16話 彼をしり己を知る
彼の名は芦田だった。
若くして博士号を取得し、理論科学の分野では誰もが一目置く天才だった。しかしその名声と裏腹に、彼の傲慢さは周囲から忌み嫌われていた。
会議では人の意見を鼻で笑い、同僚の論文を「くだらん」と切り捨てる。
芦田は、次々と前人未到の発明を世に送り出していった。
「自己修復型ナノマテリアル」
――傷を自ら感知し、数分で元通りに復元できる夢の構造素材。
「遠隔思考伝達装置」
――言語を必要とせず、脳の情報そのものを相互に送受信できる通信デバイス。
「超高効率室温超伝導体」
――どんな環境でもエネルギーロスをゼロにする究極の新素材。
「生体リズム自動最適化AI」
――個人の健康状態を常時モニターし、自律神経や睡眠、栄養、活動スケジュールまで最適に調整するプログラム。
「自我進化型AI倫理判断エンジン」
――人工知能自身が状況に応じて“人間の倫理観”を自律的にアップデートできる、かつてない学習アルゴリズム。
どれも世界の科学技術史に残る大発明だった。だが、
「これが理解できない奴は“科学者”と呼ぶ資格がない」と芦田は公言した。
誰も手を貸そうとはしない。
学会の壇上で一人、冷たく輝くスポットライトの下、芦田の言葉だけが虚しく響いていた。
研究室にこもる時間が増えた。どんな画期的な成果を上げても、誰も拍手しない。仲間の反応もない。
芦田は自分の影に押し潰されそうになり、やがて“人と接するのが怖い”とまで思うようになった。
そんなある日、彼はふらりと古本屋に入った。時代遅れの学術書の山を眺めながら、手に取った一冊の端に、付箋のような紙切れがはさまっているのに気づく。
「我が研究はすべて、“彼を知り、己を知る”の精神に基づく」
手書きの文字が、芦田の目に焼きついた。
その場に膝が崩れそうになった。
“なぜ俺はこんな単純なことに気づけなかったのか……”
これこそが、全ての研究の本質ではないか。
研究対象を徹底的に分析し、同時に自分自身の力や限界を冷静に見極める。
ただそれだけのことが、なぜできなかったのか。
その“彼を知り、己を知る”という言葉が、芦田の中でゆっくりと拡がっていく。
研究だけでなく、日常も同じだった。
人と向き合うには、相手を知り、自分を知ることだ。
これまで芦田は、ただ一方的に自分の意見だけを押し通してきた。
相手の考えや立場を想像し、そこから自分の態度ややり方を変えることなど一度もなかった。
彼は研究ノートを閉じた。
翌日から、芦田は同僚の論文を丁寧に読むようになった。後輩の相談にも静かに耳を傾け、会議ではまず人の意見をじっと聴いた。
最初は皆、訝しんだが、芦田の態度は確かに変わっていった。
数年後、彼の提案はようやく周囲に受け入れられるようになった。
芦田はいつしか“人と分かり合える”喜びを知り、同時に自分の考えもさらに深まった。
やがて日本を代表する研究者となり、多くの後進を育てる立場となった芦田は、若い弟子たちにこう語った。
「傲慢だからこそ突き進めることがある。だが、傲慢なだけでは何も成し遂げられない。
人生とは、まさにその逆説に満ちているんだよ。
『彼を知り己を知る』――この極意を本当に極めたとき、君たちはきっと、私を越えていけるはずだ。」