺に大きな錬成陣を描いた。
朝が来ると、国中がまばゆい黄金色に染まっていた。
村も町も王宮も畑も森も、石ころも家畜も――なにもかもが黄金に変わっていた。
人々は歓声を上げ、「これでもう貧しさに悩むことはない!」と叫んだ。
しかしすぐに、おかしなことに気づく者が現れた。
パンは固く、歯が立たない。
井戸の水も黄金になり、飲むことができない。
畑も森も、家も家畜も動物も、命の気配を失っていた。
王様は錬金術師を呼び出し、「もとに戻せ!」と怒鳴った。
錬金術師は静かに首を振るだけだった。
「金を望んだのは、あなたたちでしょう?」
彼はそうつぶやき、塔の上から静かに世界を見下ろしていた。
数日後、国は沈黙に包まれた。
動くものはなく、きらきらと黄金だけが、朝日を浴びて静かに輝いていた。
村人も王様も誰もいなくなり、ただ黄金の世界だけが残った。
何百年もあと、伝説だけが人々の間に残った。
「昔、この国は一度だけ、世界中が黄金になったことがあった」と。
だが、なぜそうなったのかは誰も知らなかった。
ただひとつだけ、忘れられずに語り継がれたものがあった。
――
今でも、朝日が差すとき、誰もいない塔の上で、あの男の笑みがきらりと光るという。